表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/24


    8


「今夜は手綱を緩めてやるか」

 と、本郷曹長以下の下士官たちが隊長室に顔を出すなり、唐櫃が笑みを浮かべた。

 補給の乏しい国境線である。蛋白質は、いまの彼らにとっては貴重な生命の源である。口許が自然に綻ぶのも無理はない。

「それがいいと思います。今日は休養日でもあるから、連中も歓びます」

 本郷が、炊事場で騒いでいる兵たちに眼を(ゆる)ませた。

「まったくいい僥倖日和だ。今夜は兵たちに酒を出してやれ。酒の苦手なものもいるはずだから、そういった兵隊には甘味品をな」

「では、夕食時に特別給与の手配をいたします」

 と、踵を揃えて上機嫌で答えたのは、今週の炊事班長の黒木である。

 その炊事場では、堂平と山地が、ノロの解体に精を出していた。互いに本職の料理人とコックの見習いだから、庖丁捌きは双方とも手慣れている。

 冬季の厳寒を生き抜いたノロは、分厚い脂肪を纏った衣を剥がされて、やがて肉の塊が次々と調理台に盛り上げられた。それを、窓の外に群がっている男たちは、滅多に見ることのない珍しい実演を興味津々に見入っていた。彼らも、肉と呼ばれるものに触れるのは久しいのだ。

 田丸がゴクリと咽を鳴らした。

「ええ肉の色しとるけど、ノロちゅうのんはどないやねん、美味いんか?」

 堂平がそれに答えた。

「夏場は青草を食ってるからな、肉は独特の風味が少々あるが、冬場は枯れ草や木の根を囓ってるからそれほどじゃない。食ってみりゃわかるさ」

「今夜は豪勢な飯が食えそうだな」

 と、強姦致傷前科二犯の飯畑が舌なめずりをした。

「これで酒でも出りゃ文句はねえんだがな」

 と、呟いたのを、和久井が鼻で笑った。

「こんな辺鄙な貧乏部隊だぜ、酒なんかあるわけねえだろうが」

 と、返したのを、堂平がニタリと笑った。

「あるんだよ、それが。物資庫のこの奥に、どっさりとな。なあ山地の」

 これには男たちの顔色が変わった。

「おい、ほんとか?」

 と、和久井の声と同時に、男たちの視線が一斉に山地に振られた。

 山地は、それをぼやきに換えた。

「あァ確かにあるにはあるがな、期待しねえほうがいいぜ。あれは将校と下士官用だ。俺たち兵隊の口には入らねえ代物だよ。へたに手を出したりしてみろ、員数割れがバレて、営倉に叩きこまれるだけじゃ済まねえぞ」

「くそったれめ、いい思いをするのは、結局あの連中たちかよ!」

 和久井が嘆くと、

「いい思いをしてるのは、なにもここのお偉方だけじゃねえぞ。後方の連中だってそうだぞ。俺たちがこんな辺鄙なところで女も酒も絶っているってのに、奴らは旨いものをたらふく食って、しこたま呑んだあとは女の(また)(ぐら)漁りだ。こんな不平等はねえもんだぞ!」

 と、片渕がぼやいた。

 男たちは、これには半畳を入れなかった。相手が古参の五年兵だから遠慮をしたのではない。誰もが、遙か後方に某かの未練を残しているから、切実な思いが脳裡を掠めたのだ。

 そう。酒と女だ。娑婆で浴びるほど呑んだ酒の味も、成熟した女の豊満な柔肌も、いまは儚い夢想のなかでの感触でしかない。そう考えるだけで、体内で燻りしつづけている熱い情欲が勢い火焔となって、いまにも噴き出しそうなのである。

 和久井が、急に郷心を起こしたらしく、調理台に次々と盛り上げられる肉の塊を見つめて、しみじみと呟いた。

「……いつ、娑婆へ戻れるんかな、俺たち……」

「そや、それやがな。このまんまやと、あんさ、永久におなごの観音さん拝まれしまへんで」

 と、田丸が受けると、それを飯畑がはじき返した。

「馬鹿ぬかせ! こんなところでくたばってたまるかてんだ。俺ァ生きて娑婆へ帰るぜ。何年も女を我慢のムショ暮らしだったんだ。それがどうだ。釈放と同時に、またぞろ女とは無縁の軍隊ときやがった。娑婆に戻ったらよ、俺ァ女のおそそを突きまくってやるんだ。いままで辛抱した分を、全部帳消しにしてやる」

 股間をまさぐって、飯畑が奇声を発した。

「チキショー、やりてえ」

 それをまた田丸が受けて、パチンと手を打った。

「よっしゃ、十人でも二十人でも、その手配はわてにまかしとき。わては飛田の新地に顔が利くよってに、女は選取見取や。あんさんらの腰が抜けるほどやらせるさけ、大船に乗った気で待っとりや」

「そいつは豪気なこったがよ、行状方正だった浪花の三年兵さんも随分とお変わりになったもんじゃねえか。おめえいつからポン引き屋になったんだ?」

 と、現役四年兵の駒井が茶化すと、

「なんなと言うとくなはれ。好きでこないなったんとちゃいますで、刑務所やら軍隊やらに盥回しされとるうちにやな、真面目な人間の性根まで歪められてしもたんや」

 と、田丸はやり返した。

「ちげえねえや。軍隊じゃドンパチで人をバラしても誰も咎めねえが、娑婆じゃこれがいけねえときた。殺しても飽き足らねえ悪党が五万といやがるってのにだぞ。まったくなっちゃいねえぞ、大日本帝国の法律はよ」

「おいおい、なんだか難しい話になってきたぜ」

 と、うしろから苦情が来ると、

「やめろやめろ、そんな話はここじゃ御法度にしようぜ。いまの俺たちに必要なのは、こってりと脂の乗ったノロテキだぞ」

 飯畑が言葉を掬い取ると、別のが間髪入れずに嘲った。

「そのとおりだ。おめえはおまんこ一筋の人生をもぎ取られたんだもんな。いまは食い気に走るしかねえわな」

「ばかったれ。俺たちの人生てやつはだな、そもそもが女のおそそからはじまったんだぞ。俺ァその懐かしい故郷に郷帰りをしているだけよ」

「よ、一理あるぞ。女は男の故郷って言うからな」

 間のいい声が入って、割れるような笑い声が起こった。

 そこへ週番炊事下士の黒木伍長が入って来た。

「やけに愉しそうじゃねえか。おい、板長さんよ、今夜はこってりとしたノロステーキを頼むぜ。なにしろここでは貴重な蛋白源だからな」

 そう言って炊事場の奥へ姿を消すと、すぐに出て来て弾んだ声をかけた。

「使役五名出ろ!」

「……使役って、まさか便所掃除じゃねえでしょうね」

 と、飯畑が口を尖らせた。

「それなら明日にして貰えませんかね、せっかくの馳走が不味くなっちまいまさァ」

「そうではない」

「それじゃなんです?」

 黒木はニヤニヤしながら、

「ブッたまげるなよ」

 と、鍵の紐を人差指でクルクルと廻して言った。

「いまから特別給与を分配する」

「特別給与って?」

 と、和久井が眼を輝かせた。

「酒だ」

 その途端に、男たちの大歓声が沸き起こった。


 その夜は、北満の僻地の監視哨において、最初で最後の酒宴が開かれた。

 軍隊で下給される酒は、本格的に醸造された清酒などという洒落たものではない。アルコールにぶどう糖やグルタミン酸ナトリウム等を混ぜた不味い合成酒である。それでも、長いあいだそれとは無縁になっている男たちには、まさに特別な日であった。五人で一升瓶一本、つまり、一人頭二合の酒は多くも少なくもない妥当の給与だが、期せずして舞いこんだノロの肉と酒に舌鼓を打ちながら、就寝時限までの許された時間を、これまで強制的に閉じ込められていた欲望の一切を吐き出すかのように、呑んで歌って子供のように燥い(はしや)だ。

 ここでは新兵も古兵もない。国境の最前線での待遇は平等である。前後不覚になるほどの酒量は渡らないにしても、久しぶりの心地よい気持ちに浮かれて銘々が愉しんだ。酒の苦手な者には甘味品の羊羹が分配された。

 どこの社会でも共通している酒の席でのもう一つの肴といえば、猥談である。この肴だけは、出されるたびに味つけが変化するから、どれほど食っても新鮮な味がして飽きることはない。殊に軍隊では、それが露骨な味付け表現となるから、兵隊にとっては、尚のこと貴重な時間であった。

 女気のない殺伐とした軍隊での情欲の捌口は、女との情事を淫猥に夢想しながら、舎外の厠で(かわや)こっそりと孤独な自慰に耽る以外解消の方法はない。特別なこの夜の酒宴は、言わずもがなの猥談で最高潮に達していた。

「俺がはじめて女とナニしたのはだな……」

 と、飯畑が得意満面に口を開いた。

「あれは確か俺が十五のときだったが、やったというよりは、ありゃやられたんだ」

 飯畑は、そのときの情景を想い起こして含み笑いした。

「ちょうど俺ァよ、店のおやじの言いつけで米蔵の掃除をしてたと思いねえ。そこは普段でも薄暗いところでな。俺ァ気味が悪くて、半分泣きべそをかきながらせっせと精を出していたんだ。あんときャ俺も純朴な小僧だった。その純粋な小僧がだ。その薄気味悪いところでだぞ、まだ初々しい俺様の倅を食われちまったんだな……」

 飯畑は、勿体をつけるように、酒で上気した顔を仲間に振って、元々だらしのない口をさらにだらしなく崩した。

「この野郎、勿体つけやがって、早く先を言え。そのおめえの倅がどう食われちまったんだい」

 と、少量の酒で顔を赤く染めた野辺が、飯畑を煽り立てるように先を急がせた。

「まあ黙って聞きなって。話はこれから面白くなるんだ」

 飯畑は、まくれた唇をニッと剝いた。

「そのアマはな、こうだ。奉公先のそいつは女中だったが、これが肥え太った豚みてえな奴でよ、おまけに南京カボチャをぶっ潰したような顔をしてやがってな、それが突然薄暗えところから顔を出したもんだから、俺ァてっきりヤマンバが出て来たと思ったさ。ブッたまげた俺は、思わず腰が抜けそうになっちまって米俵にしがみついたんだ。そしたらよ、そのアマ、なにをしでかすかと思ったら、震えてる俺の前で、それもいきなりてめえの着物の胸を割ってニッと笑いやがった。出て来たのは、ガキの頭ほどあるおっぱいだ。それを両手で支えるように揉みながら、豚のケツほどもある尻を振りながら俺にニジリ寄ったんだな。こうやって……」

 飯畑は、胸に手を当てて、悩ましく尻を振りながら女中の仕種を真似た。

「俺ァキンタマが縮み上がって、体が金縛りになっちまったさ。そんで声も出せずにガタガタ震えてるところへだ、そいつは恥ずかしげもなく、今度はてめえの着物の裾をまくり上げてまたニヤリと笑ったね。股のあいだから、岩海苔を貼りつけたみてえな真っ黒いオケケがニッと顔を出しやがってよ、そのまくり上げた着物の裾をヒラヒラさせながら、おいでおいでをしてやがんのさ」

「この野郎うまくやりやがったぜ。それからどうしたい」

 野辺がまた煽った。

「そう焦るなって。……で、そのアマはよ、俺様の清らかな倅をだな、こうやって両手で包むように握りしめてだぞ、牛みてえな長えベロでもってよ、ペロリペロリとうまそうにしゃぶりながら言いやがった。てっちゃん、すぐによくなるからね」

 聞いている男たちが、食器を叩いて笑い転げた。

「俺ァ恐怖のあまり、両手で眼をおっ隠してよ、歯を食いしばってやられるままじっと我慢をしてたんだ。だがアラ不思議よ、そのうちにおっ立っちまったんだな、俺様の倅が、こんな風によ」

 と、箸を股間に立てて、それを上下に振って腰をくねらせた。

「それでどうなったんだい、おめえの倅は」

 和久井の声である。

 飯畑は和久井に振り向くと、したり顔でまくれた唇を赤い舌で舐めた。

「眼醒めたのさ。南京カボチャは俺の趣味じゃねえが、そいつはデブッチョの割りにはあそこが締まってやがってな、世間でいう、小銭を入れて紐で口を縛るあれだ」

「巾着かァ。チクショー、カボチャでもヒョウタンでもいいぞ、俺にもやらせろ!」

 駒井が激しく食器を叩きながら唸った。

 その駒井に視線を移した飯畑は、またニタリと笑って、今度は声に艶をつけた。

「そいつは俺の腹の上で腰を振りながら言ったね。お前はもう子供じゃないね、お前のは馬並みだよ。あァ、あたいのおまんこが張り裂けそうだよ」

「嘘つきやがれ! おめえのはエノキ茸じゃねえか」

 間髪入れずに誰かが囃し立てると、

「馬鹿ぬかせ! なげえ別荘暮らしで使わねえから、退化しちまったんだよ」

 と、飯畑が口を尖らせたのを、男たちがゲラゲラ笑って囃し立てた。

「南京カボチャでも、豚マンでもなんでもいいぞ。この俺に宛てがってくれ。チキショー、娑婆に戻ったら、穴という穴めがけて突進だ。俺も負けちゃいられねえからな!」

 と、これも飯畑に負けないくらい顔を赤らめた金石が体をよがらせた。

「そうだ。その勢いで、今度はジャングルの生きた牝ノロを拐か(かどわ)してきな。オソソはおめえにやるからよ」

 周りがまた一斉に沸いた。

 菊地は、暫くは仲間の猥談を苦笑しながら聞いていたが、そのうちに不安が募りはじめた。意地の悪い片渕が、お前もなにかあるだろうと同僚たちを指名し始めたのだ。アルマイトのコップを手に、ニヤニヤしながら指をさされでもしたら面倒である。いまだに女を知らずにいることに応えようがないことをいいことに、他の古参兵たちと一緒に嗤いの曝し者にされるのは必至である。

 菊地は、隣でニヤニヤしながら呑んでいる戸田に便所へ行くとごまかして、こっそり班内を抜け出した。

 舎外へ出ると、夜空のそこには、手を伸ばせば届きそうなところで星屑が宝石のように煌めいていた。

 兵舎では、若い奴らが笑いのカモにされているのだろう、男たちが食器を叩いて、ゲラゲラと声を上げて騒いでいる。

 その騒声を背に聞きながら、菊地は、舎後の斜面に張られている土嚢に腰をかけて、大河から湿原を抜けて吹きつける涼やかな夜風に頬を撫でさせながら、月明かりの下に展開する湿原地帯をぼんやりと見つめていた。

 そこへ背後から声がかかった。

「今夜の夜空は格別だな」

 声の主は、教育助手の紀多上等兵であった。

 背後からの咄嗟のことで、菊地の敬礼が曖昧になった。

「いいんだ、そんなものしなくて、今夜は無礼講だ」

 紀多は片手で制して、土嚢に腰を下ろした。

「それより、なぜみんなと呑まないんだ?」

「……酒は弱いんです」

 と、菊地はうそぶいた。呑む口はあっても、酒の味を堪能するほどの量は当たってはいないのである。酔うほどの量を呑んでいるのは、要領のいい奴と古参兵たちである。

「俺も、酒よりはこっちだ」

 と、食いかけの羊羹を見せると、なにかを探すように夜空を仰ぎ見て、

「見ろよ」

 と、紀多は微笑んだ。

「こんな星空を見ると、なんだな、世界を相手に、日本が戦争をしているという事実が、まるで嘘のようだなァ」

 と、呟いたその顔には、古参兵特有のあの陰湿な(かげ)りはなかった。

 紀多は、食い残した羊羹を軍衣のポケットに入れて、煙草に火を点けながら言った。

「澤来班長に聞いたが、お前、満州二世なんだって?」

「そうであります。上等兵殿」

 菊地は用心深く答えた。日頃は手厳しいこの古参兵と個人的な会話を交わすのは、これがはじめてだからである。

「大陸生まれの大陸育ちか。俺は、白秋(北原)のちゃっきり節の郷だよ」

 紀多は無邪気な笑顔を浮かべた。

 警戒な三味線の音で唄う芸者歌手市丸の声は、満洲にも響き渡っていて知らない者はいない。

「上等兵殿は静岡の出身ですか」

「そう。この湿原地帯のような、壮大な銘茶の産地だ」

 紀多は、そこが恰も(あたか)自分の茶畑であるかのように見つめながら答えた。

「毎年五月の(いつ)()になるとな、家族や近所の女たち総出で一番茶の収穫をやるんだ。新芽の生葉を一枚ずつ手で摘みながら、歌なんか唱ったりしてな」

 菊地は静かにうなずいて、その場景を思い浮かべた。

 日本の誇る壮麗な富士の山を背景に、絣の(かすり)着物を纏った若い娘たちが、整然と列んだ緑の茶畑で生葉を摘み取る姿は、満洲ではまず見られない風景である。

「ところでお前、大手軍需会社の優秀な技術屋だったそうだな」

 紀多が訊いたのを、菊地の表情が月明かりで硬くなった。

「優秀だったかどうかは疑問ですが、そうであります」

 紀多の問いが、なにか意図の含まれたものに聞こえたが、紀多のほうは他意があってのことではなく、明るい表情を湛えていた。

「手に職があるってのはいいよな。どこへ行っても食い外れがない。俺なんか、その点、精々茶葉の生葉を揉む手があるだけだ」

「それだって立派な技術職だと思いますがね」

「そりゃそうだが、それを生かそうにも軍隊に取られちゃ折角のそれも台無しだ」

 二人は、朧な月明かりに白い歯を見せ合った。

「……どうして憲兵なんかに引っ張られたんだ? 民間人に対する犯罪は治安警察の管轄だろ? もっとも勤め先が軍需会社だから憲兵が介入したのかもしれんが、軍需に差し障ることでもしたのか?」

 菊地は、煙草を静かに吹かして少し間を置いた。そこまで知られているなら、へたに隠し立てしないほうがよさそうである。

「軍需に関係しているのなら、いまの自分はここに存在していないことになります」

「どういうことだ?」

「……軍需に関する漏洩は極刑です。それにそんなことをしても私の得にはなりません」

「それなら、なんで挙げられたんだ?」

「私としては当然のことをしたつもりですが、見る側からすれば、私は反日走狗の要注意人物と、そう判断されたようです」

 紀多は、それ以上は訊かずにうなずいた。

「いまは戦時下で、社会全体が狂っている世の中だ。だから、まともなことを言う人間が裁かれて、悪者だけが権勢をふるって栄える仕組みになっているからな」

「そのとおりですね」

 菊地は相槌を打つにとどめた。

「気を悪くするなよ。俺はお前の思想傾向云々をこだわっているんじゃないんだ。これからもお前との勤務がつづくだろうから、お前という人間をよく知っておきたいだけなんだ」

 紀多の腹に他意のないことがわかって、菊地は明るい笑みを返した。

「わかっています。過去はどうであれ、いまの私は一個の兵隊ですから……」

 紀多はうなずいて、蛮声を張り上げている兵舎に顎をしゃくった。

「連中、いい気に騒いでいるな。あの声を聴くと、まるで自分たちだけが戦争の埒外に置かれているようだ」

「無理はありませんよ、開放的になりたいのも。ついこのあいだまでは塀のなかに閉ざされていて、漸く釈放されたと思ったら軍隊へ直行なんですから……」

 菊地は、国粋国家の制度を呪うように兵舎をかえり見た。

兵舎では、狂ったように食器を打ち鳴らして、男たちの割れた蛮声が乱れ飛んでいた。

 それを聴きながら菊地はつづけた。

「あの連中は、僅かな酒で浮かれきっていますが、私から見ると哀れな連中ですよ。と言うより、私もある意味では同類ですから偉そうには言えませんが、彼らだって好んで犯罪者になったわけではないと思うんです。必要に迫られたなにかがあって反社会的な道を選択したんだと、そう思うんです。そのなにかの原因を作ったのは、いまの時代を築いた資本家優先の政財閥と軍部なんです。こんな国にした国家元首は、本当に自国民のことを考えているんですかね。私には、肝腎なことは眼をつむって、名利や権勢欲に固執して瀆職の限りを尽くす族を擁護しているとしか思えません。権力を楯に、弱者を()使()する連中こそが国家の大悪人なんです。国家元首はそれに気づくべきなんです。そうすれば、誰もこんな戦争なんか……」

 菊地は先をつづけようとしたが、紀多の神妙な顔つきを見て口を噤んだ。迂闊に喋りすぎて古兵の感情を害することにでもなれば、あとが面倒になると考えたのである。

 一方の紀多は、そうではなく、菊地の話に関心を示して聞いていたから、菊地が気まずそうに口を閉じたのを逆に気遣ったほどである。

「どうした? 言いたいことがあるのなら、俺に遠慮はいらんぞ。言ってみろよ」

 と、先を促した。

「なにを喋ってもかまいませんか」

「俺は見かけより堅物じゃないよ。ここではお前と二人だ。なにを喋っても、聞いているのは虫だけだ」

 と、冗談を返した。

 菊地は、これで話のつづきが楽になった。この上等兵は、もしかして、話のわかる古兵なのかもしれない。

「ではお尋ねしますが、上等兵殿は、日本は、このままの状態で戦争に勝てると考えておられますか?」

 と、ずばり本音を切り出した。

 紀多は、それをやんわりと受け留めて、

「そう考えているのは、いまお前が(ほの)めかした、日本の勝利を信じて疑わない馬鹿な国粋主義者だけじゃないか」

 と、答えると、菊地は、月明かりで紀多にもはっきりわかるほど、大きくうなずいた。

「その国粋主義者ですが、もし、ですが、もし戦争が彼らの思惑どおり行かなかったとして終わるとしたら、上等兵殿は、どのような形で終熄するとお考えですか?」

 紀多も、そのことを考えている一人だったから、これは慎重になった。

「……難しい問題だな……」

 と、少し考えるように間を置いて、朧に浮かぶ湿原へ視線を巡らせた。

「……戦争をどのように終わらせるか、それは天皇だってわからんだろうな。ただ俺の個人的見解を言えば、国粋主義者を一掃する民主勢力が立ち上がってくれれば、この問題の解決は早いんだろうが、いまの時点では簡単にはいかんだろう。戦争を終わらせるにも相手があることだし、その相手が、日本が提示する条件をどの程度受け入れるかによって日本の運命はきまるだろうな」

「……その条件とは?」

「この戦争を終結させるには、条件は一つしかないと俺は考えている。つまり、戦勝国が日本に再起不能の打撃を与えて、それを無条件の降伏とすることだ」

「軍部の抗戦的な主戦派が、それを認めるでしょうか?」

「問題はそれだが、その審判を下すのは日本政府でも軍部でも天皇でもない、戦勝国の支配者だ。本来なら、この戦争は朕の命によってはじめられた戦争だから、天皇が戦争の()(すう)を考慮して終戦の聖断を下すのが筋だが、その肝腎な天皇は、なぜかなにもしないし、なにも言わない。だから軍部は、天皇が軍事に口を出さないのをいいことに、いまや暴走の歯止めがきかなくなっている。いまの日本には勝算の見込みは九分九厘ないことを承知の上でだ。そんな状態だから、いまお前が言ったように、軍部はそれを承認するはずはないさ」

「驕り高い連中は承認しないでしょうね」

「そりゃそうだろ、軍部が意気込んで、天皇を丸めこんではじめた戦争だ。負け戦とわかっていても、戦争を仕掛けた自分たちの体面上、対戦相手の言いなりに、おめおめと退き下がれんだろうからな。仮に降伏を認めると仮定してもだ、軍は自分たちに都合のいい条件を、終戦内閣に強引に押しつけるんじゃないか?」

「有利な条件つき講和ってことですか?」

「軍部にすれば当然の主張だろうな。無条件降伏だと、お偉い軍人たちは斬りたくもない腹を斬らなきゃならんからな。お前も考えているとおり、この戦争は、誰がどう足搔いたところで先は見えている。それを承知で、負け戦を勝ち戦と(うそぶ)く軍中枢だ。そんな連中が、無条件の全面降伏など認めるはずがないからな」

「しかし、外交に関しては政府の管轄だから、軍人はそれに関与することも、命令権もないはずですよ」

「そこだよ厄介なのは。二・二六以後の軍部は力をつけすぎたからな。東条(英機=陸軍大将)の独裁政権(内閣総理大臣・陸軍大臣・参謀総長・商工大臣・軍需大臣兼任)が発足して以来、いまはその政権が頂点に達していて、それが小磯(国昭=陸軍大臣・陸軍大将)と米内(光政=海軍大臣・海軍大将)の連立内閣に継承されている。政治家は、いまや軍人の操り人形同然だからな」

 紀多は、煙草を一服吹かしてつづけた。

「それに単純に考えてみてもだ。仮に日本政府が無条件の降伏を拒否したら、戦勝国側は感情を硬化させて日本の戦争責任を重科するだろう。そしてその責任は、政府や軍部の責任にとどまらず天皇の存命にまで及ぶことになる。この戦争の(うま)(じるし)は天皇だからな。その首を討たれたら、神国大日本帝国は滅亡する。それを承知でだ、軍中枢部が無条件の降伏を認めるはずがない、と、俺は見ている」

 紀多のこの推測は、かなりのところまで言い当てていたが、はたしてそれがどの時機か、どの時点で実行されるかの予測は、未知の問題として残されたままであった。それを分析するだけの情報は、兵隊には与えられていないのである。

「これは、俺一個人の憶測にすぎんが……」

 と、指に持てないほど短くなった煙草を軽く喫ってから、それを指で弾き飛ばした。

「この戦争を終息させるには、さっきも言ったが、日本は再起不能の瀕死の重傷を負う必要があるだろうな。つまり、軍部が政府にどれほど圧力を加えようと、外務大臣の重光((まもる))がどれほど外交手腕を発揮しようと、戦勝国側はおそらく無条件降伏の提示内容は変えないだろう。東条は、それだけ無謀に戦線を拡大しすぎたからな。カミソリ東条と踊らされて、鳴物入りで政権を握って戦争をはじめたはいいが、泥沼に(はま)った戦局を好転させるどころか、行き詰まった戦勢を無責任に投げ出して辞職した。後継の小磯や米内が心血を注いだところで東条の尻拭いなど到底できるもんじゃないし、あの二人が日本を有利な立場に導くとも思えん。だから政府機関は、小磯と米内をうまく利用して、東条の犯した非を外交上で必死で繕うだろう。だが、それもそこまでだ。日本側が提示する降伏条件を戦勝国側がどこまで譲歩するかはわからんが、俺の個人的観測だと、日本の独善的降伏条件など戦勝国側は全面的に却下するだろう。と、俺はそう見ている」

 そう言い切った紀多に、菊地の軍帽がうなずいた。

「手前勝手な条件など、戦勝国側が認めるはずがありませんからね。馘の皮一枚になった軍部がどれほど虚勢を張っても、膨大な生産力と軍事力を誇る大国を相手に勝てるはずはないんです。国力の差は、この戦争の開戦劈頭から歴然としていたんですから……」

「この戦争の(もと)は、元々ここ満州だ。それを思い上がった軍人どもが調子づいて世界に火をつけやがった。国際連盟を脱退して世界からつまはじきされても、まだ性懲りもなく意地を張っていやがる」

「同感です。弁護する材料はどこにもありませんね。満州で間違いを犯して、真珠湾でその上塗りをした上に、南方をはじめ、アジア全土に無謀な侵略を拡大して内外の多くの人命を犠牲にしたんですからね。その上にまだ過ちを重ねようとしている。日本は狂国以外何者でもありません」

 そう。この世に、聖戦なるものはどこにも存在しないのだ。聖戦と称して繰り広げられるそこに残されるのは、平和ではなく、血に飢えた権力者どもに弄ばれる人間の悲惨な運命の山が築かれるだけである。そんな連中に手足をもぎ取られたも同然の国民が、いくら戦争の不当性を訴えたところで、所詮は犬の遠吠えでしかないのだ。いや、犬の遠吠えでも、吠えるだけの価値があればまだいい。だが、利己的な権勢欲に溺れている支配者の下に置かれた人間にはそれさえも許されない。吠えれば、忽ち虱のように潰されて闇に葬られるのである。

 菊地は、憎しみをこめた声で呟いた。

「どんな形でもいいから、こんな馬鹿げた戦争は早く終わって欲しいもんです。戦争を好んでやる愚かな連中に操られているこんな国など、そんなものは跡形もなく滅んだっていいんです」

「滅ぶさ。無為無策のガキ大将がいつまでも虚勢を張れるはずがないからな。ただし、どんな形で終わるにせよ、俺たちにはそれを見届けることはできんだろうがな」

 この国境線でソ連と全面戦争になれば、自分が生存する確率は殆どゼロに近いだろう。生きて、再び一番茶の生葉を揉むことができるか……。紀多は、観念的な暗い面持ちを湿原地帯へ向けていた。

 望楼の斜面に、複数の人影が揺れながら出て来た。千鳥足で出て来たのは、四人の下士官であった。

「どうやらお開きらしいな。もっと詰めた話をしたかったが、これはあとの楽しみに残しておこう。いずれにせよだ、俺やお前の考えはともかくとして、いまの俺たちの共通点は、国粋主義の呪縛からは決して逃げられないということだ。この戦争が終結して軍事国家が解体されん限り、俺たちは所詮一個の消耗品でしかないからな」

 紀多は、言いながら四人の下士官を見つめて、嘲るように唇を歪めた。

 その下士官たちは、階級序列に従って立ち並び、体を揺らしながら、上機嫌に国境線に向かって放尿していた。

 その影に、菊地は厭味を投げた。

「……あの班長殿たちは兵隊とは別格の待遇で、私たちとはちがってそれなりの思考と感情の表現を許されていますが、厳密に言えば、我々と同一火線上に置かれている一個の消耗品の存在にすぎないんです。彼ら下士官はそれを自覚しているんでしょうかね?」

「なにも自覚してやしないさ。そういう常識を持ち合わせていたら、殺人の指導も指揮もできん道理だからな。だからなにも考えないことで、下士官と兵隊の上下関係の折目をつけているんだ。つまり、軍隊は命令と服従で動く縦の機能が完璧であれば、それで組織上の目的は達成するんだ。だから、人間的本来の正常な思考を、機械的従順な服従者として兵隊を改造するために、軍隊は連中を指導者として部隊内に蟠踞させているんだ。兵隊を掌握するのは将校じゃなく、事実上はあの下士官連中だからな」

 下士官たちは、放尿を終えると、おぼつかない足取りで二人の視野から消えた。

 それを見送った紀多が、呟くように言った。

「人間て奴は、どれほどの知識があろうとなかろうと、所詮は単純で哀れな生き物なんだな。表面上では芯が強そうでも、実際の中身は脆いものなんだ。これまで虫も殺さずに真面目一筋に生きて来た奴がだよ、軍隊の殺戮集団に組みこまれて徹底的に殺人技術を鍛錬されると、そうなりたくないと肚で抵抗しながらも人間性までなくして、それも殺人能力だけを発達させて冷徹な殺人者になるんだ」

 紀多は忌々しそうに口を歪めた。この数年間で自分がそのような完全な形に仕上げられた様を顧みて、それに(さか)らえない自分を肚で呪っているのである。

 月明かりに浮かんだ望楼に監視兵が立った。二人は、鎮かになった兵舎へ脚を向けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ