第22話 「おかえり」
時は真夜中。
屋敷の外で、ひとりの男が決死の覚悟を固めていた。
「ケイローン!! 来てくれ!! 俺は決めたぞ!!」
ケイロンはすぐに応じた。
「乗れ」と目で合図する。
「城に向かってくれ!」
ヘパイストスを後ろに、振り返らず城への道を駆ける。
真夜中の城門。
見張りの兵士に呼び止められる。
だが、止まらない。
「火急の用だ! どけっ!!」
「お待ちを――!!」
只ならぬ事態に、瞬く間に護衛の兵士が集まってくる。
それでも強引に前に出ると大きな腕がケイロンごと持ち上げた。
「アトラス!!」
「これはどういう事だ!? 弟よ!!」
「どいてくれ! 俺は陛下に!!」
「ならぬ!!」
「うわあああああああ!!」
ケイロンごと投げ飛ばされるも、なんとか踏ん張り落馬は免れた。
「お前ほどの者が、何故いたずらに陛下の御所を荒らすのだ!?」
「俺は! すぐにでも……!!」
「―何事か―」
「へ、陛下――!!」
アトラスが跪く。
その後ろから、神々しい現人神の声が聞こえる。
「陛下!! クロノス様!!
いますぐ! このプロメテウスに御目通りを――!!」
「おのれ! まだ言うか!?」
「―下がれ、アトラース―」
「ははぁ!」
「―中に入れ、プロメーテウス―
―其方の話を聞こう―」
“王”がそういうと、プロメテウスたち以外は跪いたまま動かなかった。
「ここで待っててくれ」
ヘパイストスとケイロンにそう言うと、彼はひとり扉を閉ざした。
「…………陛下」
「―プロメーテウス―」
(……今、俺は、世界を変えようとしている。
俺が今まで生きてきた、俺自身の世界観をだ。
おそらく俺は、今までの俺ではいられなくなるだろう……。
だがもう、後戻りはできない……!
俺は、知ってしまったのだから!)
「お暇を頂きに参りました」
「―ほう?―
―して、なんとする?―」
“王”は何でもない事の様に聞いた。
「彼らと共に生きようと思います。
陛下の“御子”ハデスたちと共に」
「―で、あるか―
―しかし何故、予のもとに来た?―」
「我らティタンの民は、王の許し無くして自由にはなれません。
故に、直に許しを乞いに参りました」
「―わからぬな―
―我が声は汝らに至福を賜わす―
―それを放棄するは安寧の否定に他ならぬ―
―何が其方を、そうさせるのだ?―」
「……確かに、陛下の意に背くのは人の道を外れておるのやも知れません。
それは言わば、食わず、眠らず、子を成さず生きる事と同じと言えましょう。
ですが、ならば何故、我ら人は、獣と違うのでしょうか?」
「―な、に?―」
「獣は食べ、眠り、子を残し生くるのみ。
ならば人の知恵は?
我ら人は、何故知恵を持ち得たのでしょう?
もしかしたら、そこに意味など無いのかもしれません。
ですが、こうも思うのです。
ならば人は、我らは、獣と何ら変わらぬのではないのかと」
「―我らヒトが、獣と変わらぬというのか?―
―原初の時、神々に産み落とされたる、このクロノスが―」
(とんでもない!)
「はい――!」
(そんな筈が無い!)
「その通りでございます!」
「―……続けよ――」
言葉とは裏腹に、彼の心が叫び出す。
「“王”に従え! 逆らうな!」と。
「陛下の意に沿う事は、食事と何ら変わりませぬ!」
(違う! 違う! 違う!)
「ただ生きる為の、欲求を満たすだけにございます!」
(嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!)
「私は! そんな生き方は御免です!!」
(謝れ! 謝れ! 謝れ!)
プロメテウスの心は壊れかけていた。
これ以上は、どんなに自分を奮い立たせても破綻してしまう。
ならばせめて、壊れる前に、剥き出しの心を晒さなければならない。
そこまで思い至り、彼は強がるのを止めた。
ボロボロと涙をこぼし、悲鳴の様に哭いた
「あなたは、神輿になってしまわれた……!!」
(……お許しを…………!)
「御身の威光が……! 民を縛るのを良しとせず……!
その慈悲によって……! ヒトの理から外れられた……!」
(……お赦しを…………!)
「偶像となってしまったあなたは……!
それに何の疑問も抱かず、ただ生きるあなたは……!
ただ生きているだけの獣と変わらない……!」
(……おゆるしを…………!)
「私……いや……!
俺はこれ以上! 獣の王には従わない――!!」
(嗚呼アアアア嗚呼あああああああ呼嗚アアアアアアア呼嗚呼あああ!!!)
崩れていく。
彼が生きてきた世界が、価値観が、砂の様に消えてゆく。
彼は“王”を否定した。
その存在も、その在り方も。
終わった。
終わってしまった。
彼はもう、黄金種ではなくなった。
「―ハハハハハ―――――――――」
朗らかな笑い声。
雄大でいて、穏やかで、優しい父の様に荘厳な声。
その声が壊れた彼の意識を蘇らせる。
暗雲の中を彷徨う中、光に救われた思いだった。
「―よくぞ、言ってくれた……!―」
「…………?」
光の無い目で、顔を上げた。
するとそこには、今まで見たことも無い喜びに満ちた顔が見えた。
「く……ろ……の……す……さ……ま……?」
無意識にそう呼んでいた。
赤子が産声を上げる様に。
それを“王”は、優しい目で見つめていた。
「―昔の話をしよう―
―予にとっては少し前の事だが、お前にとっては遥か以前の話だ―」
“王”の話し方は、少し砕けたものになっていた。
親が子に聞かせるような、優しげな口調だ。
「―昔、誰にも好かれぬ悪人がいた―
―予は其奴に言った―
―これ以上、誰にも迷惑をかけるな、とな―
―そうしたら其奴は、喜んで自害した―
―皆、予に感謝しておったよ―
―そしておそらくその悪人も、満足して死んだ事だろう―」
プロメテウスは夢中で聞いていた。
その内容は恐ろしいものの筈なのに、まるでおとぎ話を聞かされている様だった。
「―予とは、そういう存在だ―
―今でも予は、己が間違っていたとは思わぬ―」
その声音は、どこか寂し気だった。
同時に、それを覆い隠す威厳に奮えていた。
「―だがその事が、どうにも忘れられぬ―
―その忘れえぬ“なにか”が、ヒトをヒト足らしめる“心”ではあるまいか?―
―と予は考えるが、どうだ?―」
キョトンと、プロメテウスは呆気にとられた。
威光は今もひしひしと感じる。
しかし、今の“王”は、まるで普通の人の様に思えた。
「……獣も仲間の死を悼むと聞きます。
ならば俺は、やはり自らの知恵で、本能さえも超えて、より良く生きる事だと思います」
ただの持論を述べた。
何の駆け引きも無い。
そこには“王”も“民”も無かった。
ただの年長者と若者がいるだけだった。
「―そうか! 成る程な!―
―やはりお前は賢い!―」
プロメテウスは素直に照れた。
少しだけ恥ずかしいが、それ以上に誇らしくなった。
「―それにしても獣の王とはよく言ったものよ!―
―ハッハッハッハッハッ!!―
―だがな、プロメーテウスよ―
―人を動かすのは、心だ―
―如何にそれが本能に縛られた感情であろうと―
―論理的に思考を積み重ねた理性だとしても―
―最終的に、人の、己の原動力は、やはり想いの力だと思う―
―なればこそ予は、お前のその心意気に惚れ込んだのやも知れん―」
「……クロノス様?」
王はプロメテウスの前に跪いた。
最早その行為を、畏れ多いとは思わない。
王の指が小さな彼の握手を求めていた。
「―息子を頼んだぞ。……友よ!―」
大きな指を利き手で握り、挑む様に向き合った。
もう対等の立場なのだと。
ならばそれに、応えなければならない。
「クロノス……!」
そう呼び捨てたのは、覚悟の証明だった。
「帰るぞ、ヘパ」
「……ふぁい?」
(なんだ眠ってたのか……。
なら起こさない方がいいな)
「ケイロン、集落まで走れるか?」
「ああ、問題無い」
「よし!」
「待て!!」
「……先に城の外へ」
「わかった」
行く手を阻んだのはアトラスだった。
ケイロンを先に行かせたのは、込み入ったやり取りになるからだ。
「行くな!!」
「アトラス……!」
「出て行くと言うのであろうが、解せぬ!
何故! 陛下の御傍を離れる!?
陛下に仕えることこそ我らが誇り! 我らが至福!!
それが、ティタンの子として生まれ出でた我らが運命ではないか!?」
「……俺はな、アトラス。
その運命って言葉が嫌いなんだ。
それは、考える事を放棄した責任逃れの言い訳でしかない……!」
「責任逃れ、だと……?」
「そう、その責任を、全てクロノスに押し付けているだけだ!」
「無礼な!!
陛下を語りに使い! あまつさえ呼び捨てるなど!」
「クロノスは俺を“友”と呼んでくれた!!
ならば俺は! 対等であらねばならない……!!
その為なら俺は! 如何なる誹りも受けよう!
喜んで! 第四の至福を切り捨てよう!!」
「な―――に――――!?」
「無礼と言ったな? そのまま返す!
よくも今まで、俺の友に全てを擦り付けてきやがったな!
無礼はどっちだ!? 勇者アトラス!!」
「―――――ッ!?」
毅然と言い伏せるプロメテウスを前に、アトラスは立ち尽くすのみ。
その表情には先ほどまでの不信感は消えていた。
それは、ひとりの男として認めた顔だった。
「フフ! フフフフ!
フヌワッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!!!」
「ッ――――――ク!」
アトラスの哄笑が痺れる様な衝撃波を生む。
プロメテウスは身構え、吹き飛ばされぬよう踏ん張った。
「やはり! お前は! 凄いなぁ!!
嬉しい! 嬉しいぞ!! 弟よ!!
そうか……!
陛下はもう、お独りではないのだな……!」
「…………アトラス」
アトラスは本当に嬉しそうに笑って言った。
だが、すぐに顔を引き締める。
「ならば! 今一度、問う!
お前は陛下の寵愛を要らんと言った!
だがお前にとって、ティタンへの未練は他に無いと言うのか!?
兄たるこの俺は!? 愛する妻は!?
それも捨てるというのか――――!!?」
「――――――ッ!!」
今度は兄が弟を言い伏せた。
だが、予想していた。
アトラスなら、こう言って自分を説得にかかると。
この問いを論破する答えを、プロメテウスは持っていない。
だから、素直な気持ちを言う他ない。
「俺は……!
俺の信じていた世界は偽りだった……!
……教えてくれよ? 兄上……。
アンタには、ここが綺麗に見えるのか……?
オトリュスの城は……? 城壁の向こうは……?
俺には……もう綺麗に見えないんだ……。
……だから……楽園にはいられない……!
俺はもう……! ティタンを愛せない……!!」
「ッ―――――!?」
アトラスが詰め寄る。
しかし、そこに先程までの覇気は無い。
ワナワナと震え、弟の肩に手を置いた。
「…………狂って……た……!」
プロメテウスは目を背けた。
「……弟が……!! 狂ってしまったああああああ……!!!」
号泣するアトラスの隙を付き、彼は城門へと走り出した。
「ま……! まって……!
ぴ……たー……!」
感情を噛み殺し、振り払うように門へと急ぐ。
「ピーター!!」
アトラスの声が聞こえる。
昔の、幼かった頃の呼び名だ。
(…………さよならだ、アトラス。
俺が目指した、ただひとりのティタンの勇者……!)
「ケイロオオオオオオオオン!!!」
プロメテウスの咆哮にケイロンが嘶く。
疾風の如く黄金郷を駆け抜ける。
「待ってくれ!!」
だが、アトラスは弟を諦められなかった。
叫びながら追いすがるが―――。
「―行かせてやれ―」
“王”の一声で、止まらざるを得なかった。
「おおおおおおおおおおお!!!」
生粋のティタン族である彼に、“王”の言霊は跳ね除けられない。
悲しみあまって両手を地面に叩きつけ、大地を轟音で震わせるのが精一杯だった。
アトラスの雄叫びを背後に、プロメテウスは楽園を去った。
黄金郷を抜けて何日経ったのか、一段と大きくなった山が見えてきた。
その偉容は、もはや世界で最も高くそびえ立っているのではないかと思わせる程に。
だが今は、そんな事は些細なものだった。
集落は場所を移していたが、すぐに発見できた。
最も住みやすく隠れやすい所を探せばいい。
「お~い!」
最初に再会したのは、やはり彼だった。
兄弟の中で、最も優れた肉体と視力を持つ男。
「……ただいま!」
「おかえり」
「待たせたな! ハデス!!」




