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五月に入ると、頬を撫でる風は嘘のように和らいで、長い眠りから眼覚めた名も知らぬ草花たちが、陣地一帯の其処彼処で一斉に芽吹きはじめた。
精神の捩じ曲がった蒼白くて病的だった男たちも、連日の特訓の成果が実って、顔も肉体もそこそこに引き締まり、紀多の厳しい内務教育のお蔭で、どうにか兵隊らしい規律も動作も身につけていた。
だからといって、彼らには、可憐な草花の発芽などに感心を寄せている暇などない。いつものように、営庭駈足五十周から一日の訓練がはじまるのである。
四キロの重量は、持った感触では重いとは思わないが、それでもその歩兵小銃を抱えての駈足五十周は確かに骨の折れる仕事であった。
だが、多少なりとも体力を強化したいまは、誰も顎を出す者はいなくなっていた。走りながら呼吸をととのえる要領も会得して、彼らは淡々と走った。
それが終わるころには、東の空が明け放たれて、待ち望んだ朝飯である。
哨兵たちは、しかし、のんびりと朝飯を食わせては貰えない。僅か三十分のあいだにすべてを済ませて、次なる猛訓練の準備をしなければならないのだ。
訓練は、その都度変更が加えられ、日課どおりとはゆかなかったが、午前中は主として攻撃訓練であった。
教練内容は、攻撃発起時における躍進の要領と手榴弾投擲訓練、これは模擬弾がないため、手頃な石を使用した。それが終わると、伏射、膝射、立射等々の据銃訓練に模擬標的(藁人形)による刺突訓練と対戦車攻撃の要領等々が実施され、午後は前記の反復と、締めくくりに三十キログラムを超える完全軍装を背負っての営庭百メートルの匍匐前進である。たったの五往復だが、これが、駈足で営庭を五十周するより過酷なもので、顎が出ると言うより、心臓が破裂するのではないかと思うほど辛いものであった。
訓練終了後は、各自入浴を三十分で済ませ、夕食までは兵器の手入れをし、夕食のあとは学科(軍人勅諭、典範令等の兵一般の教本)の諳誦である。これに加えて、国境警備には最重要である夜間における警戒の要領が不定期に実施された。
これらの教練は、軍隊の一般兵科からすればまだ手緩いほうであった。なぜならば、初年兵一期検閲後に行われる完全軍装での五十キロメートル強行軍もなければ、年に一度行われる大規模な師団演習も、毎月定例に行われる連隊対抗演習も大隊演習もないからである。しかし、それでも彼ら囚人兵にとっては、息が上がって眩暈がするほどの過酷な訓練科目であった。歪んだ性格の囚人兵を兵隊として鍛え上げるには、じつに効果的な特訓であった。
ただ一つ問題なのは、唐櫃や本郷が懸念している、戦闘要員にもっとも不可欠な実弾による小銃訓練ができないことであった。
国境線上での発砲は、静謐確保の現時点では敵側を刺戟するという理由で、司令部がこれを禁止しているのである。したがって実弾による公の訓練ができない。これを行うには、原隊を通して、さらに師団司令部への面倒な手続きを必要としなければならなかった。
隊長の唐櫃は、しかし、その命令を遵守する腹など、いまは更々なくなっていた。
その反撥の腹を決定的にさせたのは、この監視哨に赴いた直後、無電機の故障で原隊へ走らせた会田伍長が、そこの参謀大尉から受け取った一枚のメモを命懸けで持ち帰ってからであった。
時間をそのときに戻すと、こうである。
監視哨に到着した直後、会田伍長と携帯無電機の点検をしていた通信掛の狩谷上等兵は、通信機能の異常を認めて無電機内部を調べた途端に顔色を蒼くした。
無電機の内部が著しく腐食していて、手動式小型発電装置が完全に故障しているのである。狩谷は、それでも機能恢復に全力を投じて修復を試みたが、著しく腐食した発電装置を復元するのは不可能であった。
「どうしますか?」
と、はじめてのことで動顛した狩谷の顔に、会田伍長の困惑した視線が重ねられた。
「……がらくたを摑まされたな」
と、会田は、唇を卑屈に歪ませた。
軍隊の兵器は、兵隊の身につけるものからネジ一本に至るまで、すべてが兵器と呼称され、それも完全な状態でなければならない。殊に、作戦任務に直結する無電機器は、経年劣化した修理不能な不良品は除外するとしても、故障品があれば、それをすぐさま修繕して現役兵器として保管するのが兵器掛の重要な任務である。その兵器掛が、不良の無電機を出すということは絶対あってはならないことで、もしこれが故意であったとしたら、これは言語道断の許し難い行為であった。
このことから、会田も狩谷も、兵器掛が、このような重大な過失を犯したという話は記憶になかったから、そのときは頭から兵器掛を信じていたから、些かも不審を抱かずに受領したのであった。
「連中を疑いたくはありませんが、はじめから使えないと知っていて、こんな不良品を出したとしか思えませんね」
「拙いことになったな。あのとき、俺は、よっぽどその場で確かめようと思ったが、それをすると、岩下の顔を潰すことになると思って敢えてそれをしなかったんだが……」
いまさら臍を噬んでも、もう遅い。会田の愚かな言訳である。
「岩下とは同期だ。奴の実直な性格は俺はよく知っているつもりだが、そのあいつが、まさか故意に不良品を出したとは思えんのだが……」
そうは言ったものの、胸の内では、言い知れぬ重苦しい疑念が揺れ動いていた。
「しかし班長殿。不良品を渡されたのは事実ですよ」
と、狩谷の声に、会田は苦々しく顔を横に振った。
「この際の完動不動は別なんだ。兵器引渡しの責任範囲はな、狩谷、出庫した側よりも、受領した側に責任が課せられるんだ」
軍隊で扱う物品、すなわち兵器と呼称されるものは、すべて天皇より下賜されたものと徹底的に教育されている。したがってそれらを受領する者は、自分の命よりも大切に扱うことを義務づけられているし、したがって個々人が厳重な管理の下で保管しなければならないとされているのである。仮に不審と思われるものを渡されても、外観上使用可能と認められたものは、それを疑うことすら許されない。このことから、その兵器が、たとえ出庫前から故障していたものであったとしても、出庫側の責任は殆ど問われることはない。軍隊では、理由の如何を問わず、それを受領した側の過失責任と看做し、例外なく兵器破損の廉で処罰される仕組みになっているのである。この理不尽が公然と罷り通ったのが日本の軍隊である。
事の重大さに怯えた狩谷の顔が会田に向けられた。
「どうしますか?」
「そうだな。無駄だとは思うが、お前、もう一度やってみてくれ。俺は隊長にこのことを報告してくる」
会田の報告を受けた唐櫃は、最初は硬い疑念の色を浮かべたが、無電機を確認して納得した。
「これはひどい。兵器掛が杜撰な管理をしていたという証拠だな。よしわかった。俺が兵器掛担当将校宛てに手紙を書くから、会田、ご苦労だが連隊に走って、それを届けて代替機を受領してきてくれ」
「わかりました」
安堵した会田は、踵をカチンと鳴らした。
翌、払暁時、会田伍長を長とする連絡兵四名は、一日分の携帯口糧と故障した無電機を携えて監視哨を発った。
だが、次の日の夜半になって、会田伍長以下の連絡兵は、どういうことか手ぶらで、それも全員下半身泥まみれで帰って来た。
それに不審を抱いた本郷曹長が理由を尋ねると、帰隊途中、武装した共産匪賊と遭遇したとのことであった。
「行きは何事もなく安全だったのですが、いや参りました。向うは一個分隊程度の兵力でしたが、まさか匪賊に遭遇するとは思いもしませんでした。幸いこっちのほうが発見が早かったから、自分たちは沼に身を隠したために交戦は避けられましたが、もし先に発見されていたらどうなっていたか。……隊長殿、この先十キロ地点の山間はどうやら匪賊の行動範囲のようでして、単独での行動は危険です」
隊長はうなずいたが、怪訝な顔をしたのは本郷曹長であった。
「妙ですな、本部の情報では、奴らの活動範囲は孫河近郊のはずですが、もしかして、我々がここへ陣を張ったのを知って、この近郊にも警戒網を広げたんでしょうか」
「たぶんそうだろうと思うが、こっちが連中に手を出さなければ、連中も行動は起こさんだろう。ちょうどいい抑止になる。三日後に到着する囚人どもに、このことを誇大に伝えておけ」
と、隊長が釘を刺した。あのとき、紀多が囚人兵に逃亡の警告をしたのは、この事実があってのことである。
「それより会田、無電機はどうした?」
本郷が訊いた。
「そのことでありますが……」
と、会田は、連隊本部での仔細を隊長に報告した。
それによると、会田以下の連絡兵は、殆ど不休に近い行軍で連隊へ急ぎ、その日の夕刻には連隊に到着していた。
衛兵指令に理由を告げると、本部の舎前で待たされ、暫くして事務将校の中尉が出て来た。
幸いなことに、その中尉とは前の部隊で、中尉がまだ少尉で教官時代の折り、会田は助教を務めたこともあって顔馴染みであった。
中尉は、懐かしさもあって、
「暫くだったな」
と、白い歯を見せて再会を喜んだ。
「お前も南方行きを免れたか」
「……中尉殿もお元気そうで」
中尉は、それを卑屈に笑った。
「いまの俺は、見てのとおりの事務屋だ。それより、そんなものを抱えてどうした?」
と、無電機を指して訊いた。
「じつは、この件でまいりました」
中尉はうなずいた。
「兵器課の担当将校はいま不在だが、ま、入れ。話はなかで聞こう」
会田は無電機を担いでいる狩谷を促して、
「お前たちは酒保で待っていてくれ」
と、他の者に言い残して、中尉につづいて連隊事務室へ入って、将校の休憩室に通されて、
「まず楽にしろ」
と、中尉は二人を寛がせ、胸の隠しから煙草を取り出して、二人にすすめた。
中尉と個人的な会話を少し交わしてから、会田は隊長の書簡を中尉に差し出して無電機の経緯を語った。
会田の話を聞きながら手紙を読み終えた中尉は、煙草の淡い煙とともに嘆息した。
「事情はわかったが、ところで会田、お前のいまの所属はどこだ? これには国境監視中隊の唐櫃中尉とだけで部隊番号がないが」
「孫呉東方五十キロ地点の国境監視部隊ですが、制式な部隊番号はありません。我々は唐櫃部隊と称しています」
中尉は少し首を捻った。この連隊に転属して間もないが、連隊麾下の部隊は兵務課将校の立場上大体において把握しているはずであったが、連隊麾下の番号のない部隊は記憶になかった。
「この唐櫃中尉というのは?」
「この連隊の第二大隊第七中隊の元中隊長殿でありますが、ご存知ありませんか?」
「あ、いや……」
と、中尉は顔を横に振って、なにかを考えるように煙草を二三服吹かしてから無電機に指をさした。
「ちょっと見せてくれ」
無電機をしげしげと見つめて、中尉は首をかしげた。
「外見は美品だが、年式は少し古そうだな。受領したのはいつだ?」
「出発日の当日ですから、おとついであります」
小型携帯無電機は、発電装置が手動のクランク式だからコイルの摩耗が著しく、その交換に修理班に持ちこまれるが、このような廃物同然の旧式兵器は既に処分されているはずであった。中尉は、会田伍長の差し出した受領伝票の日付を確認して、また首をかしげた。
「うっかり間違えたにしても、こんな手違いがどうして起こったのか俺にはわからんが、すぐに兵器庫に調べさせて手配をしよう。少し時間がかかるから、お前はひとまず酒保にでも行って暫く待っていてくれ」
そう言い残して、中尉は事務室へ姿を消した。
会田は胸を撫で下ろした。どうやら、代替機は貰えそうである。
会田は、席を立って、狩谷と事務所を出て行こうとして扉の把手に手をかけた。
そこへ、事務室の奥から会田を追うように出て来た別の将校に呼び止められた。参謀飾緒を着けた大尉であった。
会田は不動の姿勢をとって室内の敬礼をした。
「故障の無電機を持って来たのは、伍長、お前か」
「そうであります」
参謀大尉は陰湿な眼を会田に据えた。
「我が連隊の兵器管理は万全を施しておる。したがって故障品や不良品はあり得んのだ。貴様ら、管理を怠ったな。馬鹿者が!」
と、きめつけて、いきなり呶鳴った。
驚いた会田が反射的に反駁した。
「お言葉でありますが参謀殿、そのようなことは決してありません。受領した無電機は、現地到着後、直ちに連隊への通信を試みましたが、通信不能のため原因を調べましたところ、その結果、内部の発電装置は経年劣化のため既に腐食しておりました。我々の管理不手際によるものでも、故意に故障させたものでもありません。兵器掛による、これはなにかの手違いだと思われます」
「手違いだと、なにを言うか! 貴様らの怠慢を棚に上げて、兵器掛に文句をつける気か! 無電機の代替はない。速やかに部隊に持ち帰って修理しろと俺が言ったと、隊長にそう伝えろ。以上だ」
事態の急変に会田は慌てた。
「待ってください、つい先程、長峰中尉殿は手配をするから酒保で待てと言われました。その舌が乾かないうちに変更とはどういうことですか。無電機がなければ、連隊本部との通信が途絶するばかりでなく、連隊の作戦系統に致命的な支障を及ぼす結果となります。隊長殿も、そのことを懸念されておられます。お願いであります。参謀殿、無電機の代替を!」
「黙れ! 故意に無電機を破損させておいて致命的な支障を及ぼすだと! 貴様、無電機がなければ連隊との連絡が途絶すると言ったな。途絶とはどういうことだ! 無電機がなくとも、現にお前たちは監視哨からそうやって連絡に来ているではないか! お前らの足はなんのためについとるんか。無電機がなければ、その足を使え! 代替機はない。それを持ち帰って速やかに現配置に就け!」
この怒声で、事務室内の将校たちの視線が一斉に二人に集中した。
会田は、事務室からの刺すような鋭い視線の恐怖を意識して一刹那たじろいだが、それでも退き下がるわけにはゆかなかった。手ぶらでこのまま帰るということは、子供の使い以下でしかなくなるのだ。
「参謀殿、お願いであります。代替機が駄目なら、せめて修復用の部品を出すよう指示してしてください。部品さえ揃えば、修理復元は自分たちでやります」
参謀大尉が言下に撥ね除けた。
「くどい! 帰れと言っているのがわからんのか!」
「お願いであります、参謀大尉殿!」
会田は、尚も食い下がった。
「長峰中尉殿はどこですか! もう一度中尉殿に会わせてください」
「貴様、作戦参謀の俺が判断して帰れと命じたのがわからんのか! 帰れ!」
「では、兵器庫の岩下伍長と話をさせてくれませんか」
「どうしようというのか」
「あのような廃物同然の無電機をなぜ出したのか、それを確かめます」
参謀大尉が眼尻を攣り上げた。
「廃物だと! まだぬかすか貴様! 駄目だ!」
「参謀大尉殿!」
会田は縋るように大尉の両袖を摑んだ。
大尉は、会田の手を乱暴に払って突き飛ばした。
「貴様ァ、帰れと言っているのがまだわからんのか!」
と、勢い会田の頬にビンタを張った。
会田は、軍隊のバック(飯の数)をこの大尉よりも食っている下士官である。普通なら、この程度で怯むような男ではなかったが、相手が連隊の作戦参謀とあっては、これ以上の抗弁は危険と判断して渋々退き下がった。
「わかりました。帰ります。ですが参謀大尉殿。国境線で万一不測の事態が発生した場合、五十キロ遠方に在する我が隊の報告の遅延は免れません。参謀大尉殿には、このことをご記憶していただきます。会田伍長、帰ります!」
会田は、古参兵に染み着いた規律ある敬礼をして事務室を出た。唇を噛み締めたその眸には、参謀に対する憎悪の炎が燃え盛っていた。
酒保で待っているはずの部下たちは、その場所を動かずに玄関脇の広場で待機していた。
沈鬱な顔で戻った会田は、部下に事情を簡単に説明すると、先程からの一部仔細を見届けて怒りが鬱積している狩谷が、聯隊本部をかえり見て口を尖らせた。
「あれが作戦を指導する参謀の言葉ですか。戦をなんだと思っていやがるんだ! 子供の戦争ごっこじゃねえぞ、くそったれめが! あの野郎、てめえだけがお山の大将気取りでいやがる。長峰とかいうあの中尉も中尉だ。前線に派遣した麾下部隊との迅速な連絡にはなにが必要か、自分も戦闘部隊の一指揮官だったなら承知しているはずだ。それを、班長殿とは旧知の将校が、なぜ援護してくれないんです! あれじゃ、俺たち同属部隊を見捨てたも同然じゃないですか!」
「……そうだよ。俺たちは連隊に見捨てられたんだ!」
会田が、言下に吐き捨てるように言い放った。
「将校て奴はな、狩谷、何事も言挙げせぬことを美徳とされているんだ。あの中尉がなぜ戦闘部隊から外されたのかわからんが、中尉は、転属が間もないこともあって、自己の言動を自重したんだ。それをさせたのがあの参謀だ。奴らは、自分の立てた作戦には責任を取らない。その作戦が失敗したとしても、それは本人の責任外のこととして、現地部隊の指揮官が責任を背負う仕組みになっているからな。要するに師団も連隊もそうだ。軍隊の中枢にいる参謀連中は、みんな自己本意の一つ穴の狢だ(むじな)ってことだ!」
「くだらんですよ!」
と、狩谷が精一杯の怒りをこめて言った。
「あの野郎、お前たちの足はなんのためについているのかと言いやがった! かりそめにも、奴は参謀飾緒をつけた戦争の指導者ですよ。国境線の監視部隊が迅速な敵情を報告するには無電機が必須なことぐらい、考えなくともわかるはずだ。それを、ここまでの往復百キロを足で報告しろとは、いったいなにを考えていやがるんだ!」
「もういい、狩谷、そのくらいにしておけ」
と、紀多がはじめて口を入れた。
「いまさら愚痴ってもはじまらんよ。参謀なんて奴は、自分の私利私欲しか頭にない族だ。そんな連中の命令で動かされるのはたまらんが、しかし、それにしても、このままでは帰れんな。どうするね、班長」
紀多が会田の顔をうかがうと、会田は陰鬱な顔で、
「事実を報告するしかないだろ。修理の部品も代替機も出さんと言われたんだからな」
と、ぼそりと答えた。会田は幹候の伍長だが、年次では紀多よりも二年浅い。したがって紀多には、一目置いている男である。
「もうこれ以上のことは、一介の伍長の俺にはどうにもできん。このまま帰隊して、隊長殿の判断を仰ぐしかあるまい。隊長殿も、話を聞けばわかってくれるはずだ。もう用はない。とにかく帰ろう」
と、一行が重い足を営門へ向けて歩きかけたとき、先程の参謀大尉が玄関口に立って会田を呼んだ。今し方の表情は影を潜めて、笑みさえ湛えている。
「あまりにもひどい仕打ちと、思い直したのかな?」
紀多が呟いた。
「……まさかとは思うが、そうだと有難いな」
会田が駈け寄ると、参謀大尉は、手にしている紙切れを会田に差し出した。
「これをお前の隊長に渡せ」
会田はメモを読んだ。それには、たった一行の走り書きが記されてあった。
『貴隊の奮闘を祈る』
その途端、会田の肚が怒りで煮え滾った。
なにが奮闘だ! 悪ふざけも程があるぞ!
もしこれが順調に事が運んでいれば、会田はこれを快く受け取ったであろう。しかし、先程のこれでは、どう考えても参謀の悪質な厭がらせとしか思えなかった。
会田は、精一杯の皮肉を返した。
「このメモは、先程の報告と一緒に隊長殿に渡しますが、隊長殿はこれをどう受け取られるでしょうか。隊長殿は、冷静沈着な判断をお持ちのお方であります。たとえ無電機はなくとも、隊長殿は独自の判断で対処されるであろうことを、我々下士兵は、そのように信じております。これが参謀殿のご本意であるならば、申し訳ありませんが参謀殿、隊長殿に対してこのような激励は無用かと存じます」
「独自の判断とはどういうことだ」
「それは参謀殿がよくご存じのはずであります。では、自分は急ぎ隊へ帰らねばなりませんので、これで」
言うだけ言うと、敬礼もせずに背を向けて、部下のところへ走り去った。
事の仔細を話し終えた会田は、胸の隠しからメモを取り出して隊長に渡した。
メモを受け取ってそれに眼を走らせた唐櫃は、無表情のまま紙片を千切り棄てた。
軍隊という組織は、要領がよくて、空威張りで威勢のいい奴ほど評価が高く、戦闘の埒外に置かれて後方で胡坐をかいている奴ほど得をする仕組みになっている。その多くは、自分以外のことは知らぬことである。それがわからぬほど、唐櫃は痴鈍ではない。
相手がそう出るのであれば、こちらも肚をきめるまでである。それが因でソ連と全面開戦になったとしても、それはそれで、なるようにしてなっただけの話である。どの道そうなるのだ。そのときになって慌てふためいたとしても、あとは知ったことではない。母国を憂いながら死んだ者を、誰も罰することはできないのだ。
唐櫃は、ためらうことなく、予てより計画していた射撃場の設営を本郷曹長に命じた。
射撃場は、監視哨横の開けた森を整地して設営された。射手の両翼には、念を入れて盛土の防音壁を設け、射撃音が直接国境線へ届かないように配慮されて構築された。
こうして実弾射撃訓練の態勢がととのえられ、実包演習は昼食後の一時間を割り当て、乏しい弾薬のなかから一人頭二十五発を限度として実施された。
関東軍の九九式歩兵短小銃は、本郷曹長が言ったように一回装填五発の単発式である。これを、たった五回の実弾演習で射撃の要領を掴ませようというのである。
一回の演習は五発である。これではとても射撃練度など高まるはずがないし、小銃など扱ったことのない人間が、銃の個癖を探り当てるのも絶無である。それでも一挙動の据銃訓練は厭というほどやらせているから、一発必中とは行かないまでも、実弾による射撃の感覚だけはどうにか会得できるはずである。
一挙動の据銃とは、一に床尾板を肩につけ、二に銃床を頬につけ、三に片目を閉じ、四で息をつめ、五で引鉄の第一段をゆっくりと圧し、六に照準線を概ね標的より中央下際(銃の跳ね上がりの強度による)に指向して激発する。この六つの動作を同時に行うのが一挙動据銃である。つまり、小銃を射つ基本であり、銃の個癖は、その実弾射撃の経験によって摑むのである。
実包訓練は三班に分けられ、射撃の指導には教育助手の紀多上等兵が務め、それに助教の澤来伍長と教官の本郷曹長が訓練の後見に立って、隊長の唐櫃中尉は白木の椅子に坐ってそれを査閲した。他の二名の下士官と狩谷上等兵が標的に中った弾痕検査掛を務めた。
ただし、機関銃班は、弾量の消費が著しいために、やりたくてもやれない事情から除外された。
訓練当初、本郷曹長は、実弾による銃声音を気にしたが、幸いにして銃声は、国境線までは殆ど届かないようであった。
この実包訓練は、奇妙なことに、男たちの萎えた生気を蘇らせた。日頃の訓練とちがって、誰もが真剣な眼差しで標的を睨み、訓練に没頭した。
その訓練の最終日、紀多が声を厳しくした。
「いいか、よく聞け。昨日までは基本的な射撃を憶えたが、泣いても笑っても今日はその総仕上げだ。気を引き締めてかかるんだぞ!」
兵たちから低いどよめきが起こった。
「黙って聞け。いいか、戦闘間においては、これまでお前たちが学んだ基本の限りではない。なぜなら、戦闘は彼我ともに定位置で戦うとは限らんからだ。お前たちは戦闘間による躍進の要領というものを習った。突撃発起時には、同じ場所からの躍進はしないという、それだ。それと同じように、敵も同じ場所からは出て来ないということであり、必ずしもお前たちの都合のいい状況で展開しないからだ。したがって動く標的を一発必中で斃さなければならない。今日は、その動体標的射撃の最終仕上げとして、前方の標的が変則的に移動する。標的がどのように動くか、それはわからん。標的の動きを冷静に捉えて、全神経を集中させてやれ。ド真ん中でなくていい。右でも左でも、上でも下でもどこでもいい。中るということは、それだけ自分の前の敵が減るということだからだ。ただし、射ち損じはいかんぞ。一発の射ち損じは、お前たちの生命だけではなく、部隊を全滅に導く結果となる。移動する標的に慌ててもいかん。照星の先の移動物をしっかりと捕捉し、落ち着いて引鉄を搾れ。これまで何度も言ってきたが、動く標的は特に神経を集中しろ。動体標的は、これまで以上の安定した据銃姿勢が要求されるぞ。銃の床尾板はしっかりと肩に着けろ。標的を狙っているうちにそこが甘くなって、照準が定まらないばかりでなく、射った反動で鎖骨を痛める結果となる。これも毎回言っていることだが、引鉄は引くのではない。息を殺し、第一段を落としたら、第二段は指で引鉄を包むようにゆっくりと搾るんだ。わかったな!」
兵たちの返事は頼りなかった。止まっているものでさえ中てるのは難しいのだ。それが変則的となると、難易度は自己の能力を超えて難しくなるばかりである。僅か二十五発の実包訓練で、射撃練度など高まるはずがないのだ。
「よし、第一班位置につけ!」
紀多の号令で、最初の組の四名が位置に就いた。
「弾丸をこめろ」
射手たちは、一斉に槓桿を引き立てて、弾丸を薬室に装填して遊底を閉じた。
「照尺をあらためろ」
射手たちは、照尺板を静かに立てて、照星の先の距離を合わせた。標的までの距離は二百である。
紀多が静かに言った。
「いいか、照準線上の標的をそのまま狙っては駄目だぞ。動く方向、その先の移動の偏差を瞬時に読み取る呼吸を掴むんだぞ」
紀多の手が上がって、下ろされた。
標的は、ゆっくりと横方向へ動き出し、緩やかな変則的上下運動をしながら移動を開始した。
泣いても笑っても、これが最後の五発である。射手は、前にも増して慎重になった。射ち洩らすまいと標的を追って銃先を振り、教わったとおりに息を殺し、引鉄に指をかけ、静かに第一段を落として引鉄を搾った。
発射された弾丸は、しかし、個人の意思とは無関係に標的を避けて、後方の斜面に虚しい土煙りを上げた。
それでも射手は、首を捻り、深い溜息を吐いた。無理もない。未熟な技倆では中るはずがないのである。小銃は、扱う人間に対して従順なのである。
射手の後方で睨むように視ている隊長の唐櫃と教官の本郷は、兵の練度の低さに嘆きの色を濃くするよりも、むしろ中らないのが当然であるかのように、互いの顔を見合わせてにが笑いでうなずいていた。いまは、それでよしとしなければならないのだ。実弾射撃の要領さえ摑めば、とにもかくにも戦闘要員としての目的の大部分は達成するのである。あとは個々人がどれほどの射撃技術をもって奮戦するか、それは実物がすべてを証明してくれるはずである。
ならず者部隊の特訓は、情け容赦なく激烈をきわめた。
一日の猛訓練を終えた兵たちは、心身ともに腑抜け同然となって、兵舎に戻るなり、それこそ装具もろくに解かずに崩れるように体を寝台に投げ下ろした。もうなにをする気力さえも奪われているのである。
「飯上げ当番は急げ」
紀多が命じた。晩飯の刻限はとっくに過ぎているのだ。
この日の飯上げ当番に当たっている菊地は、
「ちょっと行って来る、頼むよ」
と、隣で起居している同僚の花巻に頼んで、装具を投げ出したまま、この日の当番である戸田と田丸と桧川の四名で炊事場へ走った。こればかりは、どんなに辛くても怠るわけにはいかない作業である。
その炊事場へ出向く途次、菊地はふと立ち停まって天空を見上げた。
「どうした?」
行きかけた戸田が、振り返って訊いた。
「……なにか聞こえなかったか?」
天空を見上げた戸田は、耳を澄まして首を捻った。
「聞こえたって、なにがだ?」
「飛行機の爆音のような……」
言い終らぬうちに、上空に光るものが眼に入った。
「あァあれか。遠いな」
と、戸田が天空を仰ぎ見て眼を細めた。
「こんなこと、ここに来てから一度もなかったよな」
銀色に光る飛行物体はあきらかにソ連機である。紺碧の天空を悠々と飛行しているそれは単機飛行であることから、国境地帯の日本軍陣地を偵察しているにちがいなかったが、機体は大河に沿って東方へ飛び去った。
「ち、暢気に飛んでやがるぜ」
戸田は、気にもかけずに炊事場へ飛びこんだ。突然飛来した敵機よりも、飯のほうに関心が優先しているのである。
菊地が敵の飛行機を見たのは、これがはじめてで、二度目は、炊事場から食罐を提げて出たときであった。
二度目のそれは、先程東へ飛び去ったものと同じ機体のようであったが、それにしては戻りが早すぎたから、途中で反転したのであろう。飛行機は、先程よりも高度を下げてソ連領内へ飛び去った。ソ連の航空機を見たのは、あとにも先にもこれだけであった。
隊長以下の下士官たちも窓から顔を出して上空を見上げていたが、何事もないと判断したらしく、互いにうなずき合って兵舎に姿を消した。
菊地は、そのとき、国境線上でソ連機に遭遇したことに多少の疑念を抱いたが、そのときはそれ以上深く考えず、重い食罐を提げて兵舎に入った。
夕食後の食鑵返納時、飯上げ当番の菊地を含む四名は、そのまま後片付け要員として炊事場に残り、忙しく働き廻っていた。
「昔の侍は、武士は食わねどなんとか言うたけど、わてはあんな真似でけへんな。そやろ、腹一杯食わなんだら、あんた、いざ鎌倉ゆうときにゃ動けへんで。それをや、なんで腹一杯食わして貰われへんのんや」
田丸が食罐を洗いながらぼやくと、すかさず炊事掛が口を尖らせた。
「文句を言ったってなにも出やしねえぞ。俺たちゃ乏しい糧秣をだな、四苦八苦工面して飯を作っているんだ。不服があるなら、ここでじゃなくよ、関東軍総司令官に意見具申するんだな」
声を投げたのは、元料理人の山地である。
「おめえたちはまだいいさ。鉄砲だけ担いでテクってりゃいいんだからな。それに較べりゃ俺たちァ地獄よ。右手に庖丁、左手に鉄砲の二刀流で飯炊きだぞ。朝は朝でよ、おめえたちよりも早く起きて晩までこき使われてだ。腹が減るどころか、俺ァ厠へ(かわや)行くたんびに赤いションベンだぞ」
その山地に、別のが口を尖らせてぼやいた。
「赤い小便ならまだいいや。俺ァマス掻こうにもよ、倅の野郎がとんと元気がなくなっちまいやがって、まったくどうにもならねえ始末だ」
「それや」
と、田丸がすかさず相の手を入れた。
「わてもな、寝床ンなかでおなごのふんわりしたおっぱいを思い出そうとするんやけどな、これがほんまに、どないな形しとったか思い出されへん。思い浮かぶのんはきまって白い大福餅や。そうやろ、菊地はん」
菊地は、にが笑いでうなずくしかなかった。女の肌がどういうものか、彼はまだ知らずにいるのである。知る機会はふんだんに与えられていたはずなのに、それを果たさぬ間に、冷たい鉄格子に繋がれたという苦い思いが残されているだけである。
だから、こう答えてごまかすしかなかった。
「そうだな。大福餅は魅力的だが、想像だけじゃなく、実際にそれを手にして口に入れなきゃ、その甘さはわからんな」
他の男たちの犯罪歴とちがって、菊地は、軍隊でもっとも忌み嫌われる、所謂「アカ」に左傾した国賊として憲兵隊に睨まれた男である。
幸いなことに、哨兵の殆どが某の前科を持つ札付きということもあって、ここでは互いの前科や前歴は気にしないし関心も示さないから、菊地には、気が楽といえば楽であった。
「大福も結構だがよ」
と、入口の框に(かまち)尻を乗せて、煙草を咥えて軍靴の紐を解いている戸田が割って入った。
「毎日の駈足だけは勘弁して貰いてえや。お蔭で俺の足の裏はマメだらけだ。誰か靴を変えてくれねえかよ。どうにも窮屈で、痛くてしょうがねえや」
言いながら編上靴を脱ぎ捨てると、肉刺だらけの足を雑巾で冷やしはじめた。
それを視て、別のが鼻で嘲った。
「教えられたろ。軍隊じゃてめえの足に靴を合わせるんじゃなくてよ、てめえの足を靴に合わせるんだってな。いちいち足の寸法まで測っちゃくれねえんだよ」
大鍋に張られた湯の釜の火をいじっているこの男は、悪いことなら殺し以外はなんでもやったと、悪びれもなく仲間に吹聴している前科五犯の炊事掛笠次である。
「窮屈なムショでさえ、おめえ、ある程度は人間扱いをされたもんだが、軍隊じゃそれが一切ねえときた。ま、靴なら履いているうちに慣れるってもんだが、服はそうはいかねえぞ。俺ァ軍衣袴がこのとおりだ。お蔭でよ、動くたんびにキンタマが締めつけられてよ、痛くてどうにもならんチンチクリンときた。食うものはろくなものが与えられねえ、なにもかもが半端でよ、扱いはまるで野良犬以下だ。関東軍の待遇はよ、まったくもってなっちゃいねえぞ!」
国境線の兵士たちの悩みは、銃後の巷に暮らす長屋の女たちよりも深刻なのである。