『翻訳不能な日常』
翻訳という行為には、いつも違和感がつきまとう。言葉を別の言葉に置き換えるたび、意味はまるで体温を奪われた動物のように、そこに横たわる。ぴくりとも動かない。
昔は、翻訳とは時間をかけた手作業だった。
分厚い辞書のページをめくり、見慣れない単語に付箋を貼り、試行錯誤の末にたどり着いた訳文には、どこか訳者の体臭が染み込んでいた。ところが今では、ポケットの中の小さな機械が、一瞬で言葉の皮を剥ぎ取り、別の国の言葉に着替えさせる。
それが翻訳アプリというやつだ。
便利だと人は言う。
たしかに、表面的には伝わる。国境はスマホの画面一枚分の厚みにまで縮み、旅行者は片言すら学ばず、異国のメニューを指差すだけで「理解した気分」になる。
だが、不思議なことに「伝わった気分」が蔓延するほど、街には誤解が増えていく。正しく訳されたはずの言葉が、どこか人間同士の間で微妙にズレて響く。そのズレは、たいてい無視され、笑って流され、やがて忘れられる。しかし、積もり積もれば、地層のように社会の奥底で不協和音を鳴らす。
言葉を変換しているのではなく、むしろ言葉が「薄まっている」だけなのではないか。
翻訳アプリが進化するたび、言葉はますます正確になり、人間はますます誤解する。
本当に翻訳すべきものは、単語の意味ではない。
言葉の背後でうごめく、無数の「前提」だ。
文化、習慣、皮肉、沈黙、表情、間合い、記憶――そうした背景を取り除いてしまえば、どんな翻訳もただの抜け殻にすぎない。
ポケットの中のアプリは、言葉の死骸をきれいに並べるのが得意だ。けれど、生きた会話は、きっとどこかで「誤訳」されたまま、世界を漂っている。
そして今日もまた、翻訳不能な日常が、静かに人間たちの間をすり抜けていく。