第66話 桜の記憶
美しい景色ほど、記憶の奥を揺らす。
思い出せないはずの声が、心の奥で響いた。
映画の制作発表会場は、春の装飾で満ちていた。
巨大スクリーンに映し出される桜の映像。
花びらが舞うプロジェクション演出。
光と照明で作られた、人工の春。
まだ冬なのに、そこだけ別の季節だった。
「ヒロインのノアールさんです」
紹介の拍手が響く。
ライトが眩しい。
隣にレンが立つ。
完璧な王子の笑顔。
距離は近いが、触れない。
「緊張してる?」
小さな声。
ノアールは前を向いたまま答える。
「仕事なので」
レンがわずかに笑う。
「その冷たさ、ゾクゾクする」
一瞬だけ視線が落ちる。
(優しく言うべきなのに)
わずかに息が揺れる。
(また違う言葉が先に出る)
すぐに甘い声へ戻る。
「困ったな」
何事もなかったように微笑む。
周囲は誰も気づかない。
ノアールだけが、引っかかった。
スクリーンの桜を見る。
胸がざわつく。
(ここ……来たことある……?)
子供の声が一瞬よぎる。
笑い声。
小さな約束。
手をつなぐ影。
意味は分からない。
でも、懐かしい。
頭がわずかに痛んだ。
レンが記者に答えている。
「彼女は特別な存在です」
「一緒にいると、時間が戻る感覚がある」
記者は笑う。
比喩だと思っている。
ノアールだけが引っかかった。
フォトセッション。
桜映像のスクリーン前に並ぶ。
肩が触れそうな距離。
レンが囁く。
「桜の下ってさ」
「約束する場所なんだよ」
視線はカメラのまま。
「覚えてない?」
ノアールは答えない。
答えられない。
《思い出して》
闇が揺れる。
《あの本も、あの日も》
呼吸が浅くなる。
フラッシュが光る。
誰も気づかない。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。




