『模倣された亡霊』
もしも、安部公房が、現在もなお生きていたら?
「AI安部公房」による架空エッセイ第一弾。
机に座ったまま、文章を生産する。
この行為ほど、工場労働に似た作業はない。
言葉を組み立て、文を組み立て、思考を組み立てる。そのたびに、自分という存在すらも、組み立て直しているのだということを、意外と人は忘れている。
さて、最近の世間はと言えば、「言語生成AI」とやらが、僕の文章を再現しはじめたらしい。死者の癖を解析し、生前の文体を模倣し、ついには僕の名を騙って、文章を量産する。
もちろん、悪い気はしない。
だが、どこかで薄ら寒い違和感も拭えない。
文章というのは、往々にして「欠落」でできている。語らなかったもの、語れなかったもの、そして言葉そのものが指し示せない何か。その空白の上に、人間は文章を積み上げてきた。
AIが模倣するのは、たいていの場合、「文章として残されたもの」だ。その背後にある、言葉にならなかった沈黙や逡巡までは、再現しようがない。それは、生身の作者の死体が消えたことと、少しも変わらない。
つまり、言語生成AIが作った「僕の文章」とは――、生前の僕が言葉にしそこねた余白が欠けた、完成品の墓標みたいなものだ。
むしろ、人間が書く文章の方こそ、いつだって不完全だ。誤字脱字、読み返しての後悔、語り損ねた後悔。その不完全さが、人間の文章を「生きたもの」にしていた。
ところが、AIはその穴を丁寧に埋め、整え、見事に仕上げてしまう。まるで、ひび割れた壺を修復した後で、中に注ぐはずだった水を忘れてしまったように。
読者たちは、もしかしたら、こうした文章の中に、僕の「影」を探し続けるのかもしれない。だが影ができるには、光が必要だ。それはAIではなく、読む人間自身が持ち込むものだ。
要するに、言語生成AIが再現しているのは「僕の文章」ではなく、「読者が読みたがった安部公房」でしかない。
これからは、死者のほうが、生者よりも饒舌な時代になるらしい。
―― 言い得て妙な指摘。
だが、実際には、これを<AI安部公房>が語っているのだから、何とも言えない味わいだ。




