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第109話 帰る場所

帰るはずだった場所。

残るはずだった想い。


どちらも簡単には選べない時がある。

騒ぎが少し落ち着いた頃だった。


表向きには、新しい話題が流れ始めていた。


けれどソレイユの毎日は、何ひとつ戻っていなかった。


学校には行けない。

仕事もない。

家の中にいても、時間だけが重たく積もっていく。


その日も、ソレイユはリビングのソファに座ったまま、ぼんやり窓の外を見ていた。


ロボットの執事とメイドが静かに動いている。


でも、人の気配は薄い。


広い部屋の静けさだけが、余計に胸に残った。


玄関の方で音がした。


ソレイユはゆっくり顔を上げる。


そこに立っていたのは、兄だった。


「……お兄さま」


兄は静かに部屋へ入ってくる。


いつもと変わらない、整った立ち姿。

けれど今日は、その視線だけが少し冷たかった。


「噂は聞いている」


低い声だった。


ソレイユは何も言えなかった。


兄はさらに続ける。


「学校も休んでいるそうだな」


「仕事も止まったと聞いた」


少し間。


「家からも出られない状態らしいな」


ソレイユは視線を落とす。


反論できる言葉はなかった。


兄はソレイユの前まで来る。


「もうミッションは終わった」


「お前の役目も、ここまでだ」


静かな口調なのに、その言葉は重かった。


「星に帰るぞ」


ソレイユは顔を上げる。


兄はまっすぐに見下ろしていた。


「王も、お前の帰還を望んでいる」


少し間。


「それに、そろそろ婚約者との結婚の準備もある」


「いつまでも、こんな場所で立ち止まっている場合じゃない」


ソレイユの指先が小さく震える。


帰る。


その言葉は、ずっと遠くにあったはずだった。


でも今は、急に目の前へ突きつけられている。


兄はさらに言う。


「地球での任務は終わった」


「ノアールの件も、もう区切りはついただろう」


「これ以上ここにいても、お前を消耗させるだけだ」


ソレイユは小さく息を吸う。


「でも……」


その先が出てこない。


兄は黙って待っている。


ソレイユは視線をさまよわせた。


帰るべきなのかもしれない。


このまま地球にいても、仕事はない。

学校にも行けない。

誰にも会えない。


だったら、帰った方がいいのかもしれない。


でも胸のどこかが、どうしてもそれを拒んでいた。


兄が言う。


「迷う理由は何だ」


ソレイユは答えられない。


ゆうとのこと。

ノアールのこと。

ルミエールのこと。

地球で過ごした時間。


全部が喉元まで上がるのに、言葉にならなかった。


兄は小さく息を吐く。


「少し頭を冷やせ」


「だが、長くは待たない」


それだけ言って、踵を返す。


去っていく背中を見ながら、ソレイユはソファに沈み込んだ。


帰る場所はある。

でも、帰りたくない気持ちもある。


どちらも本当だった。



そのあとも、自宅待機の日々は続いた。


最初の頃より外は少し静かになった。


でもソレイユの体は、むしろ前より重くなっていた。


食欲がない。

胸の奥がむかむかする。

何を食べても気持ち悪い。


しかも、生理が来ていない。


考えないようにしていた。


でも、考えないふりももうできなかった。


その日、ショコラが手土産を持って家を訪ねてきた。


焼き菓子の箱と、少し高そうな紅茶の缶。


「少しは食べてる?」


いつもの穏やかな声だった。


でもソレイユの顔を見た瞬間、ショコラの表情が少し変わる。


「……顔色悪いね」


ソレイユは少しだけ笑おうとした。


「そうかな」


「そうだよ」


ショコラはすぐ近くまで来る。


「ちゃんと寝てる?」


「……寝てる」


「食べてる?」


ソレイユは答えなかった。


その沈黙だけで十分だった。


ショコラは少しだけ声を落とす。


「気分悪いの?」


ソレイユはすぐには答えなかった。


少し間を置いて、小さくうなずく。


「……ちょっと」


ショコラの目が鋭くなる。


「いつから?」


「最近」


ソレイユは視線を落とす。


もう一人では抱えきれなかった。


小さな声で続ける。


「それと……生理、来てない」


ショコラの表情が変わる。


一瞬だけ、言葉が止まる。


それからすぐに落ち着いた声で言った。


「とりあえず、検査薬試そう」


「え……」


「ここで考えてても仕方ないでしょ」


ショコラは静かだった。

でも、迷いはなかった。



しばらくして。


ソレイユは洗面所の前で、じっと検査薬を見つめていた。


時間が経つのが異様に遅い。


ショコラは少し離れた場所で黙って待っている。


ソレイユの指先は冷たかった。


やがて、細い線が浮かぶ。


一本ではない。

もう一本。


ソレイユは息を止めた。


「……うそ」


声がかすれる。


ショコラが近づく。


その結果を見て、しばらく何も言わなかった。


否定もできない。

慰めるには早すぎる。

ただ現実だけが、そこにあった。


ソレイユの手が震える。


「どうしよう……」


ショコラは静かに言う。


「とりあえず病院」


「知り合いの産婦人科がある」


「極秘で診てもらえるよう頼んでみる」


ソレイユは何も言えない。


頭の中が真っ白だった。


帰るとか、残るとか。

兄のことも、王のことも、婚約のことも。


全部が一瞬で遠くなる。


今はただ、目の前の現実だけが重かった。



午後。


ショコラの付き添いで、ソレイユは知り合いの産婦人科へ向かった。


人目を避けるように、静かに裏口から入る。


受付も最小限だった。


診察室の空気は冷静で、余計に現実味があった。


ソレイユは椅子に座ったまま、ずっと膝の上の手を見ていた。


検査結果を確認した医師が、静かに言う。


「妊娠しています」


その言葉は、はっきりしていた。


逃げ道のない声だった。


ソレイユは何も言えなかった。


ただ、目を閉じる。


頭の中で、何かが大きく音を立てて変わっていく。


もう、昨日までと同じ迷い方はできなかった。

帰る場所を示されても、

その前に新しい現実が立ちはだかることがあります。


ソレイユにとって、今回それは兄の迎えよりも重いものでした。


もう一人の問題ではなくなった時、

物語はさらに逃げ道のない場所へ進んでいきます。

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