『すでに過ぎた未来について』
未来を先に知ってしまうというのは、言いかえれば「現在が手遅れになる」ということだ。
だれかが夢の中で見た災厄が、数年後に実際に起こった ―― そんな話が、ごくまれにメディアの隅で騒がれる。彼女は絵を描いた。日付まで書いた。証拠もある。という。しかし、それは予言ではなく、むしろ既知の過去をなぞっているに過ぎないのではないか? 夢という名の密室劇の中で、記憶と未来が擦りあわされる。現実が予言をなぞったのか、予言が現実を歪ませたのか、定かではない。
未来を知っている者の視線は、つねに世界を歪める。なぜなら、そこに「避けられたかもしれない歴史」が入り込むからだ。
人はなぜ予言を信じたがるのか。それは、運命という鉄の枷を、自分の選択の失敗から遠ざけるためだ。もし災厄が避けられなかったとしたら、それは“予言されていたから”であり、自分の責任ではない ―― そういう身勝手な免責願望が、どこかにある。
だが、予言者にとってはどうだろう? 夢の中で炎を見た人間にとって、その後の人生は「燃えるべき日」を待つだけの仮死状態になる。いま起きている現実は、すでに燃えつくされた灰にすぎない。だとすれば、未来を知るということは、「生きる」ということの否定に等しい。
そういえば、かつてある科学者がこう言っていた ―― 人類の知性が飛躍的に進化し、全人類の脳が超並列的に接続されたとき、最初に現れるのは“未来に自殺する集団”だと。未来が完全に透明化されたとき、人間は現在を失うのだという。
もっとも、いまの社会はその逆をやっている。ありもしない予言にすがり、「これが本当なら大変だ」と自ら騒ぎ、恐怖と快楽を合成したスパイスで、自分の人生を“疑似的に濃密化”しているだけだ。それは、情報過多の飢餓である。
「何が起こるか」ではなく、「誰が知っていたか」にしか興味がない。そんな者たちの欲望の先に、未来などあるはずがない。あるのは、語られすぎた過去だけだ。
だが、おそらく本物の予言者がいるとすれば、それは「予言が当たってしまったことに沈黙する人間」だろう。なぜなら、当たった瞬間、彼にとっての時間は停止するからだ。世界が、自分の思考と完全に一致したとき、人はそれ以上考えることをやめる。
つまり、予言とは死である。
生きているかぎり、私たちは知らないままでいなければならない。




