『不確定性の住人たち――量子力学的実在についての一考察』
われわれが世界と呼ぶものは、はたして世界と呼ばれるに値するのだろうか。
かつて、観察するという行為は無垢なものだった。望遠鏡を覗けば、木星の縞が浮かび、顕微鏡を覗けば細胞が蠢いた。だが、量子力学は、その素朴な信仰を見事に粉砕した。観察とは、無干渉ではありえない。見るということは、触れるということ。そして触れた瞬間、対象はその姿を変えてしまう。
ハイゼンベルクの不確定性原理は、それを見事に象徴している。粒子の位置と運動量は同時に知ることができない。世界は「知ることのできないもの」によって構成されているという逆説――これを詩人の思いつきではなく、科学者の結論として突きつけられたとき、われわれのリアリティは根底から揺らぎはじめる。
■ 観測者の亡霊
この現代の神話は、かつての幽霊譚に似ている。量子状態は、観測されるまではあらゆる可能性が「重ね合わせ」られた状態にあるという。つまり、猫は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。観測するまでは、どちらとも確定しない。
シュレーディンガーの猫は、閉じた箱の中で人間の無関心を待ち続ける。だがその実、箱の外にいるわれわれこそが閉じ込められているのではないか? 確定した世界、理屈の通じる因果律のなかでしか生きられない人間にとって、不確定性の世界は恐怖そのものだ。だが、逆に言えば、自由の最後の砦でもあるのだ。
観測者がいなければ、世界は決まらない。ならば、世界とは一体誰のものか。あらゆる現象は「観測者」の目を通してしか存在しないとすれば、われわれはつねに「仮定された観測者」であり続けることになる。自己とは、自分自身を観測することによってしか確定できない存在――それは哲学者の悩みを、科学の皮をかぶって蒸し返したに過ぎないのではないか。
■ 量子トンネルと逃走の夢
さらに奇妙なことに、量子の世界では、粒子は「ありえない場所」へと突然現れることがある。これを量子トンネル効果と呼ぶ。クラシカルな世界では絶対に越えられないはずの障壁を、粒子は、まるで夢の中のようにすり抜けてしまう。
この性質に、私はある種の郷愁を感じる。人間もまた、論理の壁、制度の壁、言語の壁を越えて、理不尽な跳躍をする存在ではなかったか。日常からの逸脱、自己の脱構築、都市の無名性からの逃走――それはすべて、量子トンネル的な営為に似ている。
だが、量子の跳躍は決して意図されたものではない。それは確率の気まぐれであり、意識の関与を拒絶する。ここに、近代人の夢とその終焉が見える。自我の能動性は、量子的な世界においては、ほとんど無意味である。人間は「跳ぼうとして跳ぶ」のではなく、「跳んでしまっていた」という既成事実によって、存在を証明されるに過ぎない。
■ 科学の迷宮、神話の回帰
量子力学は、科学でありながら、まるで神話のようだ。確率の神が世界を決め、観測者が世界を創り、存在は決して単独で定義されない。そこには、もはや合理性の残響しかない。
だが、神話とはなにか。それは人間が、理解できない世界を理解可能に見せかけるために生み出した物語だ。ならば、量子力学という神話が、われわれの現実に取って代わろうとしている今、問い直さねばならない。「世界は、存在しているのか?」と。
われわれが見ている「世界」は、観測という行為によって生成された「結果」であり、存在そのものではない。つまり、この世界には、誰もいないのかもしれない。
ただ、誰かが「いる」と仮定しなければ、存在すら成立しないという、哀れな自己言及の牢獄のなかで、ぼくらは確定の瞬間を待ち続けている。




