『本棚のない読書』
ある日ふと気がつくと、部屋から本棚が消えていた。泥棒の仕業かと思ったが、被害届を出そうにも、盗まれたものが物質ではなく概念に近いとなれば、警察も取り合ってはくれないだろう。
電子書籍の登場が告げられたとき、私は便利さよりも、まず最初に「本棚はどうなるのか」と考えた。あの雑然とした背表紙の林は、知識の森などという立派なものではなく、むしろ積み上がった未解決案件の墓標である。買ったきり読まない本、読みかけて放置された本、再読のタイミングを永遠に逃した本たちが、無言でこちらを見返してくる。そのプレッシャーとともに生きることも、読書の一部だったのだ。
しかし今では、スマートフォンの画面をひと撫でして本を消せば、それで済む。読みかけの本も、無かったことにできる。積ん読の山は、指先一つで雪崩の後始末ができる時代だ。もしかすると、読書そのものが、「読んだ記憶の在庫管理」に変わっているのかもしれない。
本棚は、他人に見せるための人格の立体模型だった。自分という人間が、どんな本に囲まれて生きてきたか、来客にそっと自慢するための家具だ。けれど、電子書籍にはそれがない。本棚のない部屋に、人はどんな知識を宿しているのか。確かめる術もなくなった。
ただ、その不便さをひとつ手放してみると、意外にも空いたスペースは心地よい。読んだ本は部屋を埋めなくなったが、かわりに部屋そのものが、ひとつの余白になった。余白のある生活というのは、案外、悪くない。読書という行為もまた、いつの間にか本を積む行為ではなく、読んで忘れるための儀式に変わったようだ。
私は今日も、ひとつ新しい本をダウンロードして、安心して読む。そして、読み終わるころには、その内容を半分も覚えていない。それでいいのだ。現代の本棚は、記憶の中にだけ並んでいれば、それで十分らしい。