第99話 はじまりの朝
桜の下で想いを伝え合った夜。
恋人になった二人にとって、
次の朝は少し特別なものだった。
昨日までとは同じようで、
でもどこか違う世界。
そんな静かな朝から、
新しい時間が始まっていく。
朝。
カーテンの隙間から、
やわらかな春の光が部屋に差し込んでいた。
静かな空気。
遠くで車の音が聞こえる。
ノアールはゆっくり目を開けた。
見慣れない天井。
一瞬だけ、どこにいるのかわからなくなる。
でもすぐに思い出した。
昨日。
桜並木。
レンの言葉。
そして――
キス。
胸が少しだけ熱くなる。
隣から静かな寝息が聞こえた。
レンだった。
まだ眠っている。
少し無防備な横顔。
ノアールはしばらく、
その顔をじっと見つめていた。
こんな朝が来るなんて。
少し前までは、
想像もしていなかった。
ノアールは小さく笑う。
その時。
レンのまぶたがゆっくり動いた。
目が開く。
ノアールと視線が合う。
短い沈黙。
レンが先に少し笑った。
「……おはよう」
ノアールの頬が少し熱くなる。
「おはよう」
レンはまだ眠そうな声で言う。
「夢じゃなかった」
ノアールが笑う。
「何それ」
レンは手を伸ばして、
ノアールの髪にそっと触れた。
「起きたら」
「いなくなってるかと思った」
ノアールは少し目を細める。
「そんなことしないよ」
レンは安心したように息を吐いた。
しばらく二人は、
春の光の中で黙っていた。
静かな朝。
でも、
嫌な沈黙じゃない。
むしろ心地よかった。
やがてレンが体を起こす。
「朝、何か食べる?」
ノアールもゆっくり起き上がる。
「食べる」
レンは笑う。
「トーストくらいならある」
「十分」
二人はキッチンへ向かった。
レンがパンを焼く。
ノアールはマグカップを並べる。
それだけのことなのに、
少し不思議だった。
昨日までとは違う。
何でもない動きが、
少し特別に感じる。
レンが振り向く。
「コーヒー?」
ノアールは首を振る。
「紅茶」
「了解」
パンの香りが広がる。
簡単な朝食。
焼いたパン。
卵。
紅茶。
向かい合って座る。
レンが言う。
「今日、大学どうする?」
ノアールは少し考える。
「午後からなら行ける」
レンが頷く。
「じゃあ途中まで一緒に行くか」
ノアールは少し笑った。
「うん」
また少し沈黙。
レンがノアールを見る。
「ノアール」
「ん?」
レンは少し迷う。
それから言った。
「なあ」
ノアールが首を傾ける。
レンは少し照れたように笑った。
「このままさ」
少し間。
「うちで一緒に暮らす?」
ノアールの手が止まる。
「……え?」
レンは肩をすくめる。
「大学も仕事も」
「ここからの方が近いし」
パンをかじりながら続ける。
「お互い忙しいだろ」
「だったら」
「少しでも一緒にいられる方がいい」
ノアールはしばらく黙った。
レンが少し慌てて言う。
「嫌なら無理にとは言わない」
「ただ」
少し視線をそらす。
「俺は」
「一緒にいたい」
その言葉に、
ノアールの胸が少しだけ鳴った。
昨日、
桜の下で聞いた声。
あの時と同じだった。
ノアールは小さく笑う。
「急だね」
レンも笑う。
「まあな」
ノアールは紅茶を一口飲む。
それから言った。
「でも」
レンが見る。
ノアールは少し照れながら言う。
「私も」
「一緒にいたい」
レンの表情が少しやわらぐ。
ノアールが続ける。
「大学も近いなら」
「いいかも」
レンが笑う。
「決まり?」
ノアールは少し考えるふりをしてから言う。
「……うん」
レンは少しだけ嬉しそうに笑った。
窓の外では、
春の風が静かに吹いていた。
桜の花びらが、
一枚だけ空を舞っていく。
昨日までとは違う朝。
恋人として迎える、
最初の朝だった。
桜の下で想いを伝え合った二人の、次の朝。
まだ誰にも知られていない、
恋人になったばかりの静かな時間でした。
そしてレンからの
「一緒に暮らす?」という言葉。
急なようでいて、
忙しい二人には自然な選択なのかもしれません。
春の始まりとともに、
二人の新しい日常も動き始めました。




