第25話:揺れる心と動かぬ足。それでも、私は。
雨が、ぽつりぽつりと肩を濡らす。
どんよりと暗い空が、私たちに影を落とす。
ハニーさんが、フイさんの家に戻って、しばらく。
私は動けずにいた。
キャヴィは――犬、だった。
フイさんの、家族。
「……行かなくていいのかよ、もう?」
ユートさんが口を開く。
何かを言いたいようにも、ただ問いかけただけにも聞こえた。
私は返事ができなかった。
靴の先を見つめたまま、胸の奥で渦巻く感情に流される。
怖い、とか、悲しい、とかじゃない。
ただ、正しいってことが……わからない。
「でもさ、倒すしかないんじゃねえの……?もう”魔物”だっただろ、キャヴィ。やらなきゃ、そのうち誰かが死ぬだけだ……まあ、俺らがやらなくてもいいと思うけど」
ユートさんが、こっちを見て言う。
私は、その目が見れなかった。
「どっちでもいい……どちらにせよ、世界は終わってるから」
マチルが呟いた。フードを深く握り、その奥の表情は見えない。
「人間なんて、どうせ無力、どうせ死ぬ……。やるなら止めないけど……でも、意味は無い」
その声は風の音よりも薄く、ただ、心のどこかを掠めた。
「俺は……わかんねえ」
兄さんの声は、だんだんと強くなる雨にかき消されるほど、弱々しかった。
でも、その拳は震えるほど強く握られていた。
「私は……」
言葉が喉でつかえて、重い雨粒の奥へと消えた。
風は吹かず、空は灰色のままだった。
ただ、雨だけが私を濡らす。髪も、服も、やけに重い。
心が、引き裂かれていた。
何が正しいのか、わからない。
初めて、だった。こんなことを、思うのは。
時間が進む。
気付けば、昼を越えていた。
私たちは、何もせず、森にも入らなかった。
***
お昼過ぎ。
フイさんの家に戻る。
空は、ますます暗くなっていた。
遠くで雷が一度だけ、低く鳴った。
玄関を開けると、フイさんが静かに鍋をかき混ぜていた。
かしゃり、という木べらの音が、やけに耳に残った。
私は、何も言えない。
でも、何も言わないのは、卑怯な気がして――。
「ただいま、戻りました」
小さい声でそう言った。
自分の声なのに、思ったよりぎこちなかった。
フイさんは、穏やかにこちらを見ると、ただかすかにうなずいた。
***
夜になった。
囲炉裏の火が、静かに揺れている。
炭が崩れる音と、ときどき弾ける音だけが、空気を支配する。
私は、目の前の空になった茶碗を見ながら、ずっと迷っていた言葉を、ようやく口にした。
「キャヴィは……フイさんの、大切な……家族、だったんですね」
フイさんの表情は、穏やかなままだった。
ただ、火の奥をじっと見つめたまま、ゆっくりと答えた。
「そうだねえ。あれは何十年前のことだったか――。畑に住み着いた、小さな犬だった。臆病な子でねえ。蝉が隣で鳴きだすだけで、隠れちまうような子だった」
言葉が、紡がれていく。
窓の外では、まだざあざあと雨が降っていた。
「……でもね、あの子はもう――わしと暮らしていた、キャヴィじゃない」
深くしわがれた、でも、強い意思のこもった言葉。
私は、火の揺らぎだけを見つめていた。
「人に害を与えるのならば――それはもう、駆逐されるべき魔物。そうやって生きていくのが、人間さ」
その声は、どこまでも静かだった。
静かに、部屋の中で何度も反響する。
「で、でも……」
何か、反論しようとした。
でも、何も思いつかなかった。
「わしがこんなこと、お願いできる立場じゃないんだけどね……」
フイさんが、正座のまま、床に手をつく。
丸く曲がっていた腰が、ぐい、とまた曲がる。
「レリィさん。どうか、あの子を、殺してください」
息をのむ。
フイさんの顔にある表情は、わからなかった。
ただ、しわの奥で小さく光る目だけが、深く深く沈んでいて――覚悟に、満ちていた。
それはまるで、その死――愛する家族の、ではなく、自らの――死を……もう、選んでしまった人のような。
私は、その目から逃げられなかった。
***
翌朝。
なぜか、空気が血なまぐさい気がした。
「レリィ……見に、行くか……?」
兄さんが、既に起きていた。
私は頷いた。
キャヴィを倒すことを決められているわけじゃない。
でも。
見に行こうと、思った。
玄関の戸を開ける。
冷えた空気。
湿った土の匂い。
そして、森の方角から漂ってくる、生臭く、鉄のような――。
私は走った。
意思は浮かばなかった。ただ、走った。
木々の隙間から、灰色の空がちらちらと見える。雨はやんでいた。
ぬかるんだ土が、靴に張り付いて走りづらい。でも、足が止まらない。
後ろからは、兄さんの足音。
水たまりが、靴の中まで濡らす。
空気が血なまぐさい。
私は、前だけを見る。走った。
***
動物の死体が、たくさんあった。
群れで休んでいたところを襲われたのだろう。
二体、三体、五体――それ以上、数を数えることはできなかった。
四肢は砕かれ、頭は潰れ、腹の中身は撒き散らされている。
肉塊。
たぶん、鹿だったもの。
もはや、どこまでが一体なのかがわからない。
食うでもなく、ただ殺された、死体。
魔物。
純粋な、凶悪。
「……昨日のより、ひどいな。これ」
「たぶん……昨日の深夜……12時頃、雨の中……。寝ている間にやられたのは……せめてもの幸運……いや……不運……?」
後ろから、声がした。
振り返る。
「ユートさん、マチル……!」
ユートさんも、マチルも、立っていた。兄さんもいる。
「まあ、何となく……ついてきただけ。お前らが二人で森に行くのが見えたから」
ユートさんが首の後ろに手をやる。
「まあ、レリィ……たしかに、これはひどいけど……でも、お前がキャヴィを倒さなきゃいけないってことじゃないと思うぜ。俺もいるし、それに……何ていうか、別にレリィがやることじゃないしな」
兄さんが続ける。
……でも、それは。
「レリィさん……ねえ、いつもと違う感じ……しませんか。なんか……精霊の声……空気の流れ……違う気がする」
マチルが、私を見上げる。
「違う気、ですか……」
辺りを見渡す。
――たしかに。
「たしかに、なんか変な感じがします!」
私は走る。
その方向へ。
木の間を抜ける。背の低い草を踏みしめる。駆ける。血だまりに靴が跳ねる。
視界が、開ける。
「――ッ」
そこには。
――人。
かつて、人だった――もの。
装備も、荷物も残っていた。
でも、命は、もうそこには無かった。
虚ろな眼球が、かろうじてどこかを見つめている。
彼の腹に残る魔力の残渣。
キャヴィのもの。
地面に落ちているのは、写真だろうか。
笑顔。隣に映る人は、血で覆われている。
穴の開いた水筒から零れたスープは地面に染み込み、数匹の蟻がたかっている。
目が離せない。
耳が、きぃんとする。
もし昨日キャヴィを倒せていたら。
そんな考えが、脳裏をよぎる。
体が震える。
血が頭から落ちていく。
視界が一瞬暗くなる。
でも。
でも!
私は、ぐっと足を踏みしめた。
「私が、やります」
キャヴィは――”誰か”が倒さなければならない。
これ以上、犠牲を増やせない。
”誰か”は、私だ。私たちだ。
振り返る。
兄さんも、ユートさんも、マチルもいる。
「決着をつけます」
瞳に宿るのは、絶対に揺るがない決意の炎。
みんなを見つめる。
目が合う。
「ついてきてください」
前を向く。
今日、私たちは。
――キャヴィを、殺す。
次回→第26話:貫け信念、斃せキャヴィ!これがあなたの最期です!
7月13日(金)夕方更新!




