第56話 「クロノス」
「―ハーデースよ―
―お前は何もわかっておらぬ……!―」
黄金王クロノス様が息子“ハデス”に告げる。
「―お前が我らティタンの覚悟を認めたとて無意味だ―
―何故ならお前は、一切考えを変えてはおらぬのだからな――」
……確かに、その通りだ。
私から見て、あの“ハデス”がアトラスの必死の抵抗に心を打たれ様には見えた。
だが“ハデス”は、初めから「オリンポスに掛け合う」としか言っていない。
「―それとな、我らが何故、禁を犯してまで地球に帰ったかわかるか?―」
「―それは、ティタンの権利を主張する為に――」
「―違う……!――」
“ハデス”は迷うことなく答えた。
しかしクロノス様は、残念そうに首を横に振った。
「―わからぬか?―
―アトラスが何故、今になってお前に立ち向かったのかが?―」
その問いかけに、“ハデス”は一瞬黙った。
「―……それが、人間だから?――」
出たのはかつての友、プロメテウスの言葉だった。
勝てないとわかっていて、それでも己が心に従って時には無謀な戦いをするのが人間であると、彼は言っていた。
「――違う――
―その様な抽象的な事ではない―
―もっと単純な理屈だ―」
「―……単純?――」
「――来なさい――」
クロノス様は優しい口調で後ろを振り向き手招きした。
従者に引かれた馬に、小さな二人の男女が跨っている。
アポロンとアルテミスだ。
「―アポローン、アルテミス―
―お前たちは、何を望む?―
―おじいちゃんに話しておくれ――」
クロノス様は大きな手で小さな孫たちを包んだ。
二人は初めはビックリして身構えたが、ホッとしたように大きな指を握りしめた。
「わ、わたしたちは……!」
アルテミスが何かを言おうとした。
気の小さい弟に代わり、姉として気丈に答えようとしていた。
だが、言葉が出ないようだった。
「ボクたちは! お父さんに会いたい!!」
「アポ!?」
気弱な弟の大きな声に、アルテミスは驚いた。
クロノス様は必死に話すアポロンに穏やかに笑いかけた。
「―そうかそうか―
―で? 会ってどうしたい?―」
「お母さんに謝れ!! って言いたい……!」
「そうか」とクロノス様は指でアポロンの頭を撫でた。
「―アルテミスは?―
―何かやりたい事はないのかい?―」
「わ、わたしは……!
王さまはおじいちゃんがいい!
こんなに優しい王さまだもの!
父は王さまなんかじゃない!!」
「よしよし」と泣きじゃくるアルテミスをクロノス様は宥めた。
「―これが答えだ―」
「―はい?―」
“ハデス”は固まっていた。
彼には全く意味がわからないらしい。
「―わからぬか?―」
「―まさか、子供のお願いとやらで反逆したとか言わないよね?―」
「―その、まさかだ―」
「―……笑えない冗談だ―
―そんな子供のワガママに、ティタンの命運を懸けるというのか?―」
「―如何にも!――」
「――……理解に苦しむ―
―投獄されて錯乱してしまったのか?―
―あなたはもう少し賢明な人物と思っていたんだが?―」
“ハデス”はやれやれと頭を抑えた。
「―子供の理屈を出してくる時点で論外だけど―
―そもそも、その子たちを口実にして責任を擦り付けているだけじゃないのか?―
―だとするなら、話にならないよ―」
「―それはそうだ―
―この子らに責任なぞあろう筈も無い―
―これはあくまで予が、再び立ち上がった理由に過ぎぬ―
――今一度! “王”として君臨しようとな!!――」
クロノス様は堂々と宣言した。
その偉容に、敵対している筈の私でさえ嬉しさのあまり震えてしまった。
「―……本気で言ってるのかな?―」
「―無論!!―」
「―……親父は、人類の可能性に懸けたんじゃなかったのでは?―」
「―だからこそだ!―
―今のティタンはかつてとは違う!―
―“王”でなくなった予に、それでも忠義する大勢の民たち!―
―そして! かつての様に盲信するのみではなく!―
―時に予を諫め! より良い未来を築こうと躍進しておる!―
―ティタンは変わった!―
―かつての! “獣の民”ではなくなった!―
―故に! 我クロノスは!!―
―皆に求められる“王”として!―
―真の黄金郷を創りたい!!――」
クロノス様の宣言に、私は涙して聞き入ってしまった。
言ってることは滅茶苦茶かもしれないが、それでも良いのでは? と思えた。
となりで聞き惚れているヘカテも同感であろう。
「―……また“王”に君臨したいと?―
―そんなにもヒトを支配したいのか?―」
「―ただ、民に求められる存在でありたい―
―“王”など称号に過ぎぬ―」
「―……民に求められるなら、何でもすると?―」
「―何でもはせぬ―
―予と民―
―互いに理解合意した上で、理想の世界を築いてゆく!―」
「―……そうか―
―わかった……―
―……つまり、冥府の指示には従わないんだね?―」
「―そうだ―
―我らは真の自由を得る!―
―それに意を唱えるのであれば!―
―例え冥府であろうとねじ伏せる!!―」
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおう!!!!」」」」」
クロノス様の宣言に、ティタンの民は歓喜の叫びを轟かせた。
それこそが、全ティタン族の総意であると。
「―また、繰り返すのか?―」
“ハデス”の言葉に、沸き立った歓声が静まり返った。
「―その度に数多くの命を消費して―
―二度と同じ轍は踏まないと誓って―
―結局ヒトは、同じ過ちを繰り返す―
―それが生きるという事だとでも言いたげに――」
「―……ハーデース――」
「―別に愚かだとは思わない―
―より高みを目指し試行錯誤することは良いことだ―」
“ハデス”は彼らに一定の理解を示した。
「―だが、今回は駄目だ―
―法に触れている―
―君たちティタンも承認した法律だ―
―君たちは、自らの命と引き換えに自由を差し出した―
―ならば、命は懸けてはならない―
―だから、誰一人死なせる訳にはいかない――」
“ハデス”は未だ仁王立ちを続けるアトラスを指差した。
「がはっ!!?」
「――アトラース!?――」
クロノス様がアトラスを抱き寄せた。
「――まだ生きておる!!――」
「―当然だよ―
―彼に死なれては俺が困る―
―急所は外しておいた―」
……心臓を貫いたと思っていた。
よかった……!
アトラスは助かるらしい……!
「――クロノス!――」
“ハデス”が“畏れ”を強めて呼んだ。
「――最終勧告だ!――
――冥府に帰投せよ!!――」
「――断る!!――」
そして、“威光”によって決裂した。
「――ならば、仕方ない――
――処刑の時間だ――」
「――是非も無し!――」
そして、“王”と冥王の戦いが始まった。
「――離れよ!!――」
クロノス様の“命令”でティタン勢は勿論、敵方である我々も一斉に距離を取った。
「……ヘカテさん!
ついに恐れていた事態に……!」
『……いいえ。
こうなる事は必然でした』
「え……?」
『避けられない戦いです』
「覚悟の上だったと?」
『……ハデスは、誰も死なせぬと言った。
ならば、信じる他はありません。
それでティタンが生き延びるのであれば――』
「……だから、冥府側についたのですか?」
『冥府に肩入れした訳ではありません。
今回はたまたま、ハデスと利害が一致したに過ぎません。
そこを努々忘れなきよう――』
……そうだった。
プロメテウスも言っていた。
ヘカテはあくまで、ティタンの為にハデスと協力関係になったと。
『そしてもう一つ、忘れてはなりません。
“ハデス”の“力”は未だ冥府に封じられたまま。
最強の王といえど、クロノスに勝てるとは限りません』
ヘカテは、凄惨な笑みを浮かべて言った。
「まさか、ヘカテさん?
それを見越して裁判長を連れてきたのですか?」
『うふふ。
そんなつもりはありませんが――。
まあ、それも、悪くありませんね――』
……どこまでが本心か判別できない。
だが、おそらくどちらも本心であろう。
ハデスがティタンを屈服するならそれも止む無し。
もしハデスが敗れるならば、ティタンに味方するのみ。
おそらく、そういう算段であろう。
『しかし、それでも“ハデス”は誰よりも強い。
おそらくクロノスさえも、彼には勝てないでしょう――』
ヘカテは悟った様に語った。
しかし、実際はどうだろう?
冥府を巡る五つの人工太陽。
“ハデス”が切り離した、“力”の源。
今はその一つしか、彼の中に還ってはいない。
そこまで弱体化しているからこそ、人であるアトラスの攻撃が通用したとするなら、“王”であるクロノス様に対抗できるかどうか。
しかもクロノス様には何の制限も無い。
五分の一の本気で、果たして勝てるのか? ハデスは――。
「――我が血は拒絶する!!――」
クロノス様が自ら指を切り、神血を飛ばした。
それがそのまま斬撃の様に“ハデス”に襲い掛かる。
“ハデス”は幾重もの斬撃をかわしながらクロノス様に詰め寄る。
しかし、僅かに掠った腕から、黒い血を噴き出していた。
「――ッ!――」
クロノス様は攻撃の手を緩めない。
全てを拒絶する無数の斬撃を飛ばし、“ハデス”の行動を制限してゆく。
そして――。
「――ッ!!――」
ついに、“ハデス”に深手を負わせた。
「――初めての試みであったが、上手くいったな――
――どうだ?――
――ハーデースよ――
――今のお前に、予を止められるか?――」
クロノス様は静かな口調で問うた。
その物言いは“ハデス”の弱体化を見抜いている様だった。
「――止めるよ――
――親父を止めるのに、“太陽”ひとつで十分だ――」
“ハデス”の返しを最後に、二人の動きが加速する。
一瞬で幾つもの攻防を切り返し、無数もの残像を残してゆく。
いったいどれ程の命のやり取りを繰り返すのだろう?
だが私の目でも認識できる瞬間が訪れた。
最初に目に入ったのは“ハデス”だった。
「――ぐを!――」
声は、クロノス様のものだった。
一見すると無傷に見える。
対して“ハデス”には無数の切り傷があった。
しかし――。
「――お……おお……おおおおおおお……―」
クロノス様の様子がおかしい……!
そのお姿からオーラが薄れていく気がする……!
徐々にだが、美しい肉体に陰りが現れ始めた……!
髪には白髪が……!
顔には皺が……!
おおお! ……おおおお!!
「おお……おおおおお……おお…………」
クロノスは、ただの老人と成り果てた……!
「「「「「おおおおおおおおおおうぅ……!!!」」」」」
「“ハデス”!!! 貴様!!!」
気が付けば叫んでいた!
ティタンも! 私も!
「――落ち着け!――」
恐怖で我を取り戻した。
……だが、まだ頭が混乱している。
とても、現状を受け入れられない……!
……だって、あんなにも素晴らしい“王”を……!
……あんなにも変わり果てた姿に……!
『落ち着きなさい』
「あ!? はい……」
ヘカテに直接精神に語り掛けられ、ようやく正気に戻れた。
「……ヘカテさんは平気なのですか?
クロノスを……! あんな……!!」
『クロノスはクロノスですから。
……枯れたお姿も渋くて素敵!』
……すごい!
ここまでくると、認めざるを得ない!
流石は一流の変態である!!
『変態は余計です』
「……すみません!
しかし、どうなったのですか? これは?」
私には現状何が起こったのかがよくわかっていなかった。
ただ、クロノスが“ハデス”に何らかの攻撃をされて老人化した事だけはわかる。
しかし、いったいどんな……。
「……これは……?」
クロノスの言葉からは“言霊”の力は消えていた。
普通の、ただ渋いダンディな声である。
「親父の体内に核エネルギーを打ち込んだ」
ハデスもまた、通常の状態に戻っていた。
「かく……エネルギー?」
「簡単に言うと超強い毒だよ。
親父の身体はその毒を抑えようと全細胞が抗っている状態だ。
だがその影響で代謝能力が極限にまで低下し、今の状態に陥っているんだよ。
本来不老不死ともいえる親父の治癒能力を以ってしてもね」
「……そ、そんなことが……!」
「良かったじゃない?
これで親父も、“普通”になれた」
その言葉に、ゾクリと寒気が走った。
「何が良かっただ!!」
「陛下を!! 陛下を元に戻せ!!」
「おいたわしや!!」
ティタンから絶え間ない罵詈雑言の嵐が湧いた。
私はこの光景に強い既視感を抱いていた。
これは“ハデス”がコレーを幼児化させた時と同じだ。
「悪いけど、今すぐ元には戻らない。
この毒は強い持続性がある。
おそらく二万年以上は消えないだろう。
でもまあ、それぐらいの期間があれば人類も学ぶだろう。
全ての人が、どう生きるべきかをね――」
「……ひ!」
思わず悲鳴が上がった。
『わかりましたか?
これが“ハデス”の、真の恐ろしさです。
彼の“強さ”や“力”など、副次的なものに過ぎません。
ヒトならば誰もが持ちえる倫理観や罪悪感、恐怖、享楽、迷い。
それらが“ハデス”の中には無い。
そんな彼が正義の名の下にヒトを裁くとは、こういう事です。
今後“ハデス”は、我ら人類にとって偉大なる存在を淘汰し消してゆくでしょう。
それが、最も効率的であると――』
……これが、プロメテウスの残した予言。
“ハデス”によって齎される脅威。
しかし、だとするなら――。
「何故です!?
“ハデス”は人の心を学んだはず!
プロメテウスやペルセポネたちから!!
だからこそ! 彼はティタンを!!」
『なにも変わっていません――!』
ヘカテの言葉に、私は絶句した。
だが、薄々感づいてもいた事だった。
『彼は、ヒトから心を学んだに過ぎません。
論理的に、ヒトの心理を覚えただけなのです。
つまり、“ハデス”にヒトの気持ちは理解できない。
予言者プロメテウスと勇者アトラス。
確かに、彼らの必死さは伝わったでしょう。
しかし逆に言えば、あれ程の覚悟を見せねばわからぬのです。
そして、誰もが英雄に成れる訳ではない――』
「……つまり、“ハデス”は――」
『いずれ人類をも淘汰する事になるでしょう。
全ての生命を守る為に――!』
……これは何かの悪夢なのか?
“ハデス”は正しい。
そして確実に進化している。
……私は、私たちは、一体どうすればいいのだろうか?
『残念ながら悩んでいる時は無い様です!』
これ以上、何があるというのだ?
と、頭の中で弱音を吐いていたら天より御使いたちが降臨してきた。
「……十二神!」
更なる試練が迫って来た。




