第111話 帰らない
帰る場所があっても、
もう戻れない心になることがある。
ゆうととの電話が終わったあとも、部屋の静けさは変わらなかった。
スマホの画面はもう暗い。
でも、さっき聞いた言葉だけが胸の奥に残っていた。
どうしたらいいか分からない。
少し考えさせて。
責める声ではなかった。
それなのに、責められるより苦しかった。
ソレイユはソファに座ったまま、しばらく動けなかった。
ショコラも無理に話しかけてこない。
その沈黙が、今はありがたかった。
窓の外は静かだった。
世間の騒ぎは前より少し遠のいたはずなのに、ソレイユの中では何も静まっていなかった。
帰る場所はある。
でも、帰りたくない。
残りたい。
でも、このまま残ってどうするのかも分からない。
考えようとするたび、頭の中が重くなる。
その時、玄関の方で低い声がした。
ショコラが顔を上げる。
ソレイユもゆっくり視線を向けた。
入ってきたのは兄だった。
前よりも空気が硬い。
一度目に来た時より、もう少しはっきりと結論を持って来た顔だった。
「話は聞いた」
低い声が、部屋に落ちる。
ソレイユの指先がわずかに強張る。
兄はソレイユの前まで来る。
「王にも報告は入っている」
「もう帰る時だ」
ソレイユはすぐには答えなかった。
兄は続ける。
「仕事は止まった」
「学校にも行けない」
「地球での立場はもう崩れている」
少し間。
「それでもまだ、ここにいる理由があるのか」
ソレイユは視線を落としたまま、小さく息を吸う。
兄の言っていることは間違っていない。
地球で築いたものは、ほとんど壊れた。
任務も終わった。
本来なら、帰るべきなのかもしれない。
兄はさらに言う。
「芸能事務所への違約金は、こちらで支払った」
ソレイユが顔を上げる。
兄の表情は変わらない。
「社長も、お前の帰還を認めている」
少し間。
「いや、むしろもう戻ってほしいと言っていた」
その言葉は静かだった。
けれど、逃げ道を一つずつ塞いでいくようだった。
「地球に残る理由は、もうない」
ソレイユの胸の奥が強く痛む。
仕事もない。
学校にも行けない。
事務所ももう、戻ってこなくていいと言った。
それでも。
「……あるよ」
小さな声だった。
兄の目が細くなる。
「何だ」
ソレイユはすぐには言えなかった。
言葉にした瞬間、全部が現実になる気がした。
それでも、もう黙ってはいられなかった。
「帰れない理由がある」
兄はしばらく黙っていた。
ショコラも、静かにソレイユを見る。
兄が低く言う。
「地球の男か」
その一言で、空気が少し張る。
ソレイユは顔を上げる。
否定できなかった。
兄は短く息を吐いた。
「愚かだな」
その言い方は冷たかった。
けれど、怒鳴るわけではない。
それが余計に重かった。
「地球での任務に私情を持ち込むな」
「しかも今の状況で、まだそこに縛られるのか」
ソレイユの胸の奥に、じわりと熱いものが広がる。
悔しさだった。
悲しさだった。
でもそれだけではない。
「縛られてるんじゃない」
兄が目を向ける。
ソレイユは震える声で続けた。
「私が選んだの」
少し間。
「ちゃんと好きになった」
兄の表情は変わらない。
「その結果がこれか」
その一言は容赦がなかった。
ソレイユは唇を噛む。
返せない。
でも、引き下がれなかった。
そして、もう一つのことを言わなければいけなかった。
ソレイユは指先を握りしめる。
声が震える。
「……それだけじゃない」
兄が黙る。
ショコラも息を止めるように、ソレイユを見ていた。
ソレイユは目を閉じる。
それから、はっきり言った。
「子供がいるの」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
兄の表情が、初めてわずかに揺れる。
ショコラは何も言わなかった。
兄は低い声で聞き返す。
「……何だと」
ソレイユはもう逃げなかった。
「妊娠してる」
「病院でも確認した」
沈黙が落ちる。
今まで兄が積み上げてきた理屈の外側に、その現実が置かれた。
王。
帰還。
婚約。
違約金。
任務終了。
その全部とは別の重さで、妊娠だけがそこにある。
兄はしばらく何も言わなかった。
やがて、低く息を吐く。
「……最悪だな」
その言葉は冷たかった。
でも、怒りだけではなかった。
計算が狂った者の声だった。
「だから帰れないのか」
ソレイユは小さくうなずく。
「そう」
兄はしばらくソレイユを見下ろしていた。
「その子をどうするつもりだ」
その問いに、ソレイユはすぐには答えられなかった。
まだ何も決めきれていない。
でも、一つだけはっきりしていることがあった。
「……帰らない」
兄の目がわずかに鋭くなる。
ソレイユは続けた。
「もう簡単には帰れない」
「帰ったことにして、なかったことにするなんてできない」
声は震えていた。
でも、さっきよりははっきりしていた。
ショコラが静かに口を開く。
「今、無理に帰還を決める話じゃないと思う」
兄がショコラを見る。
「君は口を挟むな」
「これは王家の問題だ」
ショコラも視線をそらさない。
「今はソレイユ本人の問題でもある」
短い言葉だったが、はっきりしていた。
兄は少し黙る。
それから、ソレイユへ視線を戻す。
「王は待たない」
「婚約の話も進んでいる」
「それでもお前は、帰らないと言うのか」
ソレイユの心臓が強く鳴る。
怖い。
どうなるか分からない。
ゆうとの答えもまだない。
家族は反対している。
王も、兄も、帰れと言う。
それでも。
「帰らない」
今度は、最初からはっきり言った。
兄はしばらく無言だった。
やがて、低く言う。
「迎えはまた来る」
「その時までに、考えを変えていろ」
それだけ言って、踵を返した。
静かな足音が遠ざかる。
ドアが閉まる。
家の中はまた静かになった。
ソレイユはしばらく動かなかった。
ショコラが静かに言う。
「大丈夫?」
ソレイユは少しだけ笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「全然」
その返事は正直だった。
ショコラは少しだけ間を置く。
「でも、今答えを出したのは悪いことじゃない」
ソレイユは首を振る。
「答え、出すしかなかった」
自分の手を見つめたまま、小さく続ける。
「怖いけど」
「でも、もう戻れない」
ショコラは何も軽く励まさなかった。
ただ、その言葉を静かに受け止めた。
外は静かだった。
でもソレイユの中では、何かがようやく決まり始めていた。
帰還の話。
婚約の話。
違約金の清算。
地球に残る理由を、一つずつ消されても、ソレイユにはもう一つだけ消せない現実がありました。
それが、お腹の中の命でした。
その答えはまだ出ていないのに、現実だけが先に動き始めていました。




