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休日のない国境の兵たちに、突然の僥倖が舞いこんだ。
隊長の唐櫃中尉が、連日の過酷な訓練に耐えている兵たちの慰労にと、一日の休暇を与えたのである。このことは、兵隊としての演練度が高まったという証でもあった。
だが、せっかくの休暇が許されても、兵たちには、なにもすることがなかった。慰安所のある、孫呉の街までは、危険地帯の往復百キロ、武装した輸送車両を利用しない限り移動は不可能で、したがって、どこにも外出はできないというわけである。
暇を持て余した兵たちは、手先の器用な者や気の利いた者は、森に入って掛かりもしない罠を幾つも仕掛けたり、白樺の枝を器用に削って、民芸品まがいの玩具を作ったりして時間を潰した。これといった趣味のない者は、兵舎の附近で、ただぼんやりと一日を費やしていた。
営舎内には、先任の弘前兵長と紀多上等兵が、手製の将棋盤を挟んで睨み合っていて、それに加えて、そこから離れた場所では戸田と菊地が残っていた。
なんの特技も趣味もない戸田は、軍衣を前開きにして両手を軍袴の腹に差し込み、退屈な時間を持て余して、檻のなかの猛獣のように、落ち着きなく兵舎を出たり入ったりしていた。だが、そのうちに、寝台に寝そべってぼんやりとしている菊地が気になりはじめて、菊地に歩み寄って、ヤニで汚れた歯をニッと剥いた。
「よう、さっきからぼんやりとしてるが、なにを考えてるんだい? 娑婆のスケでも恋しくなったか?」
菊地が、顔を向けて口許を弛ませた。
「ま、そのようなものさ……」
と、答えると、戸田は、俄に好奇心を掻き立てた。
「そうだと思ったぜ。で、どんなスケだい。おめえのスケならよ、さぞかし別嬪だろうよ」
戸田の瞳が爛々と輝いた。国境の辺境な地での楽しみは、食うことと女の話だけである。
「真面目な兵隊さんだとばかり思っていたが、おめえも隅に置けねえ野郎だったんだな」
興味津々の眼差しを菊地に注いで、戸田は、ドカリと菊地の横に胡座をかいた。
半身を起こした菊地は、戸田をまじまじと見つめた。毎日その顔を見ているはずなのに、なんだかはじめて戸田を見るように思えた。その顔は、殺伐とした軍隊に何年も盤踞している、あの陰湿な片渕のような古兵の面構えに近づいているのである。この男も、あと一年もすれば、片渕のように内務班の狡猾な暴力の神様となり、肩で風を切って班内を闊歩する存在となるにちがいない。
その戸田が、にやけた眼を菊地に向けた。
「色ごと交じりの話は十人十色って言うからよ、おめえさんのはどんな色話だ? 世のなかにゃ女は五万といるんだ。女を絶っているはずの坊主だってよ、夜の巷を徘徊してエロ事を重ねているんだ。おめえだって、そんな話の一つや二つは娑婆で作っただろ?」
菊地は苦笑した。
「そうだな、眼尻を緩めて唸る色事の一つをお前に聞かせりゃ、お前の望みどおり、この場は盛り上がるんだろうが、生憎と俺はそんな話は持ち合わせていないんでね」
日頃は無口でおとなしいと思っていた菊地が、意外と気さくなのに、戸田は親近感を覚えたようである。
「そうは言ったがよ、本当は随分と泣かせたんじゃねえのかい、その面でよ」
「そう思うのは勝手だがね、残念なことに、俺はお前ほどの経験をしなかったことをいまにして悔やんでるさ。この期に及んで、後悔の念でいっぱいだ」
菊地は、軽い冗談のつもりで言ったが、言ったそのあとで、苦いものが胸の内に衝き上がった。
一人の女性を偲んで、淡い夢想に耽っていたのは事実であった。そう遠くない過去での、あの陸軍病院での出逢いと突然の訣れを思うと、なぜか、胸が無性に痛んで、悔やむのである。あの人は、俺のことを、まだ憶えているだろうか……。
「聞かせてくれよ、な、女の話なら、この際なんでもいいんだ」
戸田が、食い入るように菊地の顔を覗きこんだ。
「話して聞かせるほどのものじゃないよ」
淡く笑って起き上がろうとしたとき、間の悪いことに、立つときに上体が崩れて整頓棚に手を触れたことから、背嚢に置いてあった便箋が落ちて、戸田の手が横から素早く出てそれを攫った。
菊地は、短い声を発して取り戻そうとしたが、もう遅かった。
「しょうがない奴だな」
と、にが笑いを洩らして、またその場に腰を下ろした。読まれたところで、受取人は、既にそこにはいない手紙である。
便箋は、戸田の手中で厳かに開封された。
「なになに、ん? えー……と?」
戸田が、初っ端から詰まった。
「これ……なんて書いてあるんだ?」
戸田が、罫紙に書かれてある最初の文字を、指でさして訊いた。一定の距離を保っているのは、取り戻されない用心をしているのだ。
「拝啓って書いてあるんだ」
菊地は呆れ顔で答えた。
「はいけい、か、難しい字だな。で、……その次は?」
菊地は、戸田の顔を真っ直ぐに見た。
「もしかして、お前、字が苦手なのか?」
戸田は、口許を一瞬卑屈に歪めたが、すぐに弛めた。菊地の顔に、軽蔑の色がないことを感じとったのだ。
「じつはそうなんだ」
と、戸田は、頭鉢を掻きながら便箋を差し戻した。
「俺ァガキのころからよ、田んぼのドジョウやタニシを食って育った小作人の小倅だからよ、そのお蔭で、読み書きなんてやつには縁がなかったのさ」
戸田は乾いた笑いを洩らしたが、菊地は無表情に胸の内だけでうなずいていた。この男に限らない。貧困家庭出身者には、自分の名前すら書けない者がいるのを知っているからである。
「……俺が十六のときだ」
と、戸田が言った。
「まだなんにも知らねえウブだったガキのころの話だがよ。村に二つ年下の娘がいたんだ。そいつは大金持ちの地主の娘でよ、貧乏百姓の俺には、手の届かねえ高嶺の花だった。俺たちは稗や粟の雑穀を食って育ったが、そいつの家は、毎日白い飯をたらふく食っていやがってよ、気がついたときには、肉付きのいいふっくらとした女学生に生長していやがった」
そこまで言って、戸田は鼻で嘲るように笑った。
「馬鹿な野郎だぜ、俺も。貧乏百姓の小倅じゃどうすることもできねえのによ、よせばいいのに、俺ァその娘に惚れちまいやがった。本気で女に惚れたのは、それがはじめてだった。それまで考えもしなかったが、おかしなことにだな、本気で女に惚れると、口がまともに動かなくなっちまうもんだな。それで、なんとか口説きてえんだが、なにしろ読み書きができねえもんだから恋文は駄目だろ。だから勇気をふるって思いきって言ったよ、お前が好きだってな。娘は、最初はきょとんとして俺を見ていたが、急にケラケラと笑いだしてよ、あんた自分がなにを言っているのかわかって言ってるの? と来やがってよ、そのあとが振るってやがる。いまのあんたとあたしとでは家の格ががちがうのよ。ばかばかしい。あたしと対等に話がしたければ、それなりのお金持ちになってからすることね、とな、鼻で笑いながらそう言いやがった。俺ァ、貧乏人をコケにされた腹立たしさの勢いで、娘をその場でぶっ叩いて、気絶したところを林に引っ張りこんださ……」
戸田は、そのときの状況を想い出して眼を細めた。
「俺ァ強姦とかいう罪で追われたよ。当然だな。ぶっ叩いて、むりやり娘の股を割っちまったんだからな。村を逃げた俺は、夜汽車の貨物列車に潜りこんで東京へ向かった。でかい街なら、見つかる気遣いもねえと思ったんだ。それで、腹ァ空かして街をうろついているところをいまの親分に拾われて、そこに住み着いちまった。それが俺のやくざな人生のはじまりさ。それからの俺は、確かに女には不自由しねえ暮らしだったが、男と女は磁石みてえなもんでよ、くっついたり離れたりしているうちに、とうとう情まで貼りついちまった。そういうスケが、娑婆にいるにはいるんだがな……」
戸田は、なにが書かれてあるのか皆目わからない便箋を、苛やましそうにまじまじと見つめて歎息した。
「だけんどよ、いっぺんでいいや。おめえの、その達筆な恋文とまでは言わねえが、歯の浮くような殺し文句ってやつでよ、娑婆で待ってるスケに書いてやりてえや」
「お前には、きまった女がいるのか。だったら、いまの様子を書いて知らせてやればいいじゃないか」
「いろはのイの字も書けねえ俺に、どうしろてんだ?」
「簡単じゃないか、字を覚えればいいんだよ」
「覚えるったって、ここは尋常の小学校じゃねえんだぜ。どうやって覚えるんだよ」
菊地は笑みを湛えて答えた。
「後方の部隊とちがって、ここの夜は時間がたっぷりあるんだ。俺でよければ教えるよ。その気にさえなれば、難しい字は別にして、すぐに書けるようになる」
「おめえが先生になってくれるってのか?」
「お前さえよければ、な」
戸田が膝を叩いて無邪気な笑顔を作った。
「そいつはいいぜ。俺ァ前っから思ってたんだ。せめて恋文の一つや二つ書いてみてえとな」
明るくなった戸田の顔が菊地の鼻先まで近づいて、それから急に囁き声になった。
「ここだけの話しだけんどよ。こう言っちゃなんだが、俺ァ大学出のインテリって野郎は苦手なんだ。奴らは、てめえだけがいちばん賢いと、なにかにつけて学を鼻に引っかけやがるだろ。だから、どうも虫が好かねえんだな」
「インテリ、ね……」
と、菊地は、戸田の口走った響きがむず痒く聞こえて、思わず口許に苦笑がこぼれた。
地方の会社や軍隊で出世を目的とする者には、確かに学歴は必須の条件である。殊に高学歴者は有利な立場に置かれるのは自明の理である。
だが、兵隊はどうか。鴻毛よりも軽い生命とされる一個の消耗品に過ぎない者が、そこでどれほどの高学歴を擁していようと、そのようなものは、単なる固有の価値観に過ぎないのである。
「学歴なんてものはな、戸田……」
言いかけて、菊地は、班内の紀多上等兵と弘前兵長の耳を気にして、さすがに声を落とした。
「そんなものは、俺たち兵隊にはなんの自慢にもならんし、屁の突っ張りにもならんのだよ。そいつにどれほどの学歴や智慧や知識があろうとも、そいつが兵隊である限り、所詮は一銭五厘の値打ちだ。気にすることはないさ」
そのとおりである。どれほどの学歴があろうと地位があろうと、軍隊の末端で兵隊として留まっている以上は、人間の資格を剥奪された一個の消耗品でしかないのである。
「いいことを言うぜ、おめえ」
と、戸田の視線が兵舎内を一巡して、菊地の鼻先に戻ってニタリと笑った。
「だから、俺ァおめえのような奴のほうが性に合っているんだな。なにしろ俺たちゃよ、なんだかんだと言っても一銭五厘の同類だもんな。一蓮托生ってやつだ」
本郷曹長の言った一蓮托生が気に入ったらしく、戸田は嬉しそうに鼻の穴を膨らませた。
確かに戸田の言うとおりである。ここにおいては前科のついた同類であることにちがいはない。ちがうのは、個人がこれまで辿って来た人間の遍歴である。戸田よ、俺も一応インテリの端くれだが、お前の気に入るような個人教師が務まるだろうかな?
戸田が、パチンと手を打った。
「そうときまったら、早速用意しなくちゃならねえな」
戸田は、班内をもう一度見廻してから、なにかを思いついたらしい。
「ちょっと用を済まして来る」
言い残して舎外へ飛び出して行った。
菊地は、戸田の後姿に怪訝な視線を送ると、便箋を私物箱に収めて寝転んだ。
いつの間にか微睡んだらしい。体を揺すられて気づくと、にやけた戸田が隣に正坐をしていた。
戸田は、便箋と鉛筆を調達したらしく、嬉しそうに菊地の前に差し出した。
「どうしたんだ、それ?」
と、入手先を尋ねると、戸田は照れ笑いを浮かべて、悪びれもなく言った。
「いや、ちょいと奥田の野郎と話をしたんだがな、そしたら、奴が言うんだ。そういうことは俺にまかせろってな。それでまかせたもんだが、お蔭で煙タ一箱だ、高くつきやがったぜ」
菊地が慌てて自分の口許に人差し指を立てて、戸田を引き立てるようにして舎後に連れ出した。
舎後の人影のない片隅に戸田を連れ出した菊地は、戸田を見据えるようにして小声で訊いた。
「もしかしてお前、これじゃないだろうな」
と、人差し指を折り曲げると、戸田は、ニッと歯を剝いてうなずいた。
菊地の顔が蒼くなった。
戸田は、奥田に盗みを持ちかけたのだ。それも、たった煙草一箱を代価としてである。
この白昼に、誰の者を、どういう手口で奥田が盗んだか、その詮索は無用であった。菊地は微睡んでいて気づかなかったにしても、班内には弘前兵長と紀多上等兵がいたし、物資庫に入るには、炊事場の下士官管理室を通らなければならない。そのことから判断して、奥田は、内務班は無論のこと、物資庫で窃盗を働いたのではないことは明白であった。つまり奥田は、隊長室か下士官室に忍び入ったのだ。もしそうであれば、発覚するのは時間の問題であった。
菊地は、一時的にせよ、前科者の相手を信じて安請け合いしたことを後悔した。つまらぬことで、巻き添えを喰らうことより、自分の迂闊さにやり場のない怒りを覚えた。
それが反動となって罵声が飛び出した。
「なんて馬鹿なことをしでかしたんだ! やったのは隊長室か、それとも下士官室か?」
「そんなこと、どっちだか知らねえよ」
と、無責任に答えた戸田に、菊地は、いまさら言っても仕方がないと思いつつ口を尖らせた。
「お前たちが軽薄で拙劣な奴だってことはよくわかっていたが、軽率だったのは俺のほうだったよ。もっと、全体を考えるべきだった。だけど、それにしてもだ、お前たちはここをいったいどこだと考えているんだ? 軍隊だぞ、ここは! これが発覚するとどういうことになるか、厭というほど監獄にいたくせにまだわからんのか! それも、よりによって幹部の私物を盗むとは、まったくなんて愚かな奴だ! 考えてみろ。ここは娑婆じゃないんだぞ。娑婆なら、やった奴だけの責任になるが、ここではお前たちの責任だけでは済まないんだぞ。俺もお前も、みんな連帯で処罰されるんだぞ。そんなことしなくても、筆記用具なら、班長に申し出れば用意してくれるんだ」
戸田は、早まったことをしたと気づいたらしく、口をへの字に歪ませた。
「そりゃ悪いこたとわかってるさ。だがな、ここは国境の最前線部隊だぜ。鉄砲すらろくすっぽ射てねえ俺が、これから、イの字の手習いをはじめるから、紙と鉛筆をくれなんて、いまさらこのツラ提げて言えた義理かよ。その前に、兵隊のいろはを覚えろって、鼻で嗤われるだけだ」
菊地は肚で苦笑した。そうかも知れない。戦争の渦中に置かれていつ死ぬかわからぬ者に、いまさら学問など無用の長物である。戦って死ぬ捨駒でありさえすれば、それでこの男の存在は足りるのである。善悪の意識が未完成のまま今日に到っている男でも、恥辱心だけは他の誰よりも一人前のようである。
「どうしたもんかな……」
と、菊地は思案した。
「ただの兵隊間でも面倒になるのに、下士官や隊長だと、お前、尚のこと面倒だけでは済まんぞ」
「もうやっちまったんだから、仕方ねえだろ」
「言訳はどうでもいい。事が発覚する前に、それをすぐに元の場所へ返して来い。たかが紙と鉛筆一本のことで、お前は、野獣の棲むあのジャングルの営倉に入りたいのか」
菊地は、眼前の密林に顎をしゃくった。
「厭だね俺は。この期に及んで、くだらん面倒に巻きこまれるのは御免だ」
菊地はそれだけ言うと、足早に兵舎に戻って行った。
残された戸田は、菊地の後姿に白い視線を送っていたが、すぐに考え直したらしく、菊地とは反対の営庭へ跳び出して奥田を探した。
その奥田は、朽ち果てた厩舎の陽蔭で、仲間と談笑していた。
戸田も、暫くその輪に交じっていたが、やがて顔を真赤に染めて、ブツブツ小言を呟きながら菊地のところへ戻って来た。
「あの野郎、盗み出すよりも返すほうが難しいから、元に戻すのなら、今度は煙タ二箱出せとぬかしやがった。コソ泥の強欲野郎だ、あいつは!」
と、白眼を剥いて唾を吐き棄てた。
「あの野郎とは、もう金輪際口をきかねえからな、憶えてやがれ!」
戸田も戸田なら、奥田も奥田である。互いに姑息なだけで罪悪感がまるでない。
「煙草ぐらいでくだらん悶着を起こすな。煙草が必要なら俺のをくれてやるよ。言い出しっぺは俺だからな。紙と鉛筆は俺が用意するから、面倒が起こらんうちに盗んだ物を元の場所へ戻すんだ」
菊地は、私物箱から封を切っていない二つの軍用煙草を取り出して戸田の手に握らせると、肩を軽く叩いて笑った。
「お前はさっき言ったじゃないか。俺たちは一蓮托生だってな。だから、なにをするにも、俺たちはお互い助け合えばいいんだ」
戸田は、菊地の言葉で幾分気持を鎮めたようであったが、割り切れない気持ちはまだ拭いきれていないようで、一点を睨むように眼を尖らせていた。見えぬ壁の向こうで、うまそうに煙草を吹かしながら談笑している奥田に、立てている腹がまだ納まらずにいるのである。
「……ったく、野郎に頭を下げるのは癪だぜ」
一方の下士官室では、自分の私物が盗まれているとも知らずに、会田伍長一人が爆睡していた。
黒木伍長が炊事場へ出向いているため、会田と澤来の二人は居室にこもって、兵隊が手作りした将棋で暫く向かい合っていたが、負けつづきの会田が嫌気を差して、久し振りの骨休めだから昼寝をきめこむと言い出して寝台に横になった。このため、澤来は日光浴のつもりで居室を出て、舎後の物干場の陽当たりのいい場所に腰を下ろして、眼の前に展開する国境線の湿地帯を眺めるでもなく見つめて、いつしか行方知れずとなった妹を偲んでいた。奥田が下士官室に忍びこんで紙と鉛筆を盗み、それを再び元の場所に戻したのはこの間のことである。
その日光浴を貪っている澤来には、少し齢の離れた姉と二つ違いの妹がいた。小作人の長男として生まれた澤来の家は、その日の食う米さえも事欠くほどの困窮農家であった。そのために父は、一家を養うために農繁期以外は銀山へ出稼ぎに出て、一家を辛うじて養っていた。だが、やがて過酷な労働が祟って臥床の身となり、遂には一家を支える力を失ってしまった。
澤来の姉は、家族を護るために、父親の代わりとなって銀山の選鉱場へ出て懸命に働いた。
だが、日当五十銭の賃銀では一家五人が食うのさえままならず、滞納している父親の医療費と小作料などはとても払う余裕などなかった。その上、不運なことに、その年は東北地方一帯が未曾有の大飢饉に見舞われたために、それでなくとも貧窮しているところへ不作が追い打ちをかけ、姉はそれを補うために、仕方なく身を売って家を出た。身を売ったかねは、しかし、小作料と滞納している父親の医療費を清算すると殆ど残らず、姉が送ってくる僅かな仕送りだけではとても一家を支え果すことはできなかった。
貧窮生活者の歯車は、脆くて不安定である。一つ回転が狂えば、誰かが救援してくれなければ自力での恢復は殆ど不可能に近い。したがって不幸への顛末は、そのまま奈落の底へと連鎖する。
澤来の一家もその例に洩れず、長女になにが起こったのか、唯一頼りとする送金すらも途切れがちになり、遂には行方すらも不明となってしまった。
このため、窮乏のどん底に喘ぐ母親は、生き延びる手段として、十歳を迎えたばかりの幼い息子を東京の商家へ丁稚奉公に出した。病に臥した夫と育ち盛りの次女を養うには、まだ親の庇護が必要な長男でさえ、僅かな金と引換にしなければならないほど、一家は生きる手段を見失っていたのである。
家を出された澤来は、しかし、幸運であった。後継の一人息子を幼くして亡くしている奉公先の店主は、澤来が素直な性格で聡明であったせいか、澤来を我が子同然のように可愛がって人並みの教育まで受けさせ、澤来の給金をそっくり郷里へ送金することを怠らなかった。
それでも澤来の家は困窮からは救われなかった。唯一残されていた次女も身を売られた。そして、その音信すらもやがて姉同様に途切れがちとなり、歳月は、少しづつ妹の影を薄くして、遂にはこれも消えてしまった。
娘たちの相次ぐ音信不通は、病に臥す夫を抱えた母親にとっては、それは、まさに死の宣告を受けたに等しい仕打ちであった。前途の絶望に打ち拉がれた母親は、枯れた泪を絞りながら夫の首を絞め、自らを家の梁に縊れて夫の後を追った。
澤来が両親の訃報を知ったのは、店主が毎月送り届けている郵便為替を郵便配達人が届けた際にその死が発覚し、郵便物の発送先を調べた警察から店主に家族の身許紹介が行われた結果であった。
その故郷の家は、いまは朽ち果てるにまかせたまま、堆高く積もった雪のなかである。
それと同じ雪が、あの日も降っていた。
そう。忘れもしない昭和十一年二月二十六日、その日は東京市一帯が珍しく大雪に見舞われて、市中が白銀の世界と化した朝であった。
このとき澤来は十五歳、奉公に上がってから、ちょうど五年の歳月が流れていて、澤来にとっては、忘れ得ぬ特別の日が重なった一日でもあった。その特別な日を与えてくれたのは、澤来を我が子のように育成している店主の常盤屋宗治郎であった。
常磐屋宗治郎は、その前夜に、澤来を居間に呼びつけて、翌日に予定している所用の随伴を、こう言って命じたのである。
「お前の教室の担任の話では、お前は勉強がよくできるという話だ。この分なら上の学校へ進むのも困難ではないそうだが、それはいいとして、いずれにせよ、将来は私の右腕となってこの店をやって貰わなければならない。したがって、これからは商いを憶える必要がある。それには若い内から、市場や取引先の人品を観察しておかなければならない。明日私は竹馬の友であり、店には不可欠な大事な人物と会うことになっているから、お前も同席して、その人の人品と事業に対する造詣の深さを学びなさい。平日の登校日だが、なに一日ぐらい学校を休んでも、お前の成績には影響はあるまい」
と、いうことから、澤来は、店主に随伴して、赤坂附近の小料理屋へ向かって歩いていた。
昨夜来から降りつづけていた大粒の雪は、夜が明けたときには小雪に変わっていた。
九段下の店からそこへ行くには三宅坂を通らなければならない。だが、そこに近づくにつれて、辺りが異様な雰囲気に包まれているのに気づいた。
いつもなら、周辺は、商人や御用聞きで賑わう時間である。それが、大雪が降り積もったせいか付近は閑散としていて、なぜか武装した兵隊が目立ちはじめたのである。
最初のうちは、街頭演習でもするのであろうかと軽く考えていたが、それにしては様子がおかしかった。どれも完全武装で身を固め、建物の要所や街角には土嚢を積み上げて武装兵が立ち、高い建物の屋上には機関銃が据えられていて、どの兵隊も尋常とは思えぬ緊迫した殺気を帯びた眼をしているのである。澤来が識るこれまでの街並では、このようなことは一度もなかったことである。
もしかすると、この近辺になにか重大な事件が起きたのかもしれない。
そう思いながら、物々しい完全軍装の兵隊を横眼に通り過ぎようとしたそこへ、
「停まれ!」
と、土嚢の蔭から、突然、一人の兵隊に誰何された。
「お前ら、どこへ行くんか!」
と、険しい顔で進み出た兵隊は、二人に小銃の剣先を突きつけて威丈高に呶鳴った。
「私どもは、人と会う約束をしておりまして、この先の小料理屋へ出向く途中です」
宗治郎がそう答えると、兵隊のうしろから下士官の軍曹が出て来て、
「この先の料理屋とはどちらですか?」
と、これは慇懃に訊いてきた。
下士官にしては穏やかで、軍人としての節度を一応保ってはいるが、相手の眼が異常に血走っていることから、これは普通の状態ではないことを、宗治郎は敏感に感じ取っていた。
「赤坂の菊乃という店ですが」
宗治郎がそう答えると、軍曹は、
「許可してあげたいが、これより先は何人も通行できません。迂回も駄目です。引き返しなさい」
と、通行を拒絶した。
宗治郎が理由を確かめると、
「自分は答える権限を持ちませんが、一つだけ言えることは、この近隣の施設の利用と通行の一切は、師団司令部によって禁止されているということです」
と、軍曹は答えた。
この一帯が全面封鎖されているということは、一般人には知られたくない、なにか重大事が起きた証拠である。少年澤来の胸に冷たい風が吹き抜けた。なにかわからないが、途轍もない怖ろしいことが起こったにちがいないのだ。
「兵隊さんの指示に従って、ひとまずお店へ帰ろう」
宗治郎は、仕方なくその場を引き退がった。
「……何事が起こったのでしょうか?」
と、澤来は、慄える声を抑えて、前を行く店主に訊ねた。
「……何事かは知らないが、あの不穏な空気からすると、街頭演習でないことだけは間違いなさそうだ。ただし菊次郎、そのようにキョロキョロして歩いては駄目だよ。変に挙動を疑われると面倒だからね」
宗治郎の声も幾分踊っていた。
「……それにしても、あれは近衛の兵隊だが、天子様の股肱たる部隊がいったいどうしたことだろう?」
と、独りごとのように言った。
天皇を擁護する軍隊が、あのような完全武装でどうして出動しているのか? 深い疑念に包まれながら、常盤屋宗治郎と澤来菊次郎の二人の脚は急ぎ足になった。
この二人は、近衛師団の青年将校以下千数百名が、昭和維新断行の下に、たったいま首相官邸や元老重臣の私邸及び警視庁などを襲撃占拠し、国家顛覆を謀ろうとした血生臭い叛乱軍であることなど知る由もなかったのである。
深々と降り積もった雪を踏み締めながら、約束を果たせないまま、二人は帰路を急いでいた。
暫くして一台のトラックが、二人の前方から迫って来た。
トラックは、滑るように二人の横で停車して、助手席の男が顔を出して宗治郎を気さくに呼び止めた。
宗治郎もその男とは顔馴染みらしく、菊次郎をその場に残して男に歩み寄り、たったいま見てきた状況を説明した。
トラックの荷台には、十四五人の女たちが、毛布に身を包んで身を寄せるように坐っていた。それが遊郭の娼妓であることは、十五歳の少年にもすぐにわかった。
そのなかの一人が、突然、はじけるような声を上げた。見上げると、娼妓にしてはまだ若すぎる少女が、溢れんばかりの涙を浮かべて、荷台のあおり戸から顔を突き出した。
菊次郎は、それが誰であるか気づくまでに二呼吸ほどの間を必要としたが、すぐさま驚きの顔に変わった。
「……おめ、サワでねえか!」
そこにある顔は、もう逢えないものと諦めていた妹が、可憐な唇を震わせているのである。
「菊あんちゃん!」
声を殺すように、妹がか細く答えた。
長い空白の時間が、瞬時にして繋がった衝撃的な瞬間であった。この世に、もし神や仏の慈悲があるとすれば、まさにこれであった。驚きと喜びが同時に衝き上がって、菊次郎の胸は烈しく踊っていた。
「……元気だったか?」
これだけの会話を交わすまでに、兄と妹の眼には、互いの姿が霞むほどの涙が溢れ出ていた。
菊次郎は、荷台のあおり戸を握り締めている妹の冷えきった手を取り、自分の手袋を妹の手にはめてやった。
「暖ったけぇなァ……」
と、サワは、冷えきった頬を押さえて歓喜の声を上げると、兄の手を握り返して涙の筋を重ねた。
菊次郎も、溢れ出る涙を拭おうともせず、仰ぎ見る妹の顔にうなずいた。
「おっがやおっどは、あんちゃん、どうしてるだ? 元気にしてるだか? オラとこは厳しぐて、便り一つ出せねえから、さっぱりわがんねんだ。教えてけろ。おっがもおっども、みんな達者でいるだか?」
菊次郎は、妹を見つめたまま、小さくかぶりを振った。
「……おっがも、おっども、死んだ……」
「えっ!」
と、短い愕きと同時に、サワの美しく成長しようとしている白い肌が、雪のそれよりも白くなった。
「仕方ながったんだ。おっどは病気で寝たぎりだし、おっがはおっどの看病でろくに働けねえべ。したから田んぼは当然巻き上げられるべ。おめやオラの仕送りだけじゃ満足に食えねえ、薬も貰えねえ。……だから、二人して弥勒様のとこさ逝ったんだ……」
サワは、小さな体を小刻みに慄わせ、声を押し殺して嗚咽した。
苦境に満ちた父母を憂い、小さな蕾を売ってまで救おうとした父母の訃報に、サワの胸は、悲しみと絶望で張り裂けそうであった。
荷台の女たちは、それを、冷ややかな眼で見つめていた。悲劇に対する感情の涙などは、とっくの昔に枯れてしまっているのである。
菊次郎は、学生服のポケットから四円ばかり入った蟇口を取り出し、自分の首に捲いている毛糸の襟巻と一緒に妹の手に握らせた。
「ことしの冬はしばれる寒さつゥだから、これつけてろ。腹さ減ったらな、いくらも無けんど、このかね使え。体さ壊すでねえど」
サワの眸から涙がしとどに溢れ出た。
「それにしても、おめ、こんなトラックさ乗って、どこさ行ぐ気だ?」
「お姉ちゃんが言うには、満州の新京つゥ話だ」
「新京? 随分と遠くだべさ」
「満州の日本は、これから大ぎくなるつゥ話だ。だから、オラもそこさ行って借金返すだ」
サワは、か細く答えた。
そこへ荷台の奥から古参風の妓が顔を出して、小声で注意した。
「もうそのくらいにしておきな。それ以上喋ると、あとで父さんにどやされるよ」
そう言って菊次郎に声を落とした。
「学生さん、あんた、この子のお兄さんかい? せっかく逢えたってのにね、可哀想に。この子は、あんたに逢いたがっていたんだよ。でも、あたしたちの商売は世間様とは畑違いだろ、居所がわかっていても、簡単に逢いに行けないんだよ。だから許しておあげよ。……でもよかったじゃないか、ここで逢えただけでもさ、これもお天道様のお導きだと思えば、ね……」
妓は、それだけ言って自分の場所へ退き下がった。
「おめ、苦労さしてるんだな……」
サワは、哀しげな微笑みのなかで兄を見つめて、小さくかぶりを振った。
「借金が済むまでの辛抱だ。それまでは苦労と思わねえことにしてるだ、心配にゃ及ばねえ」
「いまのオラはなんもできねえけんど、いつか必ず満州さ行っておめさ訪ねて、オラが身請けしてやる。それまで頑張んねばなんねえど……」
あとは、胸が詰まって、声にならなかった。
「あんちゃんに逢いたがった。きっと、おっどとおっがが逢わしてくれたんだね。あんちゃんが常盤屋にいること知ってたけど……でも、逢えてえがった。ほんとにえがった。あんちゃん、元気そうだから……」
サワの言葉が終わらぬうちに、荷台がガクリと揺れた。店主の宗治郎とトラックの男との話が終わったのだ。
「あんちゃん!」
「満州だな? きっと新京だな! オラが必ずおめさ迎えに行ぐから、それまで辛抱して待ってるんだぞ! きっと、きっとだぞ!」
十五歳の少年は、握り合った手を放すまいと、懸命に走りながら叫んだ。
「あんちゃん!」
握り合った兄と妹の手は、トラックの無情な速度に追いつけずに、とうとう引き離されてしまった。
二人の泣き叫ぶように交わす声に、店主が事態を呑みこんだようである。慌ててトラックを呼び止めたが、トラックは、声の届かぬところで迂回路を見つけて、皇居お堀端方面へ走り去ってしまった。
菊次郎は、それを泪のなかで見送っていた。もう二度と逢うことのない妹との束の間の再会は、こうして終わりを遂げた。
「サワ……」
と、細く呟いた澤来は、国境線の天空を見上げて、この陸つづきの空の下のどこかで、妹が無事に生きていてくれることを、胸の内でそっと希った。
唐櫃部隊を実質的に掌握している本郷曹長は、望楼の脇の斜面に腰を下ろして、徐々に揺らぎつつある静謐確保の行く末を案じつつ、二年兵になった当時に経験した、満州と外蒙古の国境線を巡って戦闘が繰り広げられた、凄惨なノモンハンの平原での戦場を思い起こしていた。
極東ソ連軍の強大な火力の怖ろしさを、そのとき、身をもって体験している本郷は、再びソ連軍と会戦になれば、いまの関東軍がどれほど精強を誇ったとしても、今度ばかりはノモンハン以上のものになるだろうと、腹の内では絶望的観念に囚われていた。
なぜならば、その証明が、かつて所属していた部隊の陣地に据えられた丸太の擬砲であった。あのノモンハンの戦闘で屈辱的大敗北を帰しているにもかかわらず、関東軍首脳部は肝腎な火砲を他方へ転出し、しかもいまだに装備を補強しようとはせずに、無意味な白兵主義を唱えつづけている。戦争を勝ち抜くためには、歩兵・砲兵・戦車・飛行機の協同は不可欠の条件である。その条件が満たされない状況で、歩兵部隊のみを戦場に投入したところで、所詮は寡兵に大敵、蟷螂の斧の譬えである。どれほど力んだところで、勝機など掴めるはずがないのである。ノモンハンの戦いは、戦闘ではもっとも重要な、その歩・砲・戦・飛の圧倒的敵の戦力によって惨敗したのである。
「くだらん負け戦ばかりしやがって!」
本郷は舌を打った。
太平洋戦争の開戦劈頭では、日本は圧倒的に強かった。帝国陸海軍は、太平洋、東南アジア全土を破竹の勢いで制圧し、向かうところ敵なしで南方を攻略して太平洋上に大日本共栄圏を築いたのだ。それが、僅か数年にして、太平洋の島嶼やアジアの要所を失陥してこの有様である。軍需物資が吃緊の問題となったいま、どう見積もったところで、ソ連軍と会戦となったならば、関東軍は間違いなく瓦解するだろう。自分たちが生き残る見込みは、どう見積もっても、九牛の一毛もなさそうであった。
本郷は、陣地の正面に拡がる敵前地帯を見つめて、あのような熾烈な戦闘が再び起こらないことを希いつつ、そのときの屈辱的な敗北を帰した戦場を想い起こした。
そのノモンハンは、こうして惨敗したのだ!
昭和十四年(一九三九)五月十一日、外蒙古兵十数名が日本側の主張するハルハ河(中国西北辺に位置する外蒙古との国境線)を越境侵犯したのを、当時の満州国軍(のちの関東軍)がこれに攻撃を加え、外蒙古軍を撃退したのが事件のはじまりであった。
第二十三師団長の小松原道太郎中将は、外蒙古軍の侵入を阻止するため、師団捜索隊(長は東八百蔵中佐)を編制して出動させ、国境線をハルハ河の東側と主張する外蒙古軍と烈しい戦闘状態となった。
戦闘は、長期泥沼戦と化して、烈しさを増していった。強靭な抵抗を繰り返す外蒙古軍に対して、小松原師団長は焦りを覚え、同年七月に早期決戦を唱えて大々的な攻勢を外蒙古軍にかけたが、そこへ当時外蒙古軍と同盟関係にあった極東ソ連軍がこれに参戦し、航空機併びに重砲と圧倒的火力を装備した機甲部隊を主力とした兵力を総動員してホロンバイルへ侵攻し、迎え撃つ日本満州国軍に対して猛攻撃を開始した。これにより第二十三師団は、健軍以来未曾有の打撃を蒙る結果となって大敗北を帰すのである。
その損害状況は次のとおりである。
歩兵第七十一連隊全滅。歩兵第七十二連隊全滅。捜索第二十三連隊壊滅。軽重第二十三連隊壊滅的損害。野砲第十三連隊全滅。工兵第二十三連隊全滅という状況であった。これは第二十三師団固有部隊のみの損害であり、他の参加部隊を含めると、日本軍の損耗率は八十㌫を越えるという、文字どおり壊滅的惨状であった。
全滅、あるいは壊滅的損害を蒙った各部隊のその後を見ると、初代連隊長岡本徳三大佐は、ソ連軍の砲撃により戦場で右脚切断の重傷を負い陸軍第一病院へ後送されたが、岡本大佐の同期に同病院内で斬殺されて悲惨な最期を遂げ、二代目連隊長の長野栄二大佐は、戦場で重傷を負って後方に移送されたが、それを引き継いだ三代目森田徹大佐は戦死、さらにそのあとを引き継いだ連隊長代理の東宗治中佐は、同年八月三十日、軍旗奉焼後に残存兵を引き連れ、最後の突撃を敢行して壮烈な戦死を遂げている。
歩兵第七十二連隊では、連隊長の酒井美喜雄大佐が詰め腹を切らされた。彼は、ノモンハン停戦協定成立後の同年九月十五日、戦傷で入院しているチチハル陸軍病院で敗軍の責任を取らされ、無念の自決を強要されたのである。
捜索第二十三連隊長の井置栄一大佐は、部隊全滅の直前に無電機を破壊され、師団司令部との連絡が不通となったため、残存兵を一時撤退させた責任を問われ、同年九月十六日、酒井大佐同様自決を強要されて果てた。
野砲第十三連隊の伊勢高秀連隊長は、同年八月二十九日、野砲が激戦で全壊し、部隊は全滅状態となり、自ら敗軍の責任を取って戦場で自決した。
戦争というものは、軍国に忠誠を尽くす者が馬鹿を見て、中央で胡座をかいている者が得をするようにできている。ソ連の強大な軍事力の脅威を知っていながら、軍中枢は、尚もソ連に対する火力の過小評価と優柔不断な作戦を現地部隊に強要し、それによって、夥しい将兵が無意味な犠牲となっているにもかかわらず、軍首脳部はこれを些かも反省することなく、その後も軍備に関して再検討することも修正を加えることもせずに、事件を永久に闇へ葬り去ろうとしたのである。
多大な将兵の犠牲を出したノモンハン事件は、ひとまず停戦し、あらためて国境線を画定するまで停戦時の国境を越えないことを条件に、一応の終息を果たした。
多くの将兵や連隊長級の高級将校が戦死や敗戦の責任を負わされて自決しているのに、ノモンハン事件の遂行者であり、師団の最高責任者でもあった小松原中将は、ノモンハン停戦協定成立後に一応敗戦の責任を問われはしたものの、なぜか予備役に降格されただけで生き延びている。これがノモンハン事件の梗概である。
ここで、時間をそのときの本郷が体験したノモンハンの戦場に戻してみる。
入隊二年目の本郷一等兵の所属する中隊は、ハルハ河を越えたホロンバイルの平原に割当られた守備陣地に蛸壺を掘って敵を迎えた。
戦闘は、ソ連軍の一方的な空爆からはじまった。爆撃による熾烈な攻撃は、天空を一瞬のうちに暗黒に塗り替えたほどであった。
一頻りつづいた空爆のあとは、陸からの凄まじい砲撃が開始され、そして、その止めに平原の地平線に現れたのが、戦車の大軍団であった。
無差別とも言える戦車の砲撃も熾烈をきわめていた。
大地を轟音で抉り、人間の肉体を塵のように吹き飛ばして死屍累々たる大地を血で染め、、ホロンバイルの草原を、文字通り死山血河と化した。
本郷は、はじめて見る敵戦車の威力の凄さに度肝を抜かれ、ただ蛸壺に体を跼めて恐怖に怯えるしかなかった。
ノモンハンの戦場は、戦う前に既に終わっているようなものであった。友軍部隊は、敵の激烈な砲火に、成す術もなく叩かれっぱなしであった。
蛸壺の上では、驟雨のように飛び交う兇弾が唸り声を上げ、砲弾は無差別に地響きを立てて炸裂していた。そのたびに、蛸壺が激震して、夥しい土砂が、蛸壺に潜んでいる本郷に降り注いできた。少しでも頭を出そうものなら、粉微塵に頭鉢が砕かれそうな勢いであった。
本郷は焦った。後方からの友軍の砲撃の援護もなく、こう一方的に叩かれるということは、既に友軍の砲兵隊は全滅しているか、それとも反撃できぬほどに潰されてしまったかのいずれかにちがいないと思った。もしそうなら、もう自分の身に死が差し迫っているという証明である。
頭上が少しでも鎮かになると、本郷は、蛸壺から頭を恐々と持ち上げて辺りをうかがった。両翼の蛸壺の戦友が果敢な応戦をしているのがわかると、胸を撫で下ろしてすぐに蛸壺へ頭をすぼめた。仲間が生きているということは、いまは、取りも直さず、自分も生きていられることの証でもあった。
その安堵も、しかし、束の間であった。砲撃はますます烈しくなるばかりで一向に熄むことはなく、砲弾は、短い悲鳴を上げながら所構わず炸裂しまくった。至近で凄まじい爆発音が起こると、蛸壺が体ごと跳ね上がって夥しい土砂を被った。本郷は、泥まみれになるにまかせて、蛸壺のなかで、ただ怯えるよりほかに術を亡くして慄えていた。
炸裂する砲弾の激震で、蛸壺が徐々に形を崩しはじめた。人類の寄りつかない大自然の土は、殆ど砂地で軟らかいのだ。このまま砲撃がつづけば、この蛸壺は、間違いなく、自分を地獄の淵へ押し出すにちがいなかった。
本郷は気が気でなくなった。蛸壺は、既に膝まで埋まっている。この蛸壺から一刻も早く抜け出さなければならない。焦りを覚えた本郷は、咄嗟に移動を考え、砲撃の間隙を計って腰を上げた。
そのとき、またも至近で凄まじい爆発が起り、爆風をもろに受けた本郷は、土砂とともに蛸壺に叩き落とされてしまった。幸運にしてどこにも怪我はなかったが、これではへたに動けば危険である。そう悟った本郷は、もう決して動かないことをきめて、蛸壺の外で吼えまくる爆音に怯えつづけた。
やがて、砲弾の飛翔音は、頭上高く、尾を曳くように唸りはじめた。至近弾なら、低く鞭で風を切る短い悲鳴である。このことは、砲弾は後方に向けられたということであり、この至近には砲弾の落ちて来る気配がなくなったということでもあった。本郷は、砲弾が向きを変えたことで、もしかすると、これで助かるかもしれないと思った。
本郷は幽かな笑いを浮かべた。
もうここには落ちない。無修正で撃たれない限りは、同じ場所には落ちないはずである。砲弾は、取るに足らぬ自分の蛸壺など、眼もくれずに方角を変えたのだ。そう思うと、血の気が引いた体に熱い血が流れはじめた。砲弾の向かうその先で、ここと同じような惨劇が繰り広げられているとしても、いまの本郷にはかかわりのないことであった。
本郷は、蛸壺からそっと頭を上げて周辺をうかがい視た。
そこでは不思議なことが起こっていた。正面に展開していた戦車群が、自分たちの蛸壺を避けるかのように両翼へ散開しているのである。黒い集団が、まるで金魚の糞のように戦車の後部につづいていた。
本郷は痴呆のように笑った。
脅威が、いま、まさに本郷の眼前から消え去ろうとしているのである。戦車群は、どうやらこちらの陣地をやり過ごしたらしいのだ。
誰かが頻りに叫んでいた。声のほうに視線を送ると、斜めうしろの蛸壺から、同年兵の小坂一等兵が手を大きく振って喚いていた。砲弾の炸裂音で耳鳴りが激しく、声が遠くてよく聞き取れなかった。
小坂は、自分の銃に指をさして、頻りに手を左右に振っていた。
――銃が故障したのか?
と、本郷はそう解釈して、小坂の真似をして両手で×をして見せたが、小坂は顔を大きく振って、本郷にまた手招きをした。
意志の疎通を欠いたと判断した小坂は、今度はゆっくりと二三度銃に指をさし、拇指と人差指を挟むように示してから、銃の槓杆を引いて、人差指を薬室にさして手を左右に振った。
「タマ……弾をくれ!」
聞こえなかった。
聞こえなかったが、小坂の手振りで、それがなにを意味したものかを察した。本郷は薬盒から五発入りの挿弾子を取り出して、それを小坂に見せた。
小坂は大きくうなずいて、
「くれ!」
と、手をしゃくった。
本郷は一瞬躊躇した。小坂にやれば自分の実包が減る勘定となる。射たなくても、持っているほうがやはり心強いのである。
本郷は、一度は顔を横に振ったが、すぐに頭を大きく縦に振った。考え直したのだ。小坂が射っているあいだは彼は生きている道理である。援護は心強いのだ。
本郷は、十五発の実包を二度に分けて小坂の蛸壺に投げた。最初の十発は、これは小坂の蛸壺に直接入った。次のを投げようとしたとき、気紛れな砲弾が近くで炸裂して本郷の手許が狂った。実包は、小坂が少し背伸びをして手を伸ばせば摑めるほどの場所に落ちた。
小坂は、ちょいと挙手をして白い歯を見せると、蛸壺から身を乗り出した。
それを本郷が制めた。
「やめろ、小坂! 殺られるぞ!」
正面で反転している最後列の戦車が停止して、こちらへ向けて砲身を振りはじめたのである。
小坂は、それでも実包を拾おうとして、蛸壺から身を乗り出した。
そのとき、突然、至近弾が轟音を発して大地を激震した。爆風は、本郷の体を再び蛸壺へ叩きつけて、本郷の意識はそこで消えた。
長い時間眠ったらしい。眼覚めたときには戦闘は終熄していて、西の地平線のそこには、ぶよぶよと揺れる赤い夕陽が落ちようとしていた。
本郷は、戦闘間の記憶を整理しようとしたが、頭のなかが混乱しているせいで、すぐには纏まらなかった。
遠くで砲声が聞こえていた。まだ、どこかで戦闘がつづいているようであったが、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく、命だけは助かったらしいのだ。
本郷は、水筒を抜き取り、泥まみれになった顔と霞んだ眼を洗って口を漱いだ。肉体のどこにも痛みや出血がないのは無傷なのである。耳の奥では何千もの虫が一斉に喚いているような耳鳴りがしていた。僅かに残った水筒の水を飲み干すと、蛸壺を抜け出して周辺をうかがい視た。
その途端に本郷は息を吞んだ。見渡すそこは、全身が総毛立つ惨状なのである。今朝までは広漠としていた平穏な原野が、まるで、この世で起こったものとは思えぬ地獄絵図と化していて、随所に砲弾の弾着痕跡が口を開き、血を吸った大地には、首や手足を捥ぎ取られた夥しい屍と人肉片が散乱していた。
本郷は陣地を見廻したが、そこには仲間たちの姿はなかった。意識を失っているあいだに、自分は戦死したものと思われて部隊は移動したらしかった。
本郷は、すぐうしろに控えていた小坂の蛸壺に眼を向けたが、そこは土砂で半分ほど蛸壺は埋められて小坂の姿もなかった。小坂も自分が戦死したものときめつけて、部隊とともに移動したのであろうと思いつつ、自分たちの至近で砲弾が炸裂した場所に視線を落とした。弾着は、本郷と小坂の中間で口を開けており、僅かながら小坂の蛸壺側で炸裂しているように見えた。この僅かな差が、小坂と本郷の命運を分けたことなど本郷は知る由もなく、それをぼんやりと見つめて、天は、自分たちをまだ見捨ててはいないのだと思った。
本郷は、いまだ硝煙の漂う死屍累々たる戦跡のなかを、小銃を曳き擦りながらよろめくように歩き出した。
十五六歩ほど進んだところで、曳き擦っていた小銃の負革になにかが引っかかり、足を取られて危うく砲弾の弾着跡に滑り落ちそうになった。視ると、屍兵の手に、自分の小銃の負革が引っかかっていた。
本郷は、その手に絡んだ負革を外そうと、片膝をついて屍兵を見た。それは移動したはずの小坂であった。
小坂は、眼を見開いて、方向違いに右の手をいっぱいに伸ばして、なにかを摑もうとしている恰好のままで死んでいた。胸部から下がそっくりないところを見ると、砲弾で引き裂かれて上部だけがここまで飛ばされたのだ。ほんの五六メートルの同じ場所にいた自分は、掠り傷一つ負わずに生き残ったというのに、小坂は、たった五発の実包のために、いとも簡単に戦場に臥す屍と化したのだ。
本郷は、逃げるようにその場を離れた。小坂の見開いた眼が、戦わずして生き残った自分を責めているような気がして、怖ろしくなったのである。
小坂がこの有様なら、もしかすると、自分の原隊は全滅しているのかもしれない。もしそうなら、俺はどこへ行けばいいのだ!
途方に暮れた本郷は、それでも、あるはずのない原隊を求めて、血生臭い戦跡をさまよい歩いた。軍隊以外帰る宛てのない兵隊の、哀しい帰巣本能がそうさせるのである。
本郷は、屍山血河と化したホロンバイルの原野を、友軍の屍を踏み越え、喘ぎながら原隊を求めて歩いた。歩きながら、小坂を死なせた罪の意識に嘖んでいた。戦友たちが果敢に戦っているさ中に、独り蛸壺の底で、一発も射たずに慄然としていたのである。あの見開いた小坂の眼が脳裏から離れなかった。血塗られた大地のそこに転がっている手や頸や死体が、自分に対する呪いをこめて、むくりと起き上がって来そうであった。お前が臆病だったために、死なずに済んだはずの奴が死んで、お前だけがのうのうと生き残ったのだぞ、と、言わぬばかりに。
本郷は、擦り切れてしまった魂を曳きずりながら泣いていた。
――戦友たちよ、俺を怨むがいい。俺は臆病で、腰抜けで、卑怯者だ。それは認めるよ。謝るから、どうか俺を責めないでくれ……。
悪夢を振り払うように顔を烈しく振って、大声で狂人のように喚きたい衝動に駆られた。そうしないのは、敵を警戒するだけの分別がまだ残されているのだ。
本郷は、重い足を引き摺り、頸をガクガクと揺らしながら歩きつづけた。一発も射っていないというのに、肉体も精神も、ズタズタに引き裂かれたようであった。
――部隊は? 俺の原隊はいったいどこなのだ!
辺りを探るように見廻すと、先程までぶよぶよと揺らめいていた赤い夕陽は、平原の向こうへ姿を隠していた。累々たる友軍の死骸を照らす幽気的な残光は、本来ならば、背筋を凍らせるほどの情景である。それなのに、茜色に染まったそれらの光景がこれほど美しいと感じるのはなぜなのか? その答えは、おそらく、死の恐怖を潜り抜けた人間でも出せないかも知れない。
誰かが、自分を呼んだような気がして周辺を見廻したが、どこにも生きている者はいなかった。人の声がしたのは、気のせいでも、風の悪戯でもなさそうであった。遠いところで炸裂する断続的な砲弾の重い炸裂音が、聞きようによっては、人の叫びや呻き声に聞こえるのである。どこかで、まだ無益な戦闘が執拗につづけられているのだ。
頻りに喉が渇いた。屍兵の残した水筒を片っ端に漁ってみたが、銃弾で射ち抜かれていたり呑み干していたりして、どれも空になっていた。
諦めて歩こうとすると、すぐ近くに光るものがあった。見ると、砲弾の弾着痕の傍で、レンズが割れて枠の歪んだ丸眼鏡が転がっていた。そのレンズの欠片が、落ち行く残光に反射したのだ。
摺鉢状に抉り取られた弾着痕の縁には、小銃を握り締めた両腕が敵前を睨んで構えられていた。腕と小銃の位置から判断して、そこは蛸壺である。この腕の持主は、直撃弾を受けて、両腕だけを残してあとは瞬時に粉砕されたのだ。誰だかは永久にわからないが、眼鏡は、おそらくこの腕が持主なのであろう。
本郷は、それらをぼんやりと見つめて思った。
この眼鏡も、小銃も、自分の分身としてなによりも大切に扱われたにちがいなかった。小銃は敵を殺すための役目を確実に果たし、眼鏡はレンズの破片となるまで持主の視力を保護し、これまでの主従関係に報いたのである。
本郷は、転がっている眼鏡を拾って、腕だけとなった持主の小銃の上にそっと置いた。これがなければ不便であろうと気遣ったのである。
本郷は、西の空をかえり見た。茜色だった太陽は、地平線からは完全に顔を落としていた。急がねば、原隊を探すのが困難になる。
本郷は急ぎ足になった。だが、感覚では急いでいるつもりでも、疲労に加えて空腹と喉の渇きで歩幅は短くなるばかりで、歩く速度よりも太陽のほうが早く落ちて行った。
薄暮の向うに、分隊単位の日本兵が揺れ動いていた。
本郷は、その群れに、磁石に吸い寄せられるようにユラユラと歩み寄った。
「……自分は、七十一連隊第二大隊第三中隊の本郷一等兵であります。どなたか、自分の原隊を知りませんか? 原隊は、第三中隊はどこでしょうか? ……水を……水があったら、少しくれませんか!」
本郷は、泣き縋るように声をかけたが、応える者は誰一人いなかった。どの兵士も傷つき、疲れ果て、魂の抜け殻となった肉体を、夢遊病者のように揺らして無表情に歩いていた。彼らとて、あの激戦のさ中に、自分の原隊を見失ってしまい、その原隊を求めて歩いているのである。
本郷は、その場にうずくまって声を殺して嗚咽した。
原隊が見つからない心細さに加えて、勇猛果敢に戦ったにちがいないこの友軍兵たちの傷ましい姿を見て、先程の小坂の顔が蘇ったのである。自分が臆病であったがために小坂を見殺しにしたようなものであった。死にたくない一心で取った行動にしては、あまりにも身勝手すぎたのだ。小坂のように勇敢に戦っていれば、小坂はあのような死に方はせずに生き延びたかもしれないのである。本郷は、自責の念に駆られて泣いた。いまさら悔やんでも帳消しになるわけではないが、あとからあとから涙が溢れ出て止まらなかった。
一頻り泣いたあと、本郷は、遠離る男たちの影とは正反対の方角へゆらりと歩き出した。男たちが向かうその先は、友軍部隊が控えているはずのハルハ河ではなく、つい先程まで国境線を巡って熾烈な戦闘が繰り広げられた外蒙古へとつづく草原であった。彼らと行動をともにすれば、原隊への合流はできないばかりでなく、確実に死の顎門へ向かうことになる。それを思考する判断力だけは、まだ辛うじて残しているのである。
本郷は、星の明かりを頼りに、殆ど無警戒に揺れ歩いた。敵と遭遇したらしたときである。そのときは、生きて虜囚の辱めを受けない覚悟である。
どれほど歩いたかは見当がつかなかった。これだけ歩いたのだから、いい加減にハルハ河に到達して友軍部隊に合流してもいいはずなのに、平原には誰もおらず、なにもなく、ただ茫漠とした大地が延々とつづいているだけである。
意識にあるのは、夕べは飲まず食わずで一晩中歩いて、二日目を迎えて、それも疲労と空腹のなかでこの日も終わろうとしているということだけである。小銃以外のものはなにも背負ってはいないのに、検閲行軍で背負う、あの四十キロ近い重装備の荷物が背中に貼りついているように体が重かった。
陽が落ちて、とうとう夜になった。
本郷は、それでも休むことをせずに、蹌踉めき、躓きながら歩きつづけた。歩きながら考えた。こんなに歩いても友軍に出会えないのは、あれほどの激戦である。もしかすると、友軍部隊は悉く壊滅されているせいかもしれない。そう考えると、俄に不安が襲いかかって来た。もしそうであれば、いまこの平原に生きているのは自分一人だけかもしれないのだ。もしそうならば、自分はもう死んだも同然である。いっそのこと、そのほうがいいとさえも思った。小坂への罪悪感も、それで晴れようというものであった。
そう考えながら歩いていると、前方の遙か向こうに無数の明かりが揺れているのが眼に入った。明かりの方位からするとあれは敵ではなく、友軍部隊にちがいなかった。
幾分生気を蘇らせた本郷は、肉眼で確認できるところまで近づいてみて愕然とした。それは友軍部隊の明かりにはちがいなかったが、戦場からの撤退部隊ではなく、戦死した夥しい兵隊を焚焼している戦場処理班であった。
爆風の砂塵と汗で汚れるだけ汚れて、廃人のようにそれを呆然と見つめているみすぼらしい兵隊を、作業中の処理班の誰かが認めたらしく、二三の人影が本郷のほうへ駈け寄って来るのが眼に入った。本郷はそこまでは記憶に留めたが、声をかけられると、一昼夜眠らずに歩いた疲労が急激に襲いかかって来て、その場に崩れるようにヘタと倒れて意識を闇のなかへ滑りこませてしまった。
眼覚めたときは、戦場処理班の幕舎であった。
誰かが自分を呼んだような気がして、本郷は現実へ引き戻された。
営庭附近でなにか異常が起こったらしく、騒々しいそのほうへ眼を向けると、営庭で男たちが棒切れや板切れを手にして右に左に走り廻っていて、なにが起こっているのか状況を掴めないでいると、そこへ会田伍長が息を弾ませながら駈けて来た。
「どうしたんか?」
と、訊くと、
「二頭の迷いノロの訪問であります」
と、会田が声を弾ませると、本郷は手を打った。
「そいつは有難い。よし、鄭重にお迎え申し上げろ」
二人が現場に駈け寄ると、ノロの一頭は逃げられてしまっていたが、仕留められた体長一メートルほどのもう一頭は炊事場に運ばれていた。
ノロとは、日本で謂うところのシカのことである。ニホンジカよりは一回り小さくて角は短く、夏は狐色の毛で覆われて、冬は淡い黄色の毛を纏って、尻には目立つ白斑がある。牡には角があるが、牝にはない。朝鮮の北部から中国北部にかけて棲息している偶蹄目科の哺乳動物である。
その捕獲されたノロジカの尻を叩いて、弘前兵長が自慢げに眼尻を緩ませた。
「いやァ牝とはいえ強敵でした。すばしこいやら、もの凄いやらなんのって、こいつを押さえるのがやっとでした」
「いや、よくやった。上出来だ」
本郷が感嘆の声を上げて、炊事掛の山地に言いつけた。
「お前は料理の達人だ。こいつを解体するくらい造作もなかろう。すぐにかかってくれ」
「まかせてください、これ一本あれば」
山地が、手にしている出刃を翳して喜色満面に受けた。