第83話 堕ちたのは
奪ったのか。
奪われたのか。
その違いは、案外あいまいだ。
触れた瞬間から、戻れないことがある。
気づいた時には、もう遅い。
凛が去ったあとも、空気は戻らなかった。
海斗の手は、まだノアールの腰に触れている。
離すつもりがない。
ノアールは、ゆっくり視線を上げた。
「勘違いしないで」
低い声。
揺れていない。
「私が堕ちたんじゃない」
一歩、近づく。
距離を詰めるのは、ノアールの方。
「私に触れた時点で、もう戻れないよ」
静かな宣告。
「あなたが選んだの」
微笑まない。
ただ、見つめる。
「堕ちたのは、あなた」
その瞬間、海斗の心臓が止まった。
奪ったつもりだった。
奪われていたのは、自分の方だと知る。
足元に落ちた台本が、ぱさりと滑る。
風はない。
なのに、ページが勝手にめくれ始める。
ばらばらと。
止まらない。
《逃げるな》
《欲しがれ》
《堕ちろ》
声が胸の奥に落ちる。
ノアールの瞳が、わずかに赤く揺れた。
床に、うっすらと歪んだ円。
影の線。
黒い煙が、足元から静かに立ちのぼる。
ページが、ぴたりと止まる。
そこにあるのは、書かれていないはずの一文。
――あなたは、もう戻れない。
凛の顔がよぎる。
笑っていた日。
平和だった日。
戻れ。
追いかけろ。
今ならまだ。
身体が命じる。
でも、動かない。
見えない何かに縫い止められたように。
廊下の奥。
レンが立っている。
赤い瞳も。
煙も。
浮かぶ模様も。
全部、見えている。
声を出そうとする。
出ない。
一歩踏み出そうとする。
できない。
ノアールは、きょとんとした顔で海斗を見上げる。
何も知らない目。
煙が、すっと消える。
台本が、ぱたりと閉じる。
空気が戻る。
海斗は息を吸い込む。
レンの指先が白くなる。
ノアールは小さく首をかしげた。
「……どうしたの?」
何も、覚えていない。
何もなかった、はずでした。
でも、見た人は見ています。
動けなかった人もいます。
そして――
本人だけが、何も覚えていない。
次は、止められない場所へ。




