06. 北領地、最悪のスタート
空が低い。
昼だというのに薄暗く、分厚い雲が空一面を覆っている。太陽はどこかにあるはずなのに、存在感がまるでない。
『コイテン』の世界の最北、水無瀬村の門前に、私は立っていた。
三領地のうち、桃園彩葉は迷いなく南を選んだ。
残ったのは中央と北。
常識的に考えれば中央が妥当だったと思う。
北は加護が薄く、土地は痩せ、交易も不安定で、魔族領も近い。ゲーム上でも明らかな高難度マップだ。
それでも、私は北を選んだ。
脳裏をよぎるのは、森で出会ったあの銀髪の男の言葉だ。
――誰かに選ばれるのを待つな。自分の手で、切り拓け。
門前に集まった領民たちは、揃って顔色が暗かった。挨拶の声もまばらで、小さい。
歓迎ムードという概念は、この領地には実装されていないらしい。
厚手の服はどれも擦り切れ、袖や裾に何度も繕った跡がある。
門扉の木材は乾ききってひびが入り、見張り台には人影がない。
村から漂う炊煙も少なく、昼どきにしては生活の気配が薄かった。
貧しい。
それだけじゃない。疲弊している。
目の前の人たちの目には、生気より先に諦めが見えた。
――愛される努力すらしないお前が、果たして領民に受け入れられるのか――見ものだな。
うるさい。
見ものだというなら、結果で返す。
私はひとつ息をつき、村人たちに向き直った。
「みなさん、はじめまして。わたくしは青藍澄音と申します。このたび、北領地を担当することになった恋巫女候補ですわ」
……まだ慣れない。
内心は完全に「私」なのに、口から出るのは「わたくし」だ。
異世界転移、妙なところだけ高機能である。
沈黙のあと、年配の男が低い声で言った。
「……ここは、照国さまの光が薄い」
「そんな土地に来たってことは……あなたも神々に見捨てられたんでしょう」
「どうせ、すぐいなくなる。前に来た神殿の使いも、そうだった」
なるほど。
失礼だとは思う。でも、これがこの人たちの防衛なんだろう。期待して、裏切られて、それを何度も繰り返した顔だ。
私は相手をまっすぐ見た。
「いいえ。ここは、わたくしが自分で選びましたわ」
ざわ、と空気が揺れた。
「……自分で?」
「ええ。加護が届きにくいから来た。霊気が弱いから来た。それが理由ですわ」
自分で口にすると、芯が通る。
「すぐに豊かになる、と無責任なことは申しません。ですが、投げ出すつもりも、見て見ぬふりをするつもりもありませんわ」
私は声の調子を少し変えた。
「まず確認したいことがあります。備蓄蔵を預かっている方、見張りをまとめている方、病人やけが人のことを把握している方はいらっしゃいますか。最近の魔物被害と、使える荷車の数も知りたいのです」
ざわめきの質が変わった。何人かが顔を見合わせる。
たぶん彼らは、もっとこう……ふんわりした激励とか、神殿っぽいありがたいお言葉とか、そういうものを想定していたのだと思う。
「……何をする気だ」
「現状を把握します」
私は門扉の蝶番に目を向けた。片側がわずかに沈み、地面を擦った跡がある。
「この門、開閉に時間がかかりますわね。木が痩せて歪んでいる。夜に慌てて閉めることになれば危険です」
男たちの表情が変わる。
「それに、見張り台が空です。人手が足りないのですか?」
貧困。過疎。警戒疲れ。加護の弱さ。
問題は一つではない。複合的だ。
そのときだった。
「待って待って待ってぇ~~!」
張りつめた空気を、鈴みたいな声が切り裂いた。
白いものがひゅんと視界に飛び込んでくる。
小さくて、丸くて、もふもふしていて、やけに勢いがある。
「え……なに……」
私の前で、その白い塊はぴたりと止まり、得意げに胸を張った。
薄い青の瞳がきらりと光る。
「やあ! やっと会えた!」
雪みたいに白い長毛。短い手足。まるい耳。
猫……にしてはずんぐりむっくりしている。
「ぼくは澄音と契約してる神獣だよ!」
……神獣?
「え、契約なんてした覚えが――」
「してるよ! ほら、あのとき!」
「あのときって、いつですの!?」
「澄音がこっちに来る前!」
その瞬間、脳裏にノイズ混じりの文字列がよみがえった。
特殊アイテム『万象盤』付与。
神獣契約、準備完了。
中立存在の干渉を許可。
……あれか。
私がまだ混乱している一方で、村人たちの空気ははっきり変わった。
「……神獣様?」
「そう! 神獣でーす!」
白い毛玉――いや、自称神獣は、くるりと私の足元を回って言った。
「この子はまだ恋巫女候補だけど、ぼくと契約できるくらいには、ちゃんと資格があるってこと!」
村人たちの視線が私に集まる。拒絶一色だった空気に、わずかに様子見が混じった。
「というわけで、よろしくね。澄音!」
「ええ。よろしくお願いしますわ」
「ねえ澄音。早速だけど、ぼくに名前をつけて!」
「名前?」
「名付けてもらうと、もっとちゃんと繋がれるの」
「……何がですの?」
「澄音とぼく!」
だめだ、よくわからない。
でも、白くて丸いその生き物は、期待に満ちた目でこちらを見上げていた。
「……しらたま」
「しらたま!」
ぱあっと顔を輝かせ、白い毛玉がぴょんと跳ねた。
「うん、いいね! 今日からぼく、しらたまだ!」
適当すぎる気もしたが、本人がこれだけ嬉しそうなら間違いではないのかもしれない。
しらたまは満足げに胸を張り、それから少しだけ真面目な顔になった。
「ここは最北の領地だから、照国さまの光が届きにくいんだ。だから霊気の循環も弱くて、みんな元気が出ないの」
「環境が精神に影響している、ということですのね」
「そうそう。あと、魔族領が近いから、みんなずっと警戒してる。休めないんだよ」
北領地は、単なる不人気エリアじゃない。
日照不足と交易難に加えて、外敵への緊張が常態化している。村人たちの顔が暗いのも当然だった。
しらたまは短い足でびしっと地面を踏んだ。
「でも、澄音は逃げないよ! 逃げるなら、ぼくが噛む!」
「噛むんですの!?」
「噛む!」
村人たちの間に、ほんのわずかに笑いが漏れた。固まっていた空気が少しだけゆるむ。
私はその変化を見逃さず、言った。
「わたくしの役目は、この地を立て直すことですわ。村長、あるいはまとめ役の方がいらっしゃるなら、備蓄蔵と井戸、見張り台、それから病人のいる家を案内していただきたいのです」
「病人……?」
ぽつりと、女の声がした。
振り向くと、子どもを抱いた若い母親が立っていた。頬が赤く、息が少し浅い。熱がありそうだ。
私は反射的に一歩近づいたが、母親はびくりとして身を引いた。
――警戒されている。
当然だ。
私はそこで止まり、距離を詰めるのをやめた。
「……あとで、詳しく見せてくださいな」
静かにそう言うと、母親は迷った末に小さく頷いた。
その瞬間、ひやりと袖口を冷たい気配が撫でた。
風ではない。もっと薄くて静かな、意識の輪郭に触れてくるような冷たさ。
しらたまが、ぴくりと耳を立てた。
「……あ」
「どうしましたの?」
「ううん。なんでもない」
ぜんぜん、なんでもなさそうじゃない顔で言う。
直後、私の右手にひやりとした重みが落ちた。
見下ろすと、いつの間にか薄い板状の道具が手の中にある。手鏡に似ているが鏡面ではない。
銀とも氷ともつかない質感の表面に、細かな紋様が刻まれていた。
「……何ですの、これ」
「万象盤!」
その言葉に、記憶がつながる。転移前、適性確認の最後に見た表示。
特殊アイテム『万象盤』付与。
使用権だけ先に寄越して、実物は今ここで出す仕様らしい。
「これで、領地の状態が見えるよ。たぶん」
「最後を不安そうに言わないでくださる?」
「だって久しぶりなんだもん……!」
しらたまが前脚で万象盤をつつく。
次の瞬間、板の表面に淡い光が走った。
【北領地/水無瀬村】
【霊気:低下】
【治安:不安定】
【領民信用度:極低】
【備蓄:不足】
【隠しイベント:発生予兆】
……は?
見覚えのあるUIだった。
だが、ゲーム画面で見ていたものよりずっと精密で、生き物みたいに明滅している。
私は万象盤を凝視する。
隠しイベント?
しらたまも覗き込み、あ、と小さく声を上げた。
「出ちゃった」
「何がですの」
「嫌なやつ!」
嫌なやつ、で済ませるな。
そのとき、表示が一度ふっと消え、次の文字列が浮かび上がった。
【謎の病の流行(予兆)】
【発生条件:霊気停滞/治安低下/資源不足】
【期限:二日十四時間】
背筋が冷えた。
さっきの子どもの赤い頬が脳裏に浮かぶ。
村人たちは、私の手元の光る板を不安そうに見つめていた。読めてはいないだろう。だが、良くないことが起きたのだとは察している顔だった。
「……しらたま」
「うん」
「のんびり挨拶している場合ではなさそうですわね」
「そうみたい」
掌の上で、万象盤がひやりと脈打つ。
恋愛で世界が回る仕組みだろうと関係ない。
まずは、この村で起きかけていることを止める。それが先だ。




