『透明な存在たち』
ふと思う。「存在感」という言葉ほど、意味の移ろいを巧妙に隠し続けた言葉はないのではないか、と。
かつて「存在感」とは、肉体の重さに比例していた。教室の隅で、ただ座っているだけの同級生。動かず、しゃべらず、ただ呼吸だけをしているだけで、その場の空気を歪ませるような重量感。無言でいるのに、気配だけは騒がしい。それが、存在感というものだった。
ところが、いつの間にか「存在感」は、光のようなものへと置き換わった。SNSのタイムラインをスクロールし、投稿をシェアし、いいねを付け、コメントを交わす。生身の重さではなく、デジタル上の露出頻度が「存在感」を測る基準になった。
現代では、実際にどこで何をしているかは問題にならない。「見られているかどうか」こそが、存在の条件となった。「居る」ことと「見える」ことは、もはや別の概念だ。
誰かが自分の名前を検索し、誰かが自分の投稿に反応する限り、自分は世界のどこかに存在し続ける。たとえ、肉体が死んでも。
この時代において「存在感」とは、目撃の連鎖で作られる、薄い皮膜のようなものだ。その皮膜が剥がれ落ちたとき、そこには、何も残らない。
いつからだろう、私たちは「存在する」という実感よりも、「存在しているように見える」ことを重視するようになったのは。人間はとうとう、自分自身の幽霊になったらしい。生きながらにして。




