第62話 それぞれの甘い誘惑
望んでいた場所へ一歩近づくたびに、風は冷たくなり、足元には深い影が伸びていく。
甘い言葉の裏側に隠された、抗いがたい「誘惑」の始まりでした。
廊下の空気が、やけに甘ったるい。
笑い声だけが軽くて、視線は重い。
「ねえ、聞いた? もう別れたらしいよ」
わざと聞こえる距離で言う。逃がさない言い方だ。
「やっぱさ、一般人とアイドルって無理でしょ」
「普通、アイドルは恋愛禁止だもんね」
くすっと笑う声。
正論の形をした、鋭い石。
ソレイユは足を止めない。
止めたら、その石を全部、心で受け止めてしまう。
教室の前。ゆうとの周りには、女子たちが群がっていた。
差し出される小袋。媚びるような笑い声。
それは、ソレイユのいない隙間を埋めようとする、執拗な誘惑だった。
ゆうとは困った顔で笑いながら、何度もソレイユの方を気にする。
けれど、ソレイユは一度も目を合わせることなく、自分の席へと急いだ。
いま彼に近づけば、噂は「確定」に変わる。
それは彼の日常を壊すことだ。
その日の夜。
自室のベッドで横になったとき、スマホが小さく震えた。
ゆうとだった。
ゆうと:『まだ起きてる?』
ソレイユ:『ゆうと、女の子に人気だね……』
ゆうと:『昼休み、なんだか心配かけたね。誤解しないでね。僕は、本当に困ってるんだ』
ゆうと:『本当はソレイユと、前みたいに一緒に過ごしたい。あ、でも……今はそれが無理だって、わかってるから』
視界が、じわじわと熱くなる。
ゆうと:『ソレイユがアイドル頑張ってる間、僕はソレイユに似合う男になるために勉強する。ずっと応援してるから。信じて』
ソレイユ:『信じてる。愛してる、ゆうと ❤️』
ゆうと:『僕も愛してる ❤️』
画面を閉じて、ソレイユはスマホを胸に抱きしめた。
「……よし」
これで、明日からまた頑張れる。
放課後。事務所の空気は、学校よりさらに冷たかった。
掲示板に踊る『同期グループ:ドームツアー決定』の文字。
アンナが鏡越しに、刺すような視線を向ける。
「おかえり。遊園地で盛り上がったんですって? 住宅展示場あたりがお似合いだけど、喜んでる場合じゃないわよ」
さらに、社長室。ドン、と資料が机に落ちる。
「CMは決まる。だが、同期との差は埋まってない。
ノアール、ドラマだ。ちょい役でいい、顔を売れ。
これが最後のチャンスだと思え」
ノアールは頷く。
頷ける自分が嫌いになる。
ルミエールは気づかない。
気づかないまま、次の演出案を練っている。
気づかれないのが、一番きつかった。
数日後。
ドラマの撮影現場。
そこは、あの夜の誓いすら届かない、欲望の渦巻く場所だった。
ノアールはセットの端に立っていた。
配役は「背景」に近いちょい役。
ライトは熱いのに、空気はどこまでも冷え切っている。
そこに、レンが入ってきた。
彼が動くだけで現場の空気が揃い、スタッフの背筋が伸びる。
レンは一度だけ周囲を見渡し――最後に、ノアールを見た。
「見つけた」という顔。
近づいてくる。わざと、ゆっくり。
「君、面白いね」
ノアールは目を上げない。
「……仕事なので」
レンが笑う。
「その顔、崩したい」
瞳がそう語っている。
指が伸び、ノアールの長い黒髪に無遠慮に触れた。
軽い。なのに、逃げられない。
ノアールの中で、何かが動く。
昔の闇。消えたふりをしていたやつ。
嫌なのに、耳がその声を拾ってしまう。
レンが耳元で囁く。
「君、こっち側の住人だろ。無理して笑わなくていいんだよ」
その瞬間。
セットの陰から視線が刺さった。
レンに執着する先輩女優。
目が、笑っていない。
「……ちょっと、あんた」
毒を含んだ声。
愛する人を誘惑されるソレイユ。
自分自身の闇に誘惑されるノアール。
そして――
演出案を練ることに没頭するルミエールは、まだ何も知らない。
LUMISORAの進む先に、かつてない暗雲が立ち込め始めていた。
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