03. ライバル恋巫女候補、北領地で目覚める
冷たい空気が、肌に触れた。
しんと静まり返った森の気配の中、私はゆっくりと目を開ける。
空は薄曇り。吐いた息がうっすら白くなる。凍てつくほどではないが、身体の奥にじわりと冷えが染み込んでいた。
頭が重い。寝起きの倦怠感とは違う、何かを深く消耗したあとのような、妙な鈍さが残っている。
身体を起こすと、背に当たったのは柔らかいソファではなく、湿った土と落ち葉の感触だった。
……あれ? 私、昨日は自宅のリビングで、ソファに座ったまま──
記憶にアクセスするたびに、妙なラグがある——まるでクラウドストレージの同期が終わっていないみたいな感じだ。
ゆっくりと顔を上げると、木立のすき間から淡い光が差し込んでいる。風のざわめき、小鳥のさえずり、落ち葉と土のにおい。どれもが、あまりに生々しくて。
完全に、森の中だった。
混乱のまま立ち上がると、違和感が一気に押し寄せた。
視界が鮮明すぎる。風の音が立体的に響く。匂いが濃密で、空気に重みがある。
思考がまとまる前に、背後から微かな気配がした。
「……想定外だな。最初にここへ落ちてくるのが、君だとは」
低く静かな声が、背後に響いた。
振り返った先に、ひとりの青年が立っていた。
銀の髪。氷を溶かした水のような薄青の瞳。儚いほど整った顔立ちに、まっすぐに伸びた長身。
彼は微動だにせず、ただそこにいるだけで、空間ごと静止させるような存在感を放っていた。
「……どなた?」
声が自然と出ていた。
「名乗る必要はない。私は観測者にすぎない」
彼は視線をこちらには向けず、空の一点を見つめたまま、言葉を継いだ。
「ここは、強く望んだ者だけが辿り着く場所だ。誰かに選ばれるのを待つな——自分の手で、切り拓け」
薄く、笑っていた。
何かを返そうと口を開いた瞬間、視界の端で銀の影が揺れた。
反射的に目を瞑って、開いたときにはもう誰もいない。
足音も、気配も、あの冷気さえも——跡形もなく、消えていた。
……何、今の人。いや、人?
明らかに"ゲームに出てくるイケメンキャラ"の造形だけど──それにしてもリアルすぎる。
記憶をたぐる。あんなキャラ、実装予定にも、没データにもいなかった。
それにあのセリフの言い回し。ライター陣の誰とも文体が違う。
そのとき、冷たい風が一吹き、私の髪をさらった。
「っ……」
首元に何かが当たる。手をやると、指先に絡んだのは、絹糸のように柔らかな髪。
……え?
胸まである、薄い銀髪。しかも、さらさら。
水色がかった着物風の服。控えめな刺繍と異国風の意匠。身体は細く、肌は白く、顔は……顔は……
顔に触れると、明らかに私の骨格ではなかった。
頬骨も顎のラインも、目元の感覚も違う。指先の皮膚も、声の出し方すらも、別人のようだ。
苔むした石にわずかに溜まった水面が、鏡のように揺れていた。
そこに映っていたのは、見知らぬ女だった。
──誰よ、これ。
整いすぎてて、感情が読み取れない。
不気味だ――と、まず思った。それと同時に、どこかで見た気がした。
ここまで質感のあるVRなんて、現実世界に存在しない。
夢にしては精密すぎる。記憶の再構成じゃない。これは、完全に"別の現実"だ。
そのとき、枝の揺れる音がした。反射的に顔を上げると、一軒の民家が見えた。わらぶき屋根、薪を割るオジサン、畑の匂い。
状況を把握しきれないまま、一歩踏み出すと、オジサンがこちらに気づいて目を見張った。
「お、お嬢さん!? こんなところでどうされたんですか……! お怪我は……?」
「……いえ。大丈夫ですわ。ここは、どちらでしょうか?」
え、と内心で息を呑む。
なんで私、今……こんな喋り方──
「申し遅れました。私、青藍澄音と申します」
……え。
咄嗟に名乗ろうとして出てきたのは、自分の名前ではなかった。
私は西岡ハツヱだ。なのに口が、勝手に——
青藍澄音。
この名前、知っている。ついさっきまで確かに知っていた。なのに、どこで知ったのかが、靄の中にある。
「は、はい! ここは北領地にある水無瀬村でして……もしや、貴女様は神殿からのお方で……?」
北領地。水無瀬村。
その言葉が、記憶の端をかすめた。
思考の整理が追いついていない。変数が多すぎる。どこから手をつけるべきか——
男が、なおも不安げに言った。
「よろしければ、うちへお越しください。お茶ぐらいしか出せませんが……」
「……ありがとうございます。少しだけ、お邪魔いたしますわ」
違和感はあるのに、なぜかスムーズに喋れてしまう。
まるで"この身体"に、台詞が染みついているみたいだった。
民家へと歩き出しながら、頭の中で情報を並べる。
青藍澄音、という名前。北領地。水無瀬村。「神殿からのお方」。
それから、自動的に出てきた言葉遣い、「ですわ」。
記憶の引き出しが、ゆっくりと開いた。
乙女ゲーム『恋巫女と天瑞星の神々☆』。
略してコイテン。私が開発に携わった、あのゲームだ。
そこに登場する、ヒロインのライバル恋巫女候補。
水色がかった銀髪。青い瞳。整いすぎて何を考えているのかわからない顔。
——さっき水面に映った、あの顔だ。
青藍澄音。
……私が、その青藍澄音に、なっている?
ラグがかかったままの頭で、もう一度確かめる。
"青藍澄音"という名前が、"私"という感覚に、まだ馴染んでいない。
まだここが本当にコイテンの世界かどうかは断言できない。この身体が私のものだとも、まだわからない。
でも、『青藍澄音』と『北領地』と『恋巫女候補』は、確かに繋がった。
まずは、観察だ。
わからないことは今すぐ断定しない。それが、私のやり方だから。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
本日は3話まとめて投稿しましたが、今後はゆっくりペース(できれば週1目標)での更新になります。
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引き続き、澄音(中身はハツヱ)の領地経営を見守っていただけたら幸いです。




