『記録される風景』
街の防犯カメラと安部公房(風)
歩くたび、風景がこちらを記録している。
そんな錯覚は、今では錯覚とも呼べなくなった。
街の角という角には、まるで生き物のように首をかしげた黒い球体が待ち構えている。見つめ返すこともできないし、見落とすこともできない。存在は隠されるでもなく、むしろ積極的に曝け出されている。「あなたは撮られている」と。
かつて風景は、眺められるためにそこにあった。
今では風景が、こちらを眺め返している。
風景の一部となったレンズは、建物の表皮と化し、街の視線となった。もはや「誰が見ているのか」を想像する必要はない。ただ、風景が視線そのものなのだ。
レンズは回り続け、録画される対象も変わり続ける。だが、その記録のほとんどは誰にも再生されない。記録されることだけが、目的になった記憶。
見られもしないまま、ただ保存されるために集められる断片。都市の片隅には、そんな記憶が積み上げられている。どこにも行き場を持たず、消費されることもなく。
都市という生き物が、自分の成長記録をつけているのかもしれない。だとすれば、我々はその写真の中で、たまたま通りすがった風景の一部でしかない。存在の意味も、役割も、カメラの記憶には必要とされない。
ただ映り込むだけ。
それだけで十分だと、街が判断したのだろう。




