第110話 言えない答え
知った瞬間に、
答えが出るわけではない。
むしろそこから、
本当の迷いが始まることもある。
病院を出たあとも、ソレイユはしばらく何も話せなかった。
車の窓の外を流れる景色が、どこか遠いものみたいに見える。
隣に座るショコラも、無理に声をかけてこなかった。
それが今はありがたかった。
ようやく口を開いたのは、家に戻ってからだった。
リビングのソファに座り、両手をぎゅっと握ったまま、ソレイユは小さく言う。
「……ほんとなんだね」
ショコラは向かいに座っていた。
「うん」
短く、それだけ返す。
曖昧にしてくれない声だった。
ソレイユは視線を落とす。
「なんか、まだ変な感じ」
「夢みたい」
ショコラは静かに見ている。
ソレイユは少しだけ笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「どうしよう」
その一言が、ひどく弱かった。
ショコラはすぐには答えない。
簡単に答えられることではないと分かっているからだ。
少し間を置いてから言う。
「まずは落ち着いて考えること」
「一人で抱えないこと」
ソレイユは小さくうなずく。
でも、頭の中は全然落ち着いていなかった。
兄に言われた帰還の話。
婚約の話。
仕事も学校も止まっている現実。
その上で、妊娠。
全部が重なって、どこから考えればいいのかも分からない。
ショコラが静かに言う。
「ゆうとには伝えるべきだと思う」
ソレイユの肩がわずかに揺れる。
その名前を聞いただけで、胸の奥が苦しくなる。
「……うん」
そう答えたものの、声は小さかった。
ショコラは続ける。
「困ると思う」
「たぶん、すぐに答えは出ない」
「でも、知らないままでいい話じゃない」
ソレイユは黙る。
それは分かっていた。
分かっていたから、余計に怖かった。
ゆうとはあの時、困っていると送ってきた。
学校でも自宅待機。
家にも報道陣。
親にも怒られた。
その状態で、このことを伝える。
どうなるか、考えたくなかった。
ソレイユはスマホを手に取る。
画面を開く。
ゆうとの名前がある。
指が止まる。
ショコラは何も急かさない。
ただ、静かに待っていた。
しばらくして、ソレイユはメッセージではなく、通話ボタンを押した。
呼び出し音が続く。
長く感じた。
やがて、ゆうとの声が返ってくる。
「……もしもし」
その声を聞いた瞬間、急に何も言えなくなる。
ゆうとも、少し黙った。
「ソレイユ?」
ソレイユはようやく息を吸う。
「今、話せる?」
「うん」
でも、その声は前みたいに明るくなかった。
静かで、少し固い。
それが余計につらい。
ソレイユは目を閉じた。
「会えないかな」
少し間。
「大事な話があるの」
ゆうとはすぐには返さなかった。
その沈黙だけで、いろんなものが伝わってくる。
困っていること。
迷っていること。
逃げたいのに逃げられないこと。
やがて低い声で言う。
「……今、外で会うのは無理」
ソレイユの指先が冷たくなる。
ゆうとは続けた。
「家の近く、まだ来るし」
「親もすごく気にしてる」
少し間。
「学校の先生にも、しばらく余計なことするなって言われた」
その言葉は責めていない。
でも、はっきりと距離があった。
ソレイユは小さくうなずいた。
電話だから、向こうには見えないのに。
「そっか」
それだけ言うのがやっとだった。
ゆうとも苦しそうだった。
「ごめん」
「いや……」
ソレイユは首を振る。
でも、その先が続かない。
言わなきゃいけないことは、もっと重いのに。
ここで黙ったら、もう言えなくなる気がした。
ソレイユは唇を噛む。
それから、震える声で言った。
「病院、行ったの」
電話の向こうが静かになる。
「え?」
ソレイユはもう止まれなかった。
「妊娠してた」
その瞬間、空気が変わった。
はっきり分かるくらい、電話の向こうが止まる。
ゆうとは何も言わない。
何も言えないのだと、ソレイユにも分かった。
数秒なのに、ひどく長く感じる沈黙だった。
やっと聞こえた声は、かすれていた。
「……ほんとに?」
ソレイユは小さく答える。
「うん」
「今日、病院で言われた」
また沈黙が落ちる。
その沈黙の重さで、ゆうとの困惑が伝わってきた。
驚き。
怖さ。
責任。
まだ高校生の自分には大きすぎる現実。
全部が一気にのしかかったのだと分かる。
ゆうとはようやく声を出した。
「ごめん」
その言葉が、ソレイユの胸に刺さる。
責める言葉ではない。
でも、助ける言葉でもなかった。
ただ本当に、困っているのだと分かってしまう声だった。
「俺……」
少し間。
「どうしたらいいか分からない」
ソレイユは目を閉じる。
やっぱり、そうなる。
どこかで分かっていた。
分かっていたのに、実際に聞くと苦しかった。
「うん」
それしか言えない。
ゆうとは続ける。
「親にも、もう会うなって言われてる」
「家、今ほんとにまずい」
「父さんも母さんも怒ってて」
少し間。
「俺も、頭が追いついてない」
ソレイユは何も返せなかった。
ショコラが静かにこちらを見ている。
その視線だけが、かろうじて今ここにつなぎとめていた。
ゆうとの声は、前よりさらに小さくなった。
「……少し考えさせて」
その一言で十分だった。
ソレイユは胸の奥がすっと冷えるのを感じる。
嫌いになったわけじゃない。
でも、もう前みたいには戻れない。
そのことだけは、はっきり分かった。
「分かった」
ソレイユは静かに答える。
それ以上は何も言わなかった。
言えなかった。
通話が終わる。
スマホの画面が暗くなる。
部屋の中はひどく静かだった。
ショコラが少しだけ身を乗り出す。
「……言えた?」
ソレイユはうなずく。
それから、小さく笑おうとした。
でも次の瞬間、涙が落ちた。
「困ってた」
その一言で、全部だった。
ショコラは何もきれいごとを言わなかった。
ただソレイユのそばに座る。
ソレイユは肩を震わせながら泣いた。
ゆうとを責めたいわけじゃない。
でも苦しかった。
好きだった。
好きだからこそ、困らせていることも分かる。
そのどうしようもなさが、一番つらかった。
窓の外は静かだった。
でも、ソレイユの世界はもう、元には戻らなかった。
妊娠を知ったあとに待っていたのは、すぐに答えが出る現実ではありませんでした。
ゆうともまた、同じように追い詰められていました。
けれど、困っていることと支えられることは同じではありません。
ここから先、ソレイユはもっと重い選択に向き合うことになります。




