光 十八
「…僕は、…―――――泣いたんですね」
随分と酷い顔だろうな、と泣いた顔を乱暴に拳の背でぬぐって神原が苦笑して。
それから、息を吐いて。
「たまには、いいだろ」
ぶっきらぼうに、眉を寄せて向こうをむいていう神代の声に。
「…――――はい、――」
額に手を当てて、目を閉じてソファに凭れる。
足を投げ出して、大きく息を吐いて。
――――泣くのって、結構疲れるんですね、…。――――
そして、おもうのは。
泣いたのは、あれから、…。
はじめてで。
「…神原」
「はい、…―――」
「いや、なんでもない」
外を眺めながらいうのがわかって、つい微笑む。
――――この人は、…―――。
「みたんですか?」
それから、短くきいてみる。
それに。
「なにをだ」
小さくきいてみる。
「死体検案書です」
「―――――…」
しばらく、答えは返らなかった。
目蓋の底に沈む光景を思い返す。
しずかに佇む橿原の姿。その前に置かれた、…―――。
「みた」
短い答えに、はっとして視線を向ける。
「神代さん」
「…――――二人、…――――」
苦しいように声を絞り出す背を。
「…そうです、二人です」
茫然とくちにする神原を、神代が振り向く。
「…神原」
「二人でした、…―――僕は、気づいてもいなかった。…知らなかったんです、妻が、…――こどもを妊娠してたなんて、…三ヶ月くらい、に、…―――気づかずに、」
「…―――神原!」
「いわれるまで、――――…ICUで、事故にあって、…――――手術もできませんでした。何も。僕が着いたときには、もうICUにいて、お子さんは、残念でしたと」
茫然と呟く神原に近付いて、神代がもう一度、しずかに抱き寄せる。無言で、肩に手を置いて。
「交通事故で、…―――暴走した車が、交差点に突っ込んで、…――――何も感じませんでした。ニュースでみて、酷いなと思って、それで、あのときは、…―――…仕事をしてたんです。…手術を、――――」
「神原」
短く呼ぶ声に、眸を閉じる。
「執刀してました。何時間も、…――――だから、連絡が遅れて、家族に、…尤も、同時に幾人も、だから、…―――身元の確認に時間が掛かって、連絡はどちらにしても遅くなったんだそうですが。…妻が、手術を受けていた際、僕は、…―――手術、してたんです。…別の患者さんの」
吐き出すように押さえた苦しさを覗かせる声で。
「…―――神原、」
「妻が、生死を別ける時に、僕は他人の、…―――彼女を、助けられずに、…―――――」
ぎゅっ、と神代が神原を抱き締める。目を閉じて、強く肩を掴む手に。
「…神代先生、…――――」
橿原の言葉が耳に蘇っていた。
―――あなたが執刀していたとしても、彼女は助かりませんでしたよ。
淡々と事実だけを告げる冷たい声が。
――――それでも、…―――――。
そして、その喪失は。
妻だけではなくて、…――――。
「…神代さん、――――」
つよく、肩を抱きしめる手に。
…妻と、子の。
永遠に、それは帰ってはこない。
「…―――ばかやろう」
みじかくいうと、神代が抱きしめて。
―――――え、…。
「…かみしろ、せんせい?」
「だまってろ!…ばかやろう!」
「でも、…その、」
なんだか、おかしくなって。
泣き笑って、逆にその神代の肩に手をおいていっていた。
「あなたが、何故泣くんです?」
「…―――しるかっ、…―――!だから、泣いてないっ!」
――――…ええと、まったく、…――――。
「あの、それは、」
苦しくないですか?と。泣いているのに、泣いていないと言い張る神代に。
―――まったく、この人は、…―――だから、
「だから、…まったく、――――」
ひかり、――――。
唯一人の名前が、脳裏に浮かんでいた。
こどもの名前は、男か女かもわからなくて、つけられないから。
妻の、…――――。
そして、単純に。
橿原に、騙された理由の。
「まったく、何ていう、…人ですか、…――――」
愛している、とおもう。
もうこの世にいない唯一人の。
―――ひかり、…――――。
「ひかり、…―――」
その名を、無意識のようにくちから零す神原に。
無言で、神代は抱く手を強くしていた。
死体検案書に書かれていた、一つの名前。
先に二人といったが、死体として扱われたのは、一人分だけだったが、…――――。
そこに載っていた一つの名前に。
胎児の、…――――。
だから、二人だといった。
一人の死体検案書に、奪われた二人の命が記載されていたのを。




