『複数形となった素顔』
近頃では、自分の顔を選ぶことに、誰も特別な意味を見出さなくなったらしい。
かつて顔は、持って生まれたものだった。遺伝の気まぐれと、成長の余波がこびりついた、個人にとっては不可逆的な「証拠品」だったはずだ。
ところが今では、朝起きて鏡をのぞきこむ前に、スマートフォンのカメラアプリを起動して、自分の顔を確かめる人の方が多い。鏡の中にあるのは、昨晩までの顔であり、SNSのアイコンは「今、見せたい顔」だ。さらに言えば、証明写真は社会的に通用する顔、免許証は行政用の顔、顔認証システムは機械が理解できる顔。ひとりの人間に、いくつもの顔が貼りついている。
顔とは「ひとつしかない」という思い込みこそが、現代ではもっとも疑わしい虚構だ。何を選ぶかは、もはや「顔そのもの」の問題ではなく、どの顔を使用するかという設定の話でしかない。どこまでを自分だと定義するのか。どこからを他人の期待に応じた仮面と呼ぶのか。その境目さえも、いまや加工フィルターのスライダー一つで曖昧に伸び縮みする。
無個性の量産が問題視された時代は、すでに遠い昔の話だ。いまや個性とは、誰もが自由に選べるメニューのひとつになりつつある。顔もまた、選択肢のひとつでしかない。今日の気分、あるいは今日の社会的役割に応じて、適切な顔を選び取る。「顔を持つ」という感覚は、徐々に「顔を所有する」という意味へと変質しつつあるのだ。
この先、人間にとって顔は、ますます仮面に近づいてゆくのだろう。ただ、仮面のない素顔というものが、もともと存在したのかどうか──それさえも疑わしいわけだが。