光 十九
「随分、僕は単純だったんですよ?」
低い声で、淡々とすこしおかしみを感じているようにしていう神原に。
「何がだ?」
短く訊く神代に応える。
「…はい、―――単純でした。此処へ来たのは、…―――橿原さんに、騙されたんです。病院に、…――来た理由なんですけど」
「おじさんに、なんて」
眉を寄せていう顔が想像できて、ふと笑う。
「おい」
「ええ、…――。いまにも潰れそうな病院があって、赤字で、その親族経営してる病院の先生で、赤字の借金を背負ってしまうだろうといわれまして」
「…―――おれのことか」
難しい顔でいうのに、少し笑う。
「はい。…――名前を、みて、…。それで、ここへきました。どうしようとか、思っていた訳でもないんですが、…」
難しい顔から、少し困惑したようになって、神代がいう。
「おれの名前は、読みは、…――光、だぞ?ひかる、かみしろひかる、だ」
「わかってます、…―――」
ふう、と息を吐いて目を閉じて。
「でも、釣られてしまったんですよ、…。そんなことに」
「そんなことにか」
憮然と、それとも、そうでもないのか、―――。
いって沈黙する神代に、身体を起こして。
「…ありがとうございます、――おかしなことを、色々聞いてもらって」
「別に、おかしなことじゃない」
真剣にみていう神代に、驚いて。
「…そう、ですね、――――はい」
微苦笑を零していう神原に難しく眉を寄せていう。
「おまえな、…―――だから、」
「はい」
「…―――――」
難しい顔のまま、ぽん、と頭に手をおいて睨むようにみていう神代に思わずぽかんと見詰め返す。
「…あのな」
「…はい」
思わず、そうして見返して。
「―――――…はい、…」
そうして、思わずも笑い出す神原に。
「おまえなっ、…ったく、…だから、――――――!」
「はい、…――――」
もう背景の空が白んでいる。
夜の底が眠り、白く照らされる地平線が、顕かに姿を示し始める。
其処に、夜は明けると。
かならず、明ける夜は、――――…。
「…僕は、…―――」
「何だ?」
「いえ、…」
しずかに微笑んで、少し俯いて。
夜の底から、白く照らされていく世界をみる。
其処には、光の届く世界がある。
夜が来ても、また朝が来ると、…―――そう、単純な。
世界に必ず、朝は来るのだと。
「…神代先生は、―――どうして、借金までして、それも五十七億も、…―――――病院を建替えられたんです?」
「ん?ああ、…―――目標の為だ」
「目標、ですか?」
顔をあげて、何の気なしに聞いたことに、真面目に考えて答えている神代を見ながら。
白く光が世界を照らす中で、神代が実に真剣に腕組みして頷いているのを。
「勿論、目標だ。おれは、医者を無くしたい」
「え?」
思わず、意外すぎる答えに意表をつかれて言葉を返せないでいると。それにも気づいていないのか、極真剣に神代が腕組みしたまま語っている。
「勿論、目標としてかなり無茶なのは解っている。だが、おれの目標は医者がいらなくなることだ。医者がいらない世の中にしたい」
「…―――はい、でもそれは、」
真面目に医師である本人がいっているのに、どういったものかと。
「いいか、医者がいらない社会が理想だ。医者なんてな、必要なければそれが一番いいんだよ。その為には、データを集める」
「…はい?」
驚いている神原にじっと見詰め返して真剣に神代が。
「病の、発病のデータを集める。病はな、発病しなければそれが一番いいんだ。違うか?」
「…―――そう、…ですが」
「だから、データを集めるんだ。勿論、すぐにはいかん。だが、少しでも基礎データを集めていくことで、どうしたら発病するか、どうしたらしないで済むのかが解るはずだ」
信念を持って、真面目に神代がいっているのに気づいて見直す。
「すぐにできるとはおもっていない。だが、例えば、小児救急」
「はい」
真面目に頷いて神代が云う。
「あれは、発熱が緊急性があるかどうかについて、判断できないから問題になる。どんな熱でも救急にいつでも運ぶ必要があるのかどうか。だが、医師にだって判断に苦しむものに、どうして、家族が判断できる?苦しんでいるのに、どうして放って置ける」
厳しい顔でいう神代に、神原が見直す。
「不安になるのは当たり前だ。だが、殆どが救急の必要がない発熱であることも確かだ。こどもに熱がある、―――だが、それが致命的な発熱かどうかについて、判断できる基準があればどうだ?」
「…―――それは、」
驚いてみる神原に頷く。
「基準があればいい。どんな熱か、判断できるデータが揃っていれば、発熱しているこどもを無理に動かさずに済む。自然に回復するものなら、実際に動かさずにいた方が治癒が早い」
「―――はい、」
「だがな、いまはあまりにもデータが少ない。発熱が何度なら安全という訳でもない。だが、データを集めて、判断できるキットや何かが、家庭にあればどうだ?」
沈黙する神原に、神代が続ける。
「難しいのはわかっている。だが、問題になるのはデータなんだ。基礎データを集める。そして、予防するには、どうすればいいかという基礎データを集めていく。子供だけでなく」
「…神代先生、―――」
「診断システムもいまは未熟すぎるが、基礎データを集めていくことで、必ず予防する為には何が必要なのかがわかるはずだ」
信念を持って神代が言い切る。
「…いまは、見逃されている病が多過ぎる。医師の技量によって、発見される病とそうでない病があるという状況は、本来あってはいけないんだ。だが、それも基礎データを集めて、本来見逃してはいけない危険な症状を漏らすことがないようにできれば、医師の技量に頼らず、同じ水準で診断を行うことができるようになるはずだ」
「…神代先生」
「小さな徴候の内に、発病する前に、病になってしまう前に抑える。そうして、予防を行って、医師がいらないようにするのがおれの目標だ。神原」
「はい」
「ばかなことをいっていると思っているんだろう」
「…――――いえ、しかし、…」
「ばかなのは解ってる、だがな、おれの最終的な目標は、医師がいらないようにすることだ。医師が必要のない」
「神代先生」
「尤も、そいつが難しいことは解っている。難しいのは解っている。だがな、…―――大体、いまの医療は遅れてるんだよ!野蛮なんだ。第一、いまだにメスで切って、――針と糸で身体を縫ってたりするんだぞ?野蛮以外の何だよ」
「…―――あの、」
「なんだよ?」
睨む神代に、つい。
「外科医が、―――それいいますか?」
「いうだろ。他に何だっていうんだよ!絶対未来では笑われてるぞ!あの時代には、まだ針と糸で人体を縫い合わせてたんだってな!くそ、腹が立ってきた」
「…あの、落ち着いてください、…―――神代先生。…野蛮、ですか?しかし」
思わずも微苦笑を漏らす神原に神代が眉を寄せて疑わしそうにみる。
「何だ」
「いえ、…―――まさか、外科医で同じことを考えている人がいるとは思わなかったので」
「…同じ?何がだ」
神原がくすりと笑う。
「…その、野蛮というのがです、…。確かに、いまだに針と糸ですからね、…。進歩してない」
「その通りだ。糸が多少素材が変わったくらいで、何も進歩してない。きっと未来には血管なんて簡単に補修して、あっというまに治してて、いまの時代を暗黒時代とかいってるんだよ。大体、出来ないことが多過ぎる!」
怒ってくちを結ぶ神代に、驚いて、それから、つい。
思わずも、微苦笑が漏れて。
「おまえな」
睨む神代に笑む。
「いえ、…――。確かに、出来ない事が、多いですね」
妻と子を想いながらいう神原に。
無言で、その神原をみて神代がいう。
「けど、医者をなくすなんて、簡単にはいかない。だから、―――」
「神代先生?」
「だから、いま出来る最善の医療をするんだ。いつも、常に、…―――必ず最善の」
「…それで、新しい病院を」
建てられたんですか、と。
真直ぐに見詰めてくる神代の黒瞳に。
「実験はしない。実験的な医療は行わない。だが、常に最善の事をする。技術的にも、いま出来る最善をだ。…――――基礎データを集めて、将来医師がいらないようにするのは目標だが、いまはまだそれが実現してはいないからな」
信念と熱さと、成し遂げる意志と。
強い光を宿す神代の瞳に。
「…あなたは、―――」
「だから、おれに協力しろ」
「…―――神代先生?」
茫然と見返す神原に、強い黒瞳で。
「滝岡第一は、難易度の高い疾患を引き受ける。脳神経、心臓血管、肝胆膵―――臓器のジャンルには別れない。全身で診て、全身を管理する。産婦人科に小児科の専門病棟。滝岡総合は一番一般総合病院に近い形で、地域の中核病院として機能する。まだ完全に揃った訳じゃないが、そういう形にして実行する。…―――神原」
「…はい」
「おれに手を貸せ」
「…――――神代先生」
白く射し染める日に、互いの横顔が照らされるのを。
世界に強烈な光が訪れるのを。
光が。
――――ひかり、…―――。
真直ぐに見詰める黒瞳に。
思わずも、泣くように笑んでいた。
「…神代先生」
「神原、おまえは医者だ」
その言葉に、焼き付いた光景が蘇る。
白い布の掛けられた遺体。
救えなかった。…
黙ってかれを見ている橿原。
「全部は救えない。必ず、これからも失くす命は出てくる。完全は無いからな。だが、…――――」
「神代さん」
茫然と呟くようにいう神原を見返す。
「完全に近付ける。最善を尽くせる施設にする。出来ることを、最後まであきらめずにやる医師がいる。…神原、おれたちは神様じゃない。」
「…――――」
くちびるを僅かに咬み、強い視線で見返す神原に神代が云う。
「完全はない。そして、神様でも無い。だから、力の限りを尽くすんだ。神原、…――――」
「はい」
不意に、痛みを呑むようにして神代が強い黒瞳にその苦しみを隠していることに。
――――この人は、…――――。
「そう、ですね、…。僕達は神様じゃない、…――――。その通りです。」
神様なら、何もかもを見通せて。
例えば、あの日。
いかないようにと、…――――。
そんなことさえ、いえるかもしれない、と。
けれど、現実は神様でなく、…――――。
「はい、…―――」
何も勘は働かず、妻に出掛けるときに、何もいえなかった。
今日は家にいてくれといったら、あの交差点に行くなといえたら?
そんな直感が、もし働けば。
――――現実に、そんなことは無かったけれども。
「…神原」
しずかに呼び掛ける神代を見る。
穏やかな視線で、或いは焼ける痛みを呑み込んだ、その黒瞳で。
「総てを救うことのできる神様なんかじゃない。…だから、せめて、救える命は、手が届く限り、救うんだ。完全はない。神様じゃない。だから、…―――――」
「神代さん」
大きく神代が息を吐く。
一度目を閉じて、再びひらいて。
「神原。その為に、手を貸してくれ。神様じゃない俺達が、少しでも手を届かせる為に、援けてくれ」
「…神代先生、――――」
「一緒に、手を差し伸べよう」
静かに強い黒瞳が見詰めるのに。
微苦笑を零して、俯いて。
首を振っていた。
それは、苦しいことだ。
わかっている。
苦しんで、恐ろしい底無し沼にでも足を踏み入れるような恐ろしい心地だ。
何故なら、手を差し伸べて、もし、…―――――。
無言で見あげる神原に、無言で神代が見返す。
「…―――――」
―――この人は、…まったく。
地獄をわかっている。
最初から、手を差し伸べなければ、痛くは無い。
そうしたっていいのだ。
誰が強制している訳でもないのだから。
――――…物好きですね、…。
微苦笑を零して、俯いて。
「まったく、あなたは、…―――」
手を差し伸べて、失ったら。
喪失が、恐ろしい程の傷を付けることを知っている。
神様でなく。
神様でないから。
「…――――――本当に、ばかですね」
「いってろ」
神代が横を向くのに、笑んで、そして。
「…おいっ?」
抱きしめて、その肩に額を落として苦笑していた。
「神原っ、おい!」
「…本当に、ばかですね。…わかってますか?」
「―――――…自覚はある。」
真面目に眉を寄せていうのが、見なくてもわかるのが。
「いえ、…――まったく、」
笑み零れて、抱きしめたまま、くつくつと笑っている神原に、神代が眉を寄せる。
「おまえなっ?放せよっ」
「いやです」
「…―――おいっ?」
驚く神代に構わず、目を閉じる。
―――やっぱり、温かいですね、…――――。
「温かい、…ですね、―――」
妻の身体は、…――――。
冷たくなってしまった。
けれど、…――――。
「…――――」
無言で、神代が神原の背を叩く。かるく、仕方ないな、というように叩いて、息を吐いて。
それに、少し微笑みを零して。
「…―――って、おい?寝たのか?神原!」
力の抜けるのに気づいて、驚いてみて大声で云い掛けて声をひそめる。
「お、…おまえな、」
いってから、困惑して、かれ、神代光に抱き付いたまま寝ている神原を抱えて。
―――もう朝か?しかし、まだ時間が、…―――。
「おいっ、ここで寝たら風邪ひくだろ!おいって、…!」
小声でいう神代の声はすっかり届いていないようで。
安心しきったように眠る神原に、完全に困惑して背を支えて。
「だからな?」
仕方なく、何とか抱えて、支えながら寝室へ。
「ったく、何してるんだ、おれ、――――くそ、重いっ、」
そして、寝台に投げ出して。
上掛けを寒くないように掛けてやって、それから。
「っとに」
文句を呟きながら、隣に潜り込んで。
「――――…完全に寝てるな」
それから、まあ、と考える。
―――犬やねこの仔が、固まって丸まって寝てるようなもんか?
ねこは大人でもねこ鍋になって寝るしな、と。
それに確か、スキンシップとか体温とか、何とかは。
「まあ、――だから、いいのか?」
犬やねこが寄り合い所帯で寝るようなもんだな、と。
うん、と一つ頷くと納得して。
そして、既に深い眠りに就く神代光。
外科医に必要なのは、体力と筋力と体調を保つ為に、いつでもどこでもすぐに眠れる能力だ、と。
実は真面目にそう考えて、常々実行してもいる一人である神代光。
同じ外科医で、いまはすっかり深い眠りの中にいる神原を隣に。
かれらの旅路は、まだまだこれから始まったばかりであるのかもしれない。――――
永遠の生命は何処にもなく。
神様では、けしてなくとも。
苦しくても、手を伸ばす為に、…―――――。
永遠を。
手に入れることは、できなくとも。
永遠が無いことを知っていても。




