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第75話 花びらの距離
触れる一瞬で、
時間がほどけることがあります。
同じ階段を降りる。
昨日より、光が強い。
桜は満ちていた。
風が吹くたび、
空が色づく。
ベンチのまわりだけ、
花びらの層ができている。
「本番いきます」
声は遠い。
もう静かだった。
レンと並んで立つ。
距離は近い。
触れていないだけで、近い。
役の設定は分かっている。
告白のあと、
彼が返事の前に触れる。
台本ではそうなっている。
ノアールは呼吸を整える。
これは芝居。
役。
そう思うことにする。
風が抜けた。
花びらが一斉に舞う。
光が揺れる。
レンの目がまっすぐ向く。
迷いがない視線。
胸の奥が先に反応した。
台詞が入る。
声が震えないように置く。
沈黙が落ちる。
一歩、近づく音。
レンの手が頬に触れた。
やさしい温度だった。
そのまま、距離が消える。
唇が重なる。
短い。
でも逃げ場がない近さだった。
その瞬間――
はじめてじゃない、
という感覚だけが走った。
光の中で、
桜の下で、
誰かが笑っていた気がした。
小さな手。
約束みたいな言葉。
届かない記憶の影。
心臓だけが強く打つ。
カットの声が入る前に、
レンが少しだけ離れた。
目が、わずかに潤んで見えた。
でも崩れない。
全部、演技に見える表情だった。
花びらがまだ降っている。
世界が、ゆっくり戻ってきた。
はじめてのはずなのに、
心だけが覚えていることがあります。




