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空調設備恋愛譚

作者: クック先生


 八月のうだる様な猛暑から一転し、涼やかな秋風が薫る九月初旬。

 その日、都心から離れた一部地域に、季節外れの雪が降った。

 はらりと舞い落ちる白い結晶たちは、清冷を放ちながらもどこか淡い暖かさを感じさせてくれるようで……。

 そいつはまるで、彼女の心が結晶となって、静かに俺へと降り注いでいるようだった。


 始まりは紫陽花の花が咲き始めた6月下旬。俺の住む安アパートに届いた市役所発行の広報誌からだった。

『無料クーラー配布についてのお知らせ』

 都会に出てきて半年。夏の暑さ対策なんて事にまでお金が回らない程の素寒貧な俺にとって、その告知は神様からのありがたいお恵みだった。

 俺は喜び勇んで市役所の市民課へと向かい、受付のおっちゃんに無料クーラー希望の旨を伝えた。が、そこに待っていたのは、銭湯の男湯と女湯を仕切る壁ほどの越えられない障壁だった。

「取り付け工事費はそっち持ちとなりますが、それでも宜しいですかな?」

 オッケー、少し冷静になろう。市が廃品回収で集めたクーラーを修理し、無料で配布するだけでもかなりありがたい事なのだ。なのに取り付け工事までやってくれと言うのは、少々虫が良すぎるじゃないか。だが、俺には先立つものがない。となれば、クーラー本体を貰ったところで何の意味も無い。

 結論。矢野遼一やのりょういち享年二十歳。死因は暑さによる熱中症……だな。

「すんません、金が無いス……」

 無念の臍を噛みながら、仕方なく諦めて項垂れ去ろうとした。そんな時だった。

「あ、お兄さん、ちょっと待ちなさい」

 受付のおっちゃんが、俺を呼び止めた。溢れ出るほどのがっかり感が余程哀れに感じたのかもしれない。

「取り付け工事の要らないクーラーも、あるにはあるんだがね……」

 そう前置きして、おっちゃんは一枚のパンフレットを俺に差し出した。

「……エコロジカルクーラー『スノーレディー』? なんスかこれ?」

 俺はいぶかしげにおっちゃんを見た。そんな俺に、おっちゃんは少々苦笑いを浮かべて語った。

「いやね、去年は近年まれに見る豪雪だったでしょ? 異常寒波ってヤツ。実は東北地方の日本海側を中心に、雪女が異常発生したらしくてね……それで北国の各道県の行政が、冷害対策として雪女の大量捕獲を行ったらしいんだよ。で、各都府県に引取り依頼のパンフレットと、願書が回ってるんだけど……どうも些か人気が無くてね」

 噂には聞いた事があるぞ。北国に昔から伝わる、夏を乗り切る冷房設備『雪女蔵ゆきめぐら』と言う物の話を。

 なんでも庭の小さな蔵で雪女を飼い、その冷気を母屋の各部屋へ行き渡らせる仕掛けだとか。これはきっと、それに類似したようなものなのだろう。

「まあ無理にとは言わんよ。私もコイツを勧める義務は無いし。実際ちょっと気味悪いからね」

 だが文無しの俺にとって、予想されている今年の夏の猛暑を、冷房器具無しで乗り切る自信は皆無に等しい。それに少々の気味悪さなど、逆に涼む要因になるかもしれない。

 ここは話の種にも、一度この雪女さんのお力を借りるのもいいだろう。そう考えて、俺は受付のおっちゃんに、この奇妙な冷房機の引取りを告げ、希望契約書へとサインをしたのだった。


 数日後の夕刻。

 俺の住むアパートへ、白い和服姿がよく似合う、一人の美しい少女がやってきた。

 それが彼女――雪女の少女『ハル』と俺との最初の出会いだった。雪女なる存在を聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだ。

 雪のように白く美しい肌と、氷のような眼差し。そして艶やかな長い黒髪が印象的な、噂通りの純和風美人だ。見た目は、人間の年の頃なら十五、六歳ほどだろうか。だが外見とは違い、去年生まれたばかりだと言うのは、なんだか妙な感じがする。

「あぁ、彼女達雪女は分裂増殖するんですよ。暑い夏が来る前年なんかは特にね。一応人間相手でも、子供は作れるそうですが……滅多にないということですよ」

 そう教えてくれたのは、東北地方からわざわざ付き添いとしてやって来た若い女性職員さんだ。彼女は俺の受け取りサインを確認すると、一冊の取扱説明書を手渡してくれた。

「これは制約や必要事項が記されていますので、御使用前に必ずお読みください」

 そう言うと彼女は、連れてきた雪女さんと一言二言言葉を交わすと、俺に、

「くれぐれも彼女に、必要以上の感情を持たないでくださいね」

 と言葉をかけた。

「や、ただなぁ! 俺はそんな見境無く女性を口説くような節操無しじゃありませんよ? ところでせっかくなのでお茶でもどうですか?」

「ありがとうございます。ですが結構ですわ。車を待たせておりますので」

 結構好みのタイプだった若い職員さんは、俺の誘いを華麗にスルーした。結構場慣れしているようだ。

「あ、ああそうですか。それは残念。それじゃあ最後に、契約期限が切れちゃった後の事なんですが……彼女をまた引き取りに来てくれるんですか?」

 俺もこの出会いを逃すものかと、次回また会えるかどうかの伺いを立てる。フフフ、こちらも隙は見せないぞ。

 が、彼女の口から出た言葉は、どこか含みを持った、あっさりとしたものだった。

「その件に関しましては、取扱説明書をお読みください」 

 こうして一礼とともにまた一言、

「くれぐれも彼女に必要以上の好意を持たないでくださいね」

 と釘を刺し、職員のお姉さんは青森ナンバーの保冷車と共に去っていった。

 残念だが、去っていったものは仕方が無い。とりあえず俺は、残された雪女さんに軽い挨拶と、自己紹介をしてみる事にした。

「あ、あの初めまして。俺は矢野遼一といいまして……ええと二十歳です。その……よろしく」

 果たして、雪女と一般人との意思の疎通は出来るのだろうか?

「あ、はい。私は雪女のハルっていいます。雪女なのに『春』ってちょっと変でしょ? あはは」

 やけに垢抜けた子だった。涼やかな冷気を放つ以外は、全くの現代っ子と同じ感じがした。

「そ、そう……いい名前だね。あぁ、立ち話もなんだからさ、とにかく部屋に入ろうか?」

「そうですね、それじゃあ失礼しまーす」

 軽い会釈と明るい笑顔という、素敵な入室許可書を提示するハル。俺の前を一陣の冷ややかな風が吹き抜ける。ぞくぞくする程の魅力に、一瞬我を忘れそうになった。

『おいおい、彼女は雪女なんだぞ?』

 心の中でつぶやく。そうだ、彼女は人じゃない。うちのクーラーなんだ。いや、それもおかしいな。

 とにかく、彼女は大事なお客様だ。お茶の一杯も出さずに、鼻の下伸ばして突っ立ってる場合じゃない。

「飲み物は麦茶でいいかい? ……と言うか、飲み物とか飲めるのかな?」

 六畳一間の部屋の中央に置かれたチャブ台の傍らに座るハルが、にこやかに微笑み答える。

「はい。何でもいただけますよー。猫舌なんで熱いのは苦手ですけど」

 ぺろりと舌を出し、小首をかしげる彼女は、その辺にいる少女となんら変わりは無い。ますます俺の心が妙な気持ちで満たされていく。そう言えば、職員のお姉さんが言ってたっけ……必要以上の感情は抱くなって。でも人間とも生殖可能とも言ってたしな。だがアプローチをかけた途端、股間の男船タイタニックが氷山により沈没させられるかもしれない危険性もある。いや、何を考えているんだ俺は! ここはひとまず楽しい会話で心を落ち着けよう。しかし相手は雪女。どんな話題を振ればいいのやら……。

「ところで雇い主様、私の空調設備としての配置はどのようになさいますか? 見たところ雪女蔵も無いご様子……これでは同居という形になりますが、宜しいのでしょうか?」

「ん? うんまぁ同居でいいんじゃ……な、何! ど、ど、ど、同居だって!」

 考え事に夢中になり、危うく聞き流すところだった! 彼女は今なんと言った? 同居だと? いや、男女となれば同棲という事になりやしないか? なんて素敵なオプションなんだ! いや、いやいや! あくまで彼女はうちの空調設備だ! そんなやましい思いを抱く対象ではない! それにまだ見た目は少女じゃないか。これは倫理上誠に宜しくない展開が待っている訳で――

「是非とも同居という形でよろしくお願いいたします」

 脳内会議の途中であるにもかかわらず、俺の中の欲望さんは独断でかような言葉を発するよう指示を出した。流石は俺だ、欲望に忠実だな。

「あ、一応申し上げておきますと、簡易型雪女蔵の無料貸し出しも行っております。職員の方に申し出ればすぐに手配していただけますし、ベランダ半分程度と言う大きさですので場所もとりませんよ?」

「い、いや! 君をベランダなんか狭い場所に閉じ込めておくなんて出来ないよ! うん。今日からこの部屋は自分の部屋と思って自由に使ってくれ」

 何を必死になってるんだか……我ながら情けない。

「わぁ! なんとお優しい。雇い主様、ありがとうございます!」

 でもそんな俺の言葉に、ハルが両手を合わせて喜んでいる。こんなに可愛い笑顔の女の子なんて初めて見たよ。

「雇い主様はよしてくれ。遼一でいいよ」

「はい、遼一さん」

「オッケー、それでよし! じゃあ今日から秋まで、ここは君の家だ。気兼ね無く自由にしてくれよ! ハル」

「はい! では自由に使わせていただきますね」

 その小気味良い返事と共に、彼女から極寒の冷気が勢いよく吹き出た。

 一瞬で俺の部屋は氷と雪の銀世界に変貌し、このあと解けた氷が俺の部屋の何もかもを台無しにしてしまい、タダほど高いものは無いという事を身をもって知らされた。


 夏真っ盛り。予想されていた以上の酷暑が、日本を襲っている。

 外は蜃気楼か時空の歪みだかがゆらゆらと立ち昇り、まるでハルのように太陽も分裂増殖をしたのかと見紛う程だ。

 だが俺の部屋だけは、涼しさが外気のクソ暑さを遮断し、まるでどこかの避暑地に居るかのような感覚を与えてくれている。

 いや、避暑地なんかにある別荘の室内には、流石に氷柱つららは垂れ下がってないだろうな。冷凍庫の壁にへばりついているような霜が、パイプベットのパイプに付着する事もないよな。

 そう、ハルのやつはちょっと気を抜くと、俺の部屋をあっという間にバナナで釘が打てる世界に変えてしまうんだ。別に悪気があっての事ではないらしいのだが……どうも冷気を調節する器官の調子が芳しくないらしい。曰く、

「私は分裂コピーだから、ちょっと劣化しちゃったんですねあははは」

 だとか。

 いや、笑い事っちゃないですよハルさん。自宅で遭難する事三回。一度、三年前に死んだじいちゃんが、川の向こうで「まだきちゃなんねぇ」と俺を追い返す夢で目が覚め、事なきを得たという時もあったんだぞ。

 まったくハルが来てからというもの、普段の生活では中々出来ない経験ばかりだ。

 そんな彼女ではあるが、ただ何もせず冷気を噴出させるだけでは心苦しいと、炊事・洗濯・掃除を甲斐甲斐しくも勤め上げてくれるんだ。

 なんといっても氷で作った器に盛られる冷麺や冷製パスタやそうめんなんかは、程よく冷えて中々美味い。まぁ、腹も程よく冷やされて常時下痢気味だというのはご愛嬌だ。

 そう、何をやるにも彼女は一生懸命なんだ。そんな彼女のちょっとやりすぎ気味な努力、俺は嫌いじゃない。

 そしてたまに凍傷にかかりながら、風邪で死の淵をさ迷いながら、気が付けば俺は八月の一ヶ月で、ずいぶんと無駄にたくましくなった。これも皆、ハルがうちに来たせい……いやいや、ハルがいてくれたお陰だ。

 つまりはこんな極寒地獄も、ハルと二人なら楽しく暮らせると言う訳だ。

 改めて考えると、ハルは俺の心の拠り所となっていたんだな。年齢がそのまま彼女居ない歴と一致するような俺が、初めて感じたこの暖かくも切ない気持ち。こいつが恐らく誰かを愛するという事なんだろう。

 で、俺は考えた。そんな彼女に何か贈り物がしたい。今日は文無しの俺が待ち続けた九月一日。つまりはバイトの給料日だ。今月はよく働いたので多少は余裕がある。

 という訳で、俺はバイト代を貰ったその足でシルバーのファッションリングを買い、大急ぎで家路に着いたんだ。

「ハ、ハル! プレゼントだ。う、受け取ってくれ!」

 俺が差し出した銀色に輝く指輪を目にしたハルが、両手を口にあてがい、驚きの表情を見せた。

「遼一さん……こんな綺麗なものを私に?」

「ああ、安物で申し訳ないんだけどさ。でもリングの裏には俺と君の名が刻まれている。コイツは俺の気持ちだ……是非受け取って欲しい」

 俺が差し出した指輪を、潤んだ瞳で見つめ、手を伸ばそうとした。が、ハルは思い悩んだ表情を浮かべたあと、その手をゆっくりと引っ込めてしまった。

「ど、どうした? やっぱこんな安物じゃダメかな?」

 俺の言葉に、ハルはフルフルと首を横に振り、申し訳ないという眼差しで俺を見つめ言った。

「私は……雪女です。あなたの家の冷房設備なんです。取扱説明書にも書かれている通り、雇い主様からか特別な感情を受けてはいけないのです。申し訳ありません、遼一さん」

 俺から顔を背け、辛さに耐えるハル。だが俺は引き下がらなかった。

「俺が嫌いならそう言ってくれ! それならあきらめも付く。だけど決まり事に縛られてそんな事を言ってるんだったら、俺はハル、お前の事をあきらめたりしないぞ!」

「遼一さん……」

「なんだよ、雇い主と恋愛するなだって? そんなのたかだか取り説に書かれたことじゃねーか! 自慢じゃないが俺はゲームソフトの取り説なんて読んだことねぇぞ! それでも難なく遊べるし、クリアーだって出来るんだ! 勿論あの若い職員のお姉さんからもらった雪女の説明書にも、目すら通してない。だが、君と問題なくやって来れたじゃないか。ハル! 決まり事なんかに縛られた言葉じゃなく、君の意思こころのこえが聞きたいんだ! 教えてくれ」

 俺の真摯な眼差しが、彼女の瞳を射抜く。

「ありがとう……ありがとう遼一さん」

 消え入りそうな声で俺の名を口にするハル。そして何かを決心したような大きな溜息を一つ零すと、彼女はにこりと微笑んで俺に言った。

「これで私の想いは決まりました」

「う……うん、それで?」

「私は遼一さんの暮らしを守るため、雪女としての使命を全うする事を決意しました。実は思い悩んでいたんです。この楽しい時間がいつまでも続けばいいなって。でも私達雪女には使命があります。けれど、それを果たせばもう遼一さんには会えないし、この楽しい生活も終わってしまうのかと思うと、中々実行できなかったんです」

「おい、何言ってんだよ? 使命ってなんだ? そんな大事な事なのか?」

「はい、取扱説明書にも書かれている通り、我々雪女一族は、猛暑の根源である日照女ひでりめ一族と戦い果てると言う慣わしなのです」

「はぁ? 日照女ってあの妖怪のかい?」

「はい。宿敵日照女とは平安の昔から争った間柄。互いの分身たちが争い、力を打ち消しあうのです」

「バ、バカ言うなよ! 別に君一人戦わなくったっていいじゃないか!」

「いえ、私はそのために生まれてきた雪女の一人。それに……」

「それに?」

「それに私が戦い、双方が消えなければ、この辺り一帯の気象に異常を来たし、様々な自然災害を巻き起こしてしまいます」

 ……正直、彼女の言っている事がいまいちピンと来なかった。が、異常気象のためにこの辺りの住民に何らかの被害が及ぶのは、バカな俺でも理解できた。そしてその被害とやらは、きっと俺にも及ぶのだろう。

 それ故に、彼女はこの酷暑の原因となる日照女と戦い、敢えて共に果てようというのだ。

「私は遼一さんのために、これから戦いに行きます。今は夕暮れ時、もしかすると、日照女の力も幾分弱まっているかもしれません。そしてもし、私が無事で帰ってきたときは……」

「……帰ってきたときは?」

 思いつめたような表情のハルが一転、満面の笑顔を咲かせ、言った。

「また一緒に冷製パスタ食べましょうね!」

「あ、ああ! きっと……きっとだぞ!」

 俺の言葉を噛み締め満足そうにうんと頷くと、ハルはスッと玄関へと歩き出し、未だ熱気渦巻く外界へと身を繰り出したのだった。

 俺は何度も『行くな! ハル!』と心の中で叫んだ。

 言葉に出すのか簡単だった。だが、そいつを口にすれば折角のハルの決心に水を差す事になる。

「必ず勝って戻れよ! ハル!」

 その言葉が耳に届いたのか、宙に浮かび飛び立とうとしていた彼女が、笑顔で振り向き、こちらに向かって手を振ってくれた。

「行って参りますね、遼一さん」

 その一言と忘れられない微笑を残し、彼女は天高く舞い上がっていく。そして日は落ち、辺りに闇が舞い降りた。気のせいか、その日の夜はいつもより少し外の空気が涼しく感じられた。

 

『規約第二条・雪女の利用後の処理について』

 必要無くなった雪女には、別の使命があります。それは近隣に潜伏するであろう日照女と戦い合い果てるという任務です。これを怠ると、近隣の気象に悪影響が出る恐れがあります。

 必ず雪女の冷気が不必要となった場合や、本人の意思により申告が合った場合には、引き止めず、雪女の意思に従い、自由放置してください。

 以上の件に従い、くれぐれも雪女に必要以上の感情を持たぬよう、かたくお願いいたします。

 尚、放置された後は、最寄の市役所に必ず届出をなさるよう、重ねてよろしくお願いいたします。


 彼女が空へと舞い上がって三日。俺は部屋のベランダから、毎日空を眺めていた。 

 日本の各所では、天高く鱗雲がたなびく秋空が現れ始めたらしい。

 秋らしい乾いた涼しげな空気が、俺の横を通り過ぎる度、鼓動が一瞬早まるのを感じる。ハルが戻ってきたんじゃないかって。また俺の名を呼ぶ声が聞こえるんじゃないかって。

 ふとした瞬間に、風に乗ってハルの声が聞こえるような気がするんだ。

「遼一さん……遼一さん!」

 って、こんな風にさ……おいちょっと待てよ! い、今のは!

「遼一さん、ただいまかえりました」

 声のする方を見上げると、そこにはあの日のままのハルが、ふわりと宙に浮いているじゃないか!

「ハ、ハル! ハル!」

 静かに俺の横へと前下りる、ひんやりとした冷気と優しい笑顔。

 だが、少し変だ。何かおかしい。……そうだ、よく見るとハルの姿が若干薄く、半透明に感じられる。

「どうした? ハル。また一緒に暮らせるんだろ?」

 そんな俺の問いかけに、彼女は小さく首を横に振った。

「ううん、私はもう消えてしまうんです。でも最後に一目遼一さんに合いたくて……」

「バ……バカ言うなよ! 消えちまうなんて冗談だろ?」

「いいえ、本当です。でも心配しないで……私は所詮ただの分身。本体はちゃんと健在です。そして私の記憶は、本体であるハルに受け継がれるんです。だから……あなたの事はずっと忘れません」

 氷の涙を一粒零し、ハルがにっこりと笑う。俺はただ、次第に薄れ行く彼女を呆然と見つめる事しか出来なかった

「そうか……君はいなくなったとしても、俺と過ごした日々は本体のハルが受け継いでくれるのか。ハル……必ず会いに行くよ。そして毎年夏に、君を指定して契約を結ぶよ。何せ君は我が家のクーラーなんだもんな」

「ありがとう、遼一さん……」

 三日ぶりに見るハルの笑顔に、はたとポケットの中の存在を思い出した。そう、あの日買ってハルに渡しそびれたシルバーリングだ。俺はそいつを取り出し、彼女に差し出した。

「最後にコイツを受け取ってくれないか?」

 俺の言葉に、もう既に向こう側が透けて見えるハルが頷き答える。気のせいだろうか? 透き通ったハルの頬が、ほんのり赤みが差したような気がした。

「最後の力で、私の記憶とこの指輪を本体に届けます。遼一さん、本当に……本当にありがとう」

「うん、うん……きっと会いに行くよ! 君の本体さんによろしくな!」

「はい」

 薄れ行くハルの姿の周りに、まばゆい小さな輝きがまとわり弾ける。その輝きの一つ一つが、きっと俺と暮らした思い出なのだろう。

「最後に……遼一……さん……だ……い……」

 その言葉を最後に、うっすらと輪郭のみを残していたハルの姿がまばゆい光の結晶と化し、静かに空へと昇っていった。

 最後につぶやいた彼女の言葉。だい――台所に何かあるのか? あるわけないよな。英語で死ねと? いやいやバカ言うな。そうだよな、恐らくは……いや、その言葉の続きはハルの本体さんに会って直接聞くのが一番だ。

「ハル……大好きだ」

 ふと見上げると、遥か上空から何か白く小さなものが舞い落ちてくるのが見える。

「雪だ」

 その日、都心から離れた一部地域に、季節外れの雪が降った。

 はらりと舞い落ちる白い結晶たちは、清冷を放ちながらもどこか淡い暖かさを感じさせてくれるようで……

 そいつはまるで、彼女の心が結晶となって、静かに俺へと降り注いでいるようだった。


 次の日。俺は説明書の注意事項の通り、冷房器具であるハルの消滅を告げに、雪女蔵を紹介してくれた市役所の市民課へと出向いた。

「ああ! あんたはいつぞやの雪女蔵の……いやぁあんた実に運がいい! というのも今年はものすごい猛暑だったでしょ? 実は九州・沖縄県地方を中心に日照女が異常発生したみたいでね…………まぁ無理にとは言わんが、今年の冬は去年より寒いらしいよ?」

「……日照女って言うくらいだから、見た目女ッスよね?」

「ああ。小麦色の肌の若い娘らしいよ」

 勿論文無しの俺にとって、予想される今年の冬の寒さを暖房器具なしで乗り切る自信は、皆無に等しかった。



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