第107話 崩れる音
何かが壊れる時は、
少しずつではなく、一気に来ることがある。
日曜日。
事務所の会議室は、妙に静かだった。
ソレイユは椅子に座ったまま、テーブルの上を見ていた。
スマホはもう伏せてある。
見ても、同じものが流れてくるだけだった。
ホテルの写真。
部屋を出るところ。
エレベーター前。
チェックアウト。
正面玄関を出るところ。
別々のアカウントから上がった四枚の写真が、何度も繰り返し流れてくる。
投稿は消えるどころか、むしろ増えていった。
同じ写真。
別の角度。
同じ話題。
気づけば、
#ソレイユお泊まり
という言葉まで流れ始めていた。
もう一部の噂ではなかった。
みんなが知っている話になりかけていた。
マネージャーが言った。
「もう止めきれない」
低い声だった。
「一般人の投稿だから、事務所で消させるにも限界がある」
ソレイユは何も言えない。
社長は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
やがて短く言う。
「このままだと仕事に影響が出る」
それだけで十分だった。
マネージャーが資料を開く。
「子供番組の方は、かなり厳しいです」
「規約の問題もありますし、過去の例を見ても難しいと思ってください」
少し間。
「CMも、この件が広がればスポンサーが黙っていないと思います」
「今までの例で見ても、いったんストップになる可能性が高いです」
社長が続ける。
「まだ正式決定ではない」
「だが、明日にはスポンサーや局も動くだろう」
「協議の結果次第で、処分は一気に下ると思え」
ソレイユの指先が少しだけ動く。
社長はさらに言った。
「週刊誌ならまだ話ができた」
「だが今回は一般人発のSNSだ」
「もう外には止まらないと思ってください」
その一言が重かった。
ソレイユはようやく顔を上げる。
何も言えなかった。
⸻
その日の夜。
ノアールは何度もスマホを見ていた。
ソレイユに連絡したい。
でも、何を言えばいいのか分からない。
迷った末に、ルミエールへ電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、静かな声が返ってきた。
「……もしもし」
ノアールは少し息を詰める。
「ルミエール」
「ソレイユ、どうしてる?」
少し間があく。
ルミエールは低く答えた。
「まだ会ってない」
「今、出張先だから」
ノアールは黙る。
ルミエールは続ける。
「今の様子は分からない」
少し間。
「でも」
「ノアールから電話したり、会いに行ったりはしないで」
ノアールが息を止める。
ルミエールの声は静かだった。
「ソレイユ、最近ずっとノアールのこと羨ましがってた」
「今ノアールが優しくしたら、たぶん余計につらくなる」
ノアールはスマホを握りしめる。
「……でも」
「今はやめて」
「連絡もしないであげて」
その静かな言葉が、余計に重かった。
ノアールは小さく答える。
「……分かった」
電話が切れる。
部屋は静かだった。
レンが、少し離れた場所からその様子を見ていた。
ノアールは顔を上げない。
レンが静かに近づく。
「……大丈夫?」
ノアールは少しだけ笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
「ソレイユの件」
「きつい」
少し間。
「私だけ、こうしてレンと普通に一緒にいていいのかなって思う」
レンはすぐには答えない。
ただ、ノアールの隣に座る。
しばらくしてから言う。
「しばらく、外で二人で会うのはやめるか」
ノアールが顔を上げる。
レンは続ける。
「会わないって意味じゃない」
「今は外で目立たない方がいい」
ノアールは少し黙ってから、うなずいた。
「……うん」
レンは小さく笑う。
「家にいる」
そう言って、ノアールを引き寄せる。
ノアールも力を抜いて、レンにもたれた。
外では会えなくても、ここでは何も変わらない。
そのことが少しだけ、救いだった。
⸻
月曜日の朝。
ネコノミヤ学院の近くで、ルミエールの運転手が運転する車が静かに止まった。
ルミエール本人はまだ戻っていない。
ソレイユは小さく息を吸って、ドアを開ける。
その瞬間だった。
「ソレイユさん!」
「お泊まり報道について一言お願いします!」
「相手は同級生ですか!」
「子供番組は恋愛禁止ですが?」
一気に声が飛ぶ。
カメラとスマホが向けられる。
校門近くには、見慣れない大人たちが何人も立っていた。
登校してくる生徒にも声をかけている。
「同じ学校ですよね?」
「相手の男子生徒について何か知っていますか?」
もう普通の朝ではなかった。
ソレイユは何も言わなかった。
制服のまま、顔を上げずに足早に校門へ向かう。
無言のまま、学校の中へ入っていった。
教室の前まで来ると、中からざわつく声が聞こえた。
ドアを開ける。
その瞬間、ぴたりと会話が止まる。
何十もの視線が、一瞬だけ集まって、すぐに外れた。
それだけで十分だった。
もう全部、広がっている。
ソレイユは何も言わず、自分の席に座った。
一時間目の授業中も、空気はどこか落ち着かなかった。
小さな物音ひとつで視線が揺れる。
自分がいるだけで教室の空気が浮ついているのが分かった。
一時間目が終わった休み時間。
担任が教室の前に立った。
「ソレイユ、職員室へ来てください」
教室の空気がまた少し止まる。
ソレイユは静かに立ち上がった。
⸻
別室には担任と生活指導の教師がいた。
机の上には、すでにスマホの画面が置かれている。
教師が言う。
「君一人の問題ではない」
「ネコノミヤ学院の名前も背負っているんだ」
少し間。
「軽率な行動で学校の伝統に泥をぬるのはやめてほしい」
もう一人の教師が続ける。
「今、校内も生徒が浮ついて授業にならなくて困っている」
「今日は早退してください」
ここにいてはいけないと言われたのと、ほとんど同じだった。
ソレイユは小さくうなずくことしかできなかった。
⸻
その日の午後。
ソレイユのスマホに、事務所から短い連絡が入った。
スポンサー、テレビ局、事務所で協議した結果を連絡します。
事務所前は現在マスコミに囲まれているため、今日は来ないでください。
しばらく自宅待機でお願いします。
子供番組、清純ドラマ、CMを含む本日以降の仕事はすべてキャンセルになりました。
たったそれだけだった。
ソレイユは画面を見つめたまま動かなかった。
子供番組。
清純ドラマ。
CM。
並んでいた予定が、音もなく消えていく。
もう事務所にも行けない。
学校にもいられない。
どこにも行けなかった。
⸻
月曜日の夜。
ルミエールは予定を早めて帰ってきた。
本当は翌朝戻るはずだった。
でも、連絡を受けた時点で待てなかった。
少しでも早く帰ろうと思った。
けれど、家のドアを開けた時には、もう遅かった。
家の中は静かだった。
ソレイユはソファに座ったまま、動かなかった。
その顔を見た瞬間、ルミエールは何も聞かなくても分かった。
「ソレイユ」
声をかけると、ソレイユは少しだけ顔を上げる。
「おかえり」
小さな声だった。
ルミエールは近くまで来る。
「ごめん」
ソレイユは少しだけ笑う。
「なんでルミエールが謝るの」
ルミエールはすぐには答えない。
「……気づいてたのに」
少し間。
「ちゃんとできなかった」
ソレイユは首を振る。
「ルミエールのせいじゃないよ」
その言葉は本当だった。
でも苦しさが消えるわけではない。
ルミエールはテーブルの上のスマホを見る。
流れ続ける投稿。
消えない写真。
もう終わったあとだった。
⸻
マネージャーから、別々に連絡が入ったのはその少し後だった。
ルミエールには、
しばらくルミソラとは切り離して、個人案件で動いてほしい。
ノアールには、
インタビューされてもソレイユさんの件については何も言わないこと。
コメントは控えてください。
しばらく距離を置いてください。
短い文面だった。
でも、それだけで十分だった。
ルミソラはもう、今までのままではいられない。
夜は静かだった。
でも、それぞれの場所で、何かが確実に崩れていた。
日曜日は、まだ“こうなるだろう”という予測でした。
けれど月曜日、スポンサーやテレビ局、事務所の協議によって、その予測は現実になります。
学校。
仕事。
そしてルミソラ。
どこも今まで通りではいられず、ソレイユの居場所は雪崩のごとく一気に崩れてなくなりました。
月曜の夜、急いで帰ってきたルミエールも、もう全部が起きたあとでした。




