『写真という檻』
一億総パパラッチ時代の現代を生きる安部公房(風)。
休日の散歩道は、特にこれといった風景の変化もなく、毎度のように時間だけが消費されていく。
道ばたのカフェテラスを横切ると、客の誰かがスマホのシャッター音を鳴らした。あまりに軽薄な音色で、撮影されたという事実さえ、一瞬疑いたくなる。
帰宅して、パソコンを開く。
ネットのニュースサイトを流し読みしていると、見慣れた背中が、知らないカフェの写真に写り込んでいた。背中の丸まり具合も、手に提げたコンビニ袋の中身も、あれは間違いなく僕だ。
写真の中の自分は、まるで何も知らない顔で歩いている。いや、実際に何も知らなかった。撮影されている事実を知らないまま、その瞬間の「僕」はデジタルの檻に押し込められてしまったわけだ。
人間は檻の外で自由に動き回っているつもりでいるけれど、実際には、他人のスマートフォンのカメラひとつで、いつでもどこでも「捕獲」される時代になった。
そこに写っている自分は、もはや自分ではなく、誰かのSNSの「素材」として存在している。僕の背中を、僕が知らない他人が見知らぬ場所で消費している。
他人が勝手に作った「僕」のコレクションが、世界のどこかに溜まり続ける。いったい僕は、僕自身の何割ぐらいを把握できているのだろうか。
気がつけば、日常そのものが他人のアルバムの素材置き場になりはじめている。顔写真だけでなく、背中や手元や靴の先まで。知らないうちに撮られ、知らないうちに拡散される。
写真の中の自分は、記憶のないまま、確かに存在している。
自分の知らない「自分」が、世界のどこかで勝手に呼吸をはじめる。
写真という檻は、もはやカメラのレンズの向こう側だけの話ではない。僕の背中は、今日も誰かに監視されながら、自由なつもりで歩いている。