第1話 「ようこそ冥府へ!」
冥王ハデス。
最強にして最凶にして最恐なる黒き王。
偉大なる黄金王クロノスの子。
あまねく万物に等しく滅びを与える裁定者。
人類史上最高最悪をその身に秘めた男。
彼の名は死を招き、誰も彼もが恐れ慄く。
「それがなぜ……幼女にボコられてるんだ……?」
入所初日、着任早々上司が10才にも満たない女の子に折檻を受けていた。
グーで顔を殴りに殴り、右へ左へフルボッコ。
これは夢か? 幻か?
いやいやそんな筈は無い。
これでも私は冥府の裁判官となるべく高度な訓練を受け、厳しい試験を突破したエリートだ。
……そう、信じたい。
しかし、目の前の光景のせいで、どうにも自信が持てない。
私は不安に駆られ、先輩裁判官のミノスに今一度尋ねた。
「あのぉ……この、幼女にボコられてるのが……」
「ええ。我らがご主人、冥王ハデス様です」
ミノスは淀みなく、にこやかに答えた。
止めなくていいのだろうか?
「アアッ!? 誰が幼女だ!? コラアッ!!」
幼女と言われて幼女が怒った。
幼女はハデスに馬乗りのまま、鋭い眼光でこちらを睨みつける。
怒りのあまり凶悪に顔が歪んでおり、可愛らしさは微塵も無い。
とても子供とは思えぬ剣幕に、私はたじろいでしまった。
「ご、ごめんなさい!」
取り敢えず謝った。
ここは冥府のど真ん中、オトリュス城の中である。
かつてこの城は、栄華を極めたティタン族の王クロノスの居城だった。
しかし、クロノス王は三人の新しき王、雷霆ゼウス、海王ポセイドン、そして冥王ハデスに敗れ、その地位と莫大な富を明け渡した。
その中の一つがこのオトリュス城であり、現在ではハデスの職場兼お住まいだ。
そんな所にただの幼女がいる訳が無い。
この冥府では不老不死とさえいわれる程のご長寿種族が人口の大半を占めている。
見た目に惑わされ、うっかり大御所を年下扱いして痛い目をみるなどザラだ。
既に手遅れだろうが、素直に謝った方がいいに決まっている。
「…………チ!」
「ギャン!」
ハデスが宙を舞った。
幼女が舌打ちすると同時にハデスを蹴り飛ばしたのだ。
並みの脚力じゃない。
「アウチ!」
落ちた。
ハデスはされるがまま、一切抵抗しない。
史上最強の冥王が、何故一方的に殴られているのか。
あの幼女が如何程の貴婦人かはわからないが、いくらなんでも天下の冥王よりも格上ではあるまい。
私が困っているのを察してか、ミノスが口を開いた。
「こちらは冥府の女王、ペルセポネ様です」
「マジで!? これが!?」
「アアン!!?」
激昂したペルセポネが私に飛びかかってきた!
……のをハデスが庇ってくれた!
……のだが、モロに顔面に蹴りが入り、そのまま横に吹っ飛び、頭から壁にめり込んだ。
……助かった!
しかし今更だが、その小さな体のどこにこんな力があるのだろうか。
この一見すると人形のような華奢な女の子に。
勿論、この世界において怪力少女など珍しくも無い。
それが女王ペルセポネともあれば、尚更である。
ではあるのだが、私の知る限りペルセポネといえば、ハデスによって冥府に閉じ込められた悲運の姫君のイメージだ。
それがこうも凶暴な幼女だとは思いもよらなかった。
「今日はこれで勘弁してやる! 次やったらアレだからな!!」
「ふぇ~い~」
捨て台詞と共に、小さな女王ペルセポネは床にヒビをつけながら去っていった。
いったい何をしでかしたのやら。
アレとは何だろう?
「どうも~ハデスです!」
「お、お疲れ様です!」
いきなりビヨ~ンと芸人のコントみたいに起き上がり、冥府最高責任者はコメディアンの様な動きで握手を求めてきた。
やや反応に困るが、今後お世話になる上司だ。
無視する訳にはいかない。
(冷た!?)
一瞬ヒヤッとした。
極度の冷え性なのかとんでもなく冷たい手で、まるで死体の様。
それは手に限った事じゃない。
ボサボサの艶の無い脱色したかの様な白髪に、不気味なまでに青白い不健康そうな肌。
気怠そうな猫背に、真っ黒な喪服姿。
そしてそのご尊顔には、レンズ越しでは眼が見えない程の瓶底眼鏡。
ハッキリ言ってダサい。
いったいこれのどこが最強の黒き王なのか。
喪服が黒いだけじゃないか。
死者の王としては納得の成りではあるが。
因みにハデスの着ている喪服は、スーツにネクタイという冥府独自の礼服である。
私もミノスも、同じような黒い礼服を着用している。
世界広しといえど、このデザインの服を身にまとうのは冥府の職員のみ。
わかり易い冥府職員の制服といえるだろう。
他にも、先ほどの幼女ペルセポネもまた、他では見られない製法の、ブラウスなる服を着用していた。
この一点をとっても、冥府が他国よりもあらゆる技術面で優れている事がわかる。
そんな事を連想しつつ、私はハデスとの挨拶を済ませた。
「ええっと、ハデス様」
「あ――様、やめてくれない?
なんか恥ずいんで」
「じゃあ、裁判長?」
「ん、まあいいかな。で、何?」
「本日は裁判長に付いて研修との事ですが」
「そうだったね、うん。
研修といっても軽く職場案内するだけだから、身構える必要はないよ」
「はい! よろしくお願いします!」
「じゃあ、行こうか」
ハデスに連れられ、リニアモーターカーに乗った。
これも冥府以外では見られない機械仕掛けの乗り物だ。
「軽く職場案内って言いましたけど、遠出するんですか?」
「うん、軽く冥府を一周ね」
「え!? ハードスケジュールじゃないですか!」
「いや~でもさ~。
地球に比べたら、この星なんて小さいからねぇ~」
「いやいやいや!」
ここ冥府は地球から遠く離れた準惑星、冥王星にある。
ハデスが言うように、星としての規模としては地球にある月よりも小さい。
とはいえ、星である。
星を一周する事が、そんなにお手軽な筈がない。
やはりというべきか、流石は冥府のトップ。
どんなに名前負けして見えても、肝の方は据わっているようだ。
私は研修プランにこれ以上口を挟むこともせず、電車の旅を楽しむ事にした。
「私これ、初めて乗りますよ!」
「へーそうなんだ~」
「これって電気で動いてるんですよね?」
「そう。これも技術革新した冥府ならではだね」
「確か、太陽の光りで動いてるんでしたっけ?」
この星には5つの人工太陽が廻っている。
元は死の星だった冥王星に、命を吹き込んだ莫大なエネルギー。
人類の叡智、科学技術の集大成。
期待の新技術と謳われており、開発にはかの十二神の発明家ヘパイストスやプロメテウスが関わったらしい。
なぜ5つなのかというと、それぞれに役割がある。
一番外側の太陽が最も大きく、飛来する隕石から冥王星を守る役割を担っている。
続いて2、3番目に遠い太陽はほぼ同距離で互いに反対側にあり、本来極寒の星である冥王星を温め、4番目がその微調整をしているという。
最後に最も近い太陽が、昼と夜をつくりだす。
以上が、冥府職員向けのカリキュラムで得た知識なのだが。
「ん~残念! 窓の外をご覧下さい~」
違った。
窓を覗き込むと、一面真っ青の空と海が見える。
いや、これは海じゃない。
巨大な川だ。
「人工大河!」
「そう。冥王星をぐるっと一周する5つの人工大河。
この電車はこの川の流れを利用して動いているんだよ~」
「水力発電ですね!」
「うん、エコってやつだね。
太陽光発電も考案されたんだけど、雨も降らせなきゃならないからねぇ。
これなら雨の日も風の日も、休みなく動いてくれる」
5つの人工大河。
確か、ステュクス川、プレゲトン川、レテ川、コキュートス川、アケロン川という人工的に造られた巨大な大河で、それぞれ冥王星をぐるりと囲み、循環しているという。
ちなみに、人工の星である冥王星は天候すらも人工的に操作されており、環境維持に最も適したスケジュールで雨を降らしたりしている。
この星では天気ですら決定事項なのだそうだ。
「うっわまぶしっ!」
「黄金都市だね~」
黄金都市。
文字通り金色に光り輝く都市で、かつては世界を支配していたティタン族の都だ。
生涯成長し続けるティタン族は、3メートルから6メートル程の巨体である。
その為、立ち並ぶ町並みはやたらとでかい。
言い忘れたが、このリニアモーターカーもティタン族に対応している為、かなり広い。
ちなみに私達のいる車両は2メートル未満の種族向けの造りになっているので、椅子が大き過ぎて座れないということはない。
「大きな町ですねー。全てが」
「だねー」
「この町って元は地球にあったんですよね?」
「そだよ~」
「どうやって運んだんです?」
「こういうのが得意な人がいてねぇ。
ちょっと黄金都市全てを移動させてもらったんだよ」
……サラッと凄い事言いやがった。
確かにオリンポス十二神をはじめ、強大な力を持った超人がひしめく世界だが、一つの都市……国と言ってもいい。
それを「ちょっと」で移動させられる人物がそうそういる筈もない。
十二神の力は全て一般に公開されているが、そんな事ができそうなのは万能の力を持つゼウスぐらいだろう。
或いは空間を切り裂くというティタンの王クロノスか、世界を創造したと云われる原初の巨人しか思い当たらない。
多分ゼウスにお願いしたのだろう。
なにせゼウスはハデスの弟なのだから。
「お! ここ! ここ!」
「うわぁ……!!」
黄金都市の中心地。
美しい町並みの背後に荘厳なるオトリュス城がそびえ立つ。
冥府の観光案内のパンフレットにあった通りの風景だ。
お土産コーナーには同じ風景の絵ハガキも売っている。
ようやく実感が沸いてきた。
やってきたんだ!
冥府に!
憧れの裁判官として!
意気込む私に我が子を見てほっこりする親の様な笑みを浮かべ、ハデスが手を差し伸べた。
「ようこそ、冥府へ!」