『わたしという虚像』
インターネットというのは、実に都合のいい場所だ。そこでは、私の名前を使って、私よりも饒舌に私を語る人たちがいる。生前に書いた文章よりも、死後に誰かが書いた「私についての解説文」のほうがはるかに数が多い。もはや私は「作品」ではなく「検索結果」として生きている。
試しに自分の名前を検索してみた。
驚いたことに、私の代表作がいくつか入れ替わっている。『砂の女』が相変わらず表看板にされているのはともかく、「難解」「実験的」「不条理文学」といったラベルが、まるで商品棚の値札のように貼られている。
私は小説家だったはずだが、どうやらインターネットの世界では「概念」に昇格しているらしい。名前を検索されるたび、私は電子の海のなかで人工呼吸を受け、死んだふりを続けている。
そして面白いことに、解説を書いた人たちも、私の文章を読んだふりをしている。読んだことのない読者が、書いたことのない私について語り合い、読み合ったふりをして、読み合わなかった事実を互いに見て見ぬふりしている。
つまり私という存在は、生前よりも「読まれない作家」としての地位を確立したのだ。読むよりも、語るほうが簡単だ。語るよりも、引用するほうが安全だ。引用よりも、スクリーンショットを貼るほうが便利だ。こうして私は、人間から文章へ、文章からラベルへ、ラベルから画像ファイルへと進化して、いまやインターネットの端っこで、静かにピクセル化されたまま漂っている。
死後の私は、骨ではなく、検索結果で葬られるらしい。これはこれで、なかなか居心地がいい。骨壷よりも検索窓のほうが広いし、息も詰まらない。




