第63話 甘い顔の侵入者
優しい言葉は、いつも正面から来るとは限らない。
逃げ道を残したまま、心の内側に入り込んでくる。
撮影現場は、朝から空気が硬かった。
笑っている声が多いのに、温度がない。
ノアールの台本だけが見つからなかった。
バッグの中。机の下。控え椅子の周り。
昨日、確かに置いた場所にない。
「まだ見つからない?」
先輩女優が顔を出す。
口元は優しい。目は冷たい。
「進行止められないから、共有で回して」
スタッフの声が飛ぶ。
ノアールは小さく頭を下げた。
「すみません。見せてください」
声は出た。
指先が冷えていた。
衣装合わせの時間。
ハンガーに掛かった衣装の胸元に、薄い染みがついている。
「誰かコーヒーこぼした?」
誰かが言う。
誰も反応しない。
代替はある。
サイズが微妙に合わない。
「まあ、映らない位置だし」
軽く笑われる。
胸の奥だけが、重くなる。
「いいねー」
後ろから声。
振り向かなくても分かる。
レンだった。
「そのギリギリで立ってる感じ」
薄く笑う。
「そういうの、嫌いじゃない」
褒め言葉なのに、救いがない。
距離が近い。
「印象は、作った方がいい」
小瓶を取り出す。
「現場はね、覚えられた人が次も呼ばれる」
手首に軽く霧が落ちる。
シュッ。
ノアールの肩が小さく跳ねた。
声が出ない。
拭こうとして――やめる。
騒ぎにしたくなかった。
視線だけが硬くなる。
レンはそれを見て、満足そうに笑った。
「いいね」
低く。
「そういう反応、好き」
通りがかったスタッフが言う。
「あれ、その香りレンと同じだよね。センスいい」
胸の奥がざわつく。
印をつけられたみたいだった。
昼休憩。
スマホに写真が届く。
ソレイユとルミエール。
局の食堂で並んで笑っている。
『久しぶりに同じ現場!』
明るい文字。
ノアールは返信する。
『順調だよ。忙しいけど大丈夫』
画面の中では、笑っていた。
リハーサル前。
レンが隣に立つ。
「君さ」
視線を外したまま言う。
「子役の頃、一緒だった」
ノアールは首を振る。
「覚えてないです」
「だろうね」
笑う。
「やっと追いついた」
言い方が、妙に近い。
「君がいなかった時間、つまらなかった」
冗談みたいな声。
目は冗談じゃない。
「僕が味方なら、全部助けてあげられるのに」
甘い声だった。
逃げ道がある言い方。
ノアールは小さく息を吸う。
「……恋愛禁止なので」
かすれた声。
レンは笑う。
「それ、表向き」
少し近づく。
「みんな裏ではやってる」
さらに一言。
「君のお姉さんも、派手だって聞いた」
ノアールの視線が変わる。
「姉は、違います」
静かだった。
でも、揺れていなかった。
レンは嬉しそうに笑う。
「最高」
囁く。
「そういう芯、好き」
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。




