『蜘蛛の巣の後継者』
1993年、インターネットがまだ世間一般に登場する前に亡くなった安部公房。そんな彼が、もしも現代も生きていたら、インターネット社会の風景をどのように評すだろうか?
人間は、あらゆるものを「発明」したがる生き物だ。たとえば、かつて洞窟の壁に、手形を残した原始人の指先の行動も、立派に発明の一種だ。記録を残す手段を得た瞬間から、人類は記憶を外注しはじめた。記憶喪失を防ぐための工夫の果てが、歴史と呼ばれている。
インターネットもまた、その系譜に連なる道具だろう。しかし、その特徴は「保存する記憶」というより、「つながる記憶」の方に重点が置かれているようだ。
誰かが考え、誰かが感じ、誰かが勘違いした情報が、秒単位で世界中を巡回してゆく。まるで、人類という生物そのものが、単独の脳味噌に進化しようと試みているかのようだ。
驚くのは、この網の名前が「ネット=網」だという点である。蜘蛛の巣が、飛び込んだ虫を捕らえるように。インターネットも、好奇心や孤独や承認欲求という名の昆虫たちを、逃さずに吸着している。そして時おり、誰かの時間や命すらも、見えない糸の間に絡め取ってしまう。
けれども、人類はといえば、網に絡まっている実感すら持ち合わせていない。自分が蜘蛛なのか、虫なのか、網そのものなのか。その区別さえも、既に曖昧になりつつある。
かつて、書物が発明されたとき。
かつて、活版印刷が普及したとき。
かつて、ラジオとテレビが人々を同じ時間に縛りつけたとき。
そのたびに、「これで世界は一つになる」と、人間は都合よく錯覚した。インターネットも例外ではない。むしろ、もっと高度に、もっと複雑に、「つながっている感覚」を提供してくれる。だが、その「つながり」は、実際にはどこにも存在しないのだ。
接続されているのは、たいていの場合、「自分の孤独」とだけである。
これまで人類が築いてきた「情報の保管庫」たちは、いまや人類を保管している。誰かが発信した言葉の残骸に、自分という存在が逆にアーカイブされていく。そうして今日も、誰かがスマートフォンを片手に、インターネットの檻の内側から、世界を眺めている。
それが、いまという時代の日常らしい。