cast a shadow
黒い影が追ってくる。
それが単なる錯覚などではないことを、何故だか私は確信していた。
時刻は深夜。寂れた街灯が照らす閑静な住宅街。残業帰りの草臥れた男が一人歩いている。初めは徒歩、それから小走りになり、そしてついに駆け出した。後ろを振り向く。影がいる。黒く、陰湿で、夜闇よりも尚濃い黒の影。それは一定のスピードで後をつけてくる。まったく気味が悪い。芽生える恐怖心を理性で抑えつつ足を進める。
逃げるのに夢中で、いつの間にか見知らぬ通りに迷い込んでいたらしい。灯りの灯らない静けさのみが支配する住宅群が視界を流れていく。人気はない。大通りにでも出れば誰かに助けを求められるのだが――。
そもそも私は何故追いかけられているのだろう。あの影は何なのか。追いつかれたらどうなるのか。
非常時にも関わらず、脳の極めて冷静な部分が疑問を訴える。何故、何故、何故――。やがて疑問の矛先は得体の知れない影ではなく、私を取り巻くこのくそったれな世界へと向いていく。
何だって私がこんな目に遭わなければならないのか。
口煩い妻と手のかかる子供が待つ平穏とは程遠い自宅と、無能な上司と扱いづらい部下が入り乱れる会社を機械のように行き来する毎日。延々と繰り返されるルーティンワークに感嘆の起伏すら薄れかけていた。
鬱屈した感情は募る一方で、それを発散する手立ても思いつかない。八方塞がりの現状。唯一の楽しみといえば、本当の意味で一人になれる就寝時くらいのものだ。
いつか変わるものだとばかり思っていた。何かのきっかけで劇的に、それこそ現在とは百八十度違う日常を手に出来ると。だが現実は常にシビアであり、気づけば私も三十路を迎えている。無為に使い潰される有限の時間。はたしてこんな人生に価値があるのか。将来に対して夢やら希望やらを抱いていた今は遠き少年時代が酷く懐かしく思える。焦燥感が身を焼き、最近は死ぬことばかり考えている始末だ。無論、本当に自死するほどの度胸もない私にすれば、この現状は差し詰め抜け出せない蟻地獄のようなものだった。
そうこう考えている合間にも、影は徐々に距離を詰めながら私に迫って来る。裏通りに入る。狭い道を右へ左へ逸れて追跡を振り切ろうと試みるが、影はどこまでもついてくる。否、あれはそもそも走りなどしない。私が振り返れば、その瞬間からそこに存在するのだ。故にどこへ、どこまで逃げても意味はない。
分かっている。分かってしまっていた。だから足を止める。無駄だから。振り返れば影がいる。ゆっくりと近づいてくる。街灯の灯りを受けると、影はより一層闇色を際立たせる。瞬きの度に一歩ずつ迫る影。その正体が何なのかにも、もう見当がついていた。
影はもう目と鼻の先にいて、不安定に揺れるそのシルエットが震えるのと同時に、鼓膜から脳髄へと、呪詛が流し込まれる。
『辛イ、怠イ、苦シイ、嫌イ、狂オシイ、虚シイ、寂シイ、可笑シイ。妻ガ、子供ガ、上司ガ、部下ガ、嫌イダ、煩ワシイ、嫌ダ、嫌ダ、止メテクレ、逃ゲタイ、死ニタイ、殺シタイ――』
それはまるで鉛を溶かし込むかのように。
黒く、重いコールタールが染みつき広がるように。
汚水に寒色の絵の具が醜く散らばり混ざるみたいに、私の根底へと注ぎ込まれる。在るべき場所へ還る。水が上から下へ流れるのと同じで、この影も、そう在るべくして私の許にやって来た。
どうしようもなく鬱屈とした、負の感情。
誰しもが人知れず内包する心の闇。社会の抑圧。倫理の束縛。人間関係の柵。このストレス社会において、何にも不満がない人などきっといない。確実に負の感情は内心に蓄積されていく。吹き溜まったそれらがとうとう行き場をなくし、その人個人の中に収まり切らなくなった時、それは明確な形を持ってこの世に誕生する。
「そうか、お前は私の――」
影が産み落とした、怪物。
だからきっと。
この世は怪物で溢れている。
目を凝らせば、あるいは貴方にも見えるかもしれない。街を徘徊する無数の黒い影の姿が。そしてその中の一つは、他ならぬ貴方自身が産み落したモノなのだ。
暗い話ばかり書いている気がするので、次回はやたら明るい話でも書きましょうかね。