第二十四話 雨の増水
春の雨は、夜明け前から強くなった。
屋根を叩く音で目が覚めたとき、私はすぐに起き上がった。白楡館の屋根は応急処置を終えている。だが、問題は屋根だけではない。
川だ。
廊下へ出ると、すでにガスパルが走っていた。
「リディア様、上流の見張りから合図です。水位が早い」
「橋は」
「今のところ持っています。ただ、森から流木が増えていると」
私は外套を羽織り、書斎の地図を持った。
雨の日の冷気が、廊下を一気に満たす。
「ノエを馬でアシュフォードへ。セドリック様に連絡を。村の低い家から避難を始めます。小客間、台所、礼拝室を開けて」
「承知しました」
「メイには名簿を。誰が避難したか、誰が残っているか記録して」
指示を出しながら、心臓は早く打っていた。
怖い。
けれど、怖いからこそ手を動かす。
◇
村へ着くころには、雨は横殴りになっていた。
石橋の下で、川は濁った茶色に膨れ上がっている。先日取り除いた流木がなければ、すでに水は橋にぶつかっていただろう。それでも、上流から新たな枝が次々流れてくる。
セドリック様は、アシュフォードの人手を連れてすぐに駆けつけた。
「避難は」
「低地の五軒から始めています。マルタが子どもを集めています」
「橋の上に人を立たせすぎないでください。流木は鉤竿で岸へ寄せる」
彼の声は雨の中でもよく通った。
私は村の広場へ戻り、避難者の受け入れを見た。メイが震える手で名を読み上げている。
「ベル家、三人。ランベール家、二人。アニエスさんの家、二人」
「アニエスの夫は?」
「橋へ行きました」
「記録して。怪我をしたらすぐロワ先生へ」
マルタは子どもたちに毛布を配り、エリーズは湯を沸かしている。白楡館の小客間は、また病人と避難者の場所になった。
トマが不安そうに私の袖を引いた。
「リディア様、うち、流される?」
私はしゃがんで、彼と目を合わせた。
「流されないように、今みんなで動いているわ。怖いときは、マルタのそばにいなさい」
「リディア様は?」
「私は名簿を見る」
「名簿見ると、川止まる?」
「川は止まらない。でも、誰がどこにいるか分かれば、助けに行ける」
トマは真剣に頷いた。
「じゃあ、見るの大事」
「ええ。とても」
子どもの言葉に、私は少しだけ力をもらった。
◇
昼前、最も危険な知らせが来た。
上流の古い水門に枝が詰まり、水が脇道へあふれ始めているという。このままでは、村の畑だけでなく、白楡館へ続く道も切れる。
セドリック様は水門へ向かうと言った。
「私も行きます」
「危険です」
「水門の古い図面が読めるのは、ガスパルと私です。ガスパルは村に必要です。私が行きます」
セドリック様は一瞬だけ厳しい顔をした。
「足元を離れないでください」
「はい」
水門までの道は泥でひどかった。雨で視界が白くなり、足元の石が滑る。セドリック様の従者に支えられながら、私は濡れた図面を胸に抱えて進んだ。
水門は、森の端にあった。
古い木組みの門が半分下りたまま動かなくなり、そこへ枝が絡んでいる。水は横からあふれ、土手を削っていた。
「全部開けると、下流に一気に流れます」
セドリック様が言った。
「では、半分だけ。ここを外して、補助の溝へ流します」
私は図面の端を指した。
「昔の水路です。母の薬草帳にも、泉の水を逃がす溝として書かれていました。今は埋まりかけていますが、完全には塞がっていないはず」
「確認します」
従者たちが泥の中へ入り、古い溝を探す。雨の音、川の音、人の声。すべてが混ざる。
私は濡れた紙を必死に押さえた。
王宮の紙は、濡れると波打つ。母の薬草帳から写した図は、端が滲み始めていた。
それでも、線は残っている。
「ありました!」
声が上がった。
セドリック様が水門の鎖に手をかける。
「リディア嬢、合図を」
私が?
一瞬、ためらった。
けれど、図面を持っているのは私だ。ミレイユの水門だ。判断を誰かに預ける場面ではない。
「右の鎖を二つ分。左はそのまま。枝を外したら、すぐ退いてください」
声は雨に消えかけた。それでも、届いた。
鎖が軋み、水門が少し上がる。詰まっていた枝が外れ、水が補助の溝へ流れ込んだ。
濁流は、畑の端をかすめながらも村の中心を避けていく。
誰かが歓声を上げた。
私は膝から力が抜けそうになり、セドリック様に支えられた。
「よく判断しました」
「図面があったからです」
「図面を読んで決めたのは、あなたです」
雨の中で、彼の手は温かかった。
◇
夕方、雨は弱まった。
村に大きな被害は出なかった。畑の一部は水をかぶり、橋の欄干は傷んだが、家は流されず、人も無事だった。
白楡館の小客間では、避難していた人々が温かいスープを飲んでいる。メイの名簿には、全員の名の横に確認済みの印がついた。
私は濡れた髪を拭きながら、その名簿を見た。
誰も消えていない。
それだけで、今日は十分だった。
夜遅く、セドリック様が帰る前に、玄関で立ち止まった。
「リディア嬢」
「はい」
「あなたは、ミレイユの領主です」
その言葉は、褒め言葉というより確認だった。
私は疲れた体で、まっすぐ立った。
「はい」
今度は、迷わず答えられた。
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