『GPSと迷子の権利』
最近、スマートフォンなるものを持たされた。持たされたというのは誇張かもしれないが、半ば押しつけられるようなかたちで、僕のポケットに住みついている。無言で、だが執拗にこちらを監視している生き物のようなやつだ。
この装置は、どうやら僕が今どこにいるのかを、常に正確に把握しているらしい。しかも、世界中のあらゆる場所で、それが可能なのだという。ボタン一つで「自分の居場所」が、地図という名の虚構の上にピン留めされる。気味が悪い。気味が悪いのに、なぜか安心してしまう自分がいるのが、もっと気味が悪い。
昔はよく迷子になった。見慣れた路地で急に方向感覚を失い、気がつけば知らない商店街の真ん中に立っていたりした。そのときの心細さと高揚感が入り混じった感じが、僕は嫌いではなかった。あの不安定さは、まるで自分という存在の境界線が溶けて、風景と混ざり合っていくような快感だった。
けれど今や、僕は迷子になることができない。スマホは、迷うことを許してくれない。どんなに複雑な路地裏に入り込んでも、画面には「現在地」が表示されている。その赤い点が「お前はここだ」と宣言している。
だが、僕は本当に「ここ」にいるのだろうか?
赤い点が示す場所と、僕の皮膚が感じるこの湿った空気とのあいだには、わずかなズレがあるように思える。むしろ、赤い点のほうが“僕”になりつつあって、こっちはただの容器になってきているような気がするのだ。
迷子になれない世界で、人間はどうやって“失われる”ことができるのだろう。失われる自由がなくなったとき、僕たちはどこにいくのか。
スマートフォンは今日も充電され、僕の存在を冷静に監視している。電源を切ってみようかと思ったが、ふと、それが「死んだふり」にすぎないような気がして、やめた。




