第十三話 フローラの初仕事
慈善音楽会の日、フローラは朝食を半分しか食べられなかった。
王宮の白い小皿には、蜂蜜を塗ったパン、柔らかい卵、薄く切った果物が並んでいる。どれも見た目は美しい。けれど喉が狭くなったようで、飲み込むたびに胸がつかえた。
「緊張しているのですか」
ミリアが向かいの席で微笑んだ。
彼女は今日も愛らしかった。薄桃色のドレス、白い手袋、柔らかな声。王太子ユリウスの隣にいると、花瓶の花まで彼女のために咲いているように見える。
「少しだけ」
フローラはそう答えた。
少しだけ、ではない。本当は逃げ出したいほど怖い。
姉から届いた手紙は、昨夜から何度も読み返した。挨拶は長くしないこと。最初に感謝、次に目的、最後に寄付が誰へ届くか。怖くなったら、会場の一番後ろの侍女へ話すつもりで。
その通りにすれば大丈夫。
そう信じたいのに、王妃の前に立つと頭の中が白くなる。
「リディア様なら、きっと完璧になさるのでしょうね」
ミリアが何気なく言った。
悪意があったのかは分からない。けれど、フローラの手からフォークが滑り、皿に小さな音を立てた。
「お姉様は、お姉様です」
思ったより硬い声が出た。
ミリアは少し目を丸くし、それから悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。比べるつもりはなかったのです」
その謝り方に、フローラはまた苦しくなった。
ミリアは優しい。少なくとも、優しい言葉をよく知っている。けれど、その優しさの後に具体的な手助けが来ることは少なかった。
姉の手紙には、助けてくれる人は立場ではなく行動で選びなさい、とあった。
フローラはその一文を、今朝も胸の中で繰り返していた。
◇
音楽会の会場は、王宮西棟の小ホールだった。
白い柱、金の装飾、磨き上げられた床。客席には貴族夫人たちが並び、その扇の向こうから好奇心がこちらを見ている。
元婚約者の妹。
次の王太子妃候補。
リディアの代わり。
誰も口にはしない。けれど、フローラにはその言葉が空気に書かれているように感じた。
ユリウスは励ますように微笑んだ。
「君ならできる」
「はい」
その言葉はありがたいはずなのに、少し軽かった。
できる根拠を、彼は知らない。何を準備し、どこでつまずき、どう直すのかを知らずに「できる」と言う。それは、フローラ自身も昨日までしていたことだった。
お姉様ならできる。
お姉様がいれば大丈夫。
その言葉がどれほど姉を追い詰めていたのか、フローラは今になって少しずつ分かり始めていた。
名前を呼ばれ、フローラは壇上へ進んだ。
紙を開く手が震える。
王妃がこちらを見ている。
ユリウスがいる。
ミリアもいる。
扇の向こうで、誰かが小さく囁いた。
フローラは息を吸いかけ、喉が詰まった。
そのとき、会場の一番後ろにいる侍女と目が合った。若い侍女だ。銀の盆を胸に抱え、心配そうにこちらを見ている。
あの人へ話せばいい。
フローラは、姉の手紙を思い出した。
「本日は、ミレイユ救貧院の冬越し基金のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
声は少し震えた。けれど、出た。
「音楽は、寒い部屋を直接暖めることはできません。けれど、人の心を動かし、その手を開かせることはできます。本日の寄付は、薪、薬、子どもたちの寝具として届けられます」
原稿は短い。
リディアの手紙に従って、余計な美辞麗句は削った。
「どうか最後まで、お楽しみください」
礼をする。
一拍置いて、拍手が起こった。
大きな成功ではない。完璧でもない。王妃の顔を見れば、改善点はいくらでもあるのだろう。
けれど、フローラは倒れなかった。
◇
音楽会の後、王妃はフローラを小さな控室へ呼んだ。
「よく持ちこたえました」
それは褒め言葉だったのだろうか。
フローラは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「挨拶は短く、目的も明確でした。誰に助言を受けましたか」
フローラは少し迷った。
嘘をつくこともできた。自分で考えたと言えば、評価は上がるかもしれない。けれど、それはすぐ見抜かれる。
「姉から、手紙で」
王妃の表情が少しだけ変わった。
「そうですか」
「姉は、会場へは来ませんでした。私が立つ場所に影を落とせないからと」
言ってから、胸が痛んだ。
私は姉に来てほしかった。
でも、来ないと言われて少しだけほっともした。姉がいれば、きっと全員が姉を見た。私自身も、姉の後ろに隠れた。
「フローラさん」
「はい」
「あなたは、リディアさんとは違います」
「……はい」
「違うまま、必要なものを身につけなさい。リディアさんの代わりを目指しても、あなたが壊れます」
意外な言葉だった。
王妃はいつも、正しさを求める人だと思っていた。けれどその目の奥に、少し疲れが見える。
「王妃様は、姉に戻ってほしいですか」
聞いてはいけないことだと分かっていた。それでも、口から出た。
王妃はすぐには答えなかった。
「戻ってほしい場面はあります」
「場面、ですか」
「ええ。ですが、人は便利な場面のためだけに呼び戻せるものではありません」
フローラは、深く頭を下げた。
◇
その夜、フローラは姉へ手紙を書いた。
お姉様。
音楽会の挨拶は、倒れずに終わりました。教えてくださった通り、後ろの侍女の方を見て話しました。拍手はいただけましたが、まだ何も分かっていないことも分かりました。
私は、お姉様に戻ってきてほしいと思っていました。今も、少し思っています。でも、それは私が楽になりたいからです。
だから、今日は戻ってきてくださいとは書きません。
その代わり、また分からないことを聞いてもいいですか。お姉様の代わりではなく、私が私として立つために。
最後に、フローラは少し迷ってから一文を足した。
お姉様が朝食を食べているか、心配です。
書き終えると、涙が一粒だけ落ちた。
それは悲しみだけの涙ではなかった。
姉が遠くに行ったことを、初めて少しだけ受け入れる涙だった。




