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翌朝午前五時、東の空が朧に白みはじめた国境線の兵舎に、玄関立哨兵の叫くような起床の号令が班内を走った。
男たちは、重い瞼をこすりながらノロノロと寝台から下りると、そこで最初に喰らったのが、下番したばかりの教育助手紀多上等兵の叱咤であった。
「もたもたするな! 一秒でも早く朝飯が食いたければ、もっと敏速にやれ!」
と、辛辣な視線に煽り立てられながら、きめられた朝の作業を済まし、日朝点呼を終えると、今度は昨夜の日夕点呼時に達せられている執銃帯剣巻脚絆を再度言い渡され、朝飯抜きで、まるで鶏を追い立てるかのように営庭へ掃き出された。
「おお寒む!」
営庭に立つなり、戸田が白い息を吐いて身震いした。
「朝飯抜きで今日も駈けっこかよ。こう毎朝やらされちゃたまらねえな。まったく、監獄よりもひでえ扱いだぜ」
口を尖らせてぼやいていると、助教の澤来伍長の尖った号令がかかった。
「営庭駈足五十、はじめ!」
「ちぇ、はじめやがった」
男たちは、小銃を肩に乗せて、ブツブツ言いながら走りはじめた。
円周二百メートルの営庭を教育助手の紀多上等兵が先導し、隊列の横には弘前先任兵長が伴走して新兵の特訓が開始された。
刑務所で、身体を動かすことといえば、毎朝行われる健康体操ぐらいである。それも、いい加減に済ませていた男たちには、ここでの訓練は、まるで地獄の責め苦であった。
駈足が終わるころには東の空も明け放たれはじめ、そのころには、新兵たちはすっかり疲れ果てて、まるで冥界をさまよう亡者のように揺らめいていた。
だが、未熟な新兵たちには、寸分も体を休める暇はない。朝食後には、決死の覚悟で挑まなければならない銃剣術の訓練が待ち構えているのである。
これがまた凄まじかった。おとなしいと侮っていた古兵が、信じられない荒武者となって新兵をしごいた。
銃剣術の訓練は、本来は専用の木銃と防具を使用するが、ここではそのようなものはない。小銃に帯剣を着剣して、その先にタンポ代わりに脚絆を捲いての訓練である。したがって面当ては勿論のこと、胴当てもなければ籠手当てもないから、訓練は、まさに命懸けであった。
それを古兵たちは、本気で突いてきた。特に荒かったのは、通信兵上がりの狩谷上等兵であった。普段の彼は、物静かな古兵であったが、このときばかりは日頃の態度を豹変させて、性格が獰猛になった。
狩谷は、相手が未熟とわかっていながらも、手加減はしなかった。相手が怯んで退がったりすると、
「怖れてはいかん。怖れて退がると、お前の勝機は掴めんぞ。死ぬつもりで腰を入れて、俺を突き殺す覚悟でかかって来い!」
そう叱咤した次の瞬間には、相手の銃を撥ねて、胸元へ銃床を食いこませていた。
この殺人的ともいえる特訓は、男たちの度肝を抜いて醜悪な根性を骨抜きにした。慣れない小銃を長時間振り廻すだけで、腕が疲れ、足が縺れて腰が浮つき、銃剣を構える手がガタガタと慄えた。
紀多も狩谷も、それでも手を緩めることなく新兵の肉体を銃床で突きまくり、新兵の体じゅうに青痣を重ねて、腐れきった根性と体内の薄汚れた血と脂を搾り上げた。
手荒な過剰訓練とわかっていても、やめるわけにはゆかないのである。なぜならば、紀多にも狩谷にもそれなりの焦りがあるからである。国境の最前線で、無意味に死なないためには、この劣悪な男どもの精神を一秒でも早く鍛え直す必要があったのである。
その新兵たちの肉体が、いよいよ蕎麦のように伸びきったころ、漸く助教の声がかかった。
「それまで。舎前に集合!」
止めさせたのは、新兵たちの限界を認めたからでも昼食時限がおとずれたからでもない。訓練を見守っていた教官の本郷曹長が、あまりの不甲斐なさを見かねて、助教の澤来伍長に停止の合図をしたのである。
現役の古兵たちはさすがに敏捷に動いたが、それ以外は、まるで夢遊病者のように揺れながら集合した。
舎前には、粗雑な藁人形が三体ほど立てられてあった。前日に、教官以下の助手たちが立てたものである。
その位置に、本郷曹長は立っていた。
助教の澤来伍長が男たちに号令した。
「曹長殿に敬礼! ……直れ!」
答礼した本郷曹長は、兵たちに休めをかけると、いきなり恫喝した。
「なんだ、貴様らのそのへっぴり腰は! 銃後の女でも、お前たちのようにフニャフニャとは動かんぞ。なんのためにキンタマをぶら下げているんだ。お前たちは、もう民間人ではない。帝国関東軍の兵隊だ。兵隊なら兵隊らしく、もっと機敏にやれ!」
と、一喝を浴びせて、
「いいかよく聞け! 戦闘間においては、お前たちに与えられる実弾は絶対数しかない。前薬盒二つに六十、後薬盒に六十の計百二十発だ。それが尠ないか多いかは、お前たちの訓練の練度にかかっている。お前たちはどう考えているかしらんが、この国境線は、いつ戦闘がはじまってもおかしくない状況にある。したがって、お前たちにのんびりと訓練をしている暇はないのだ。お前たちは憶えねばならん。兵隊としての技量すべてを短時間で取得して、戦闘要員としての必要な練度を高めねばならん。戦闘間でもっとも重要なのは、戦闘技術は無論のこと、冷静な判断と戦闘に耐えうる強靭な肉体と精神力だ。これのどれが欠けてもいかん。戦闘間では、誰にも頼ることはできんぞ。したがってお前たちを護るのは、お前たちの戦友でも上官でもない。お前たちがいま手にしている、その小銃だけだ。いまは、それを棄てたいほど重いだろうが、それをお前たちの肉体の一部にしなければならんのだ。早死したくなければ、いいか、腹をくくって真剣にやれ!」
本郷曹長にも、古兵以上の焦りと苛立ちがあった。監視哨舎の修復等々の作業で、既に二百四十時間某を空費している。極東ソ連軍との静謐確保は、その間に、急激に揺らぎはじめているのだ。急がなければならない。急がなければ、あのときのノモンハンでの大平原の辛酸を、またぞろなめる破目になる。
「いいか、耳の穴をよくほじって聞け」
と、本郷は語気を強めた。
「いまのお前たちは、戦闘訓練も銃の扱いも習熟していない、兵隊においてはもっとも滓の三等兵だ。原隊であれば、お前たちのような滓がそんな態度でのらくらしていると、忽ち上官や古兵から足腰が立たんほどの焼きを入れられるところだ。だが、幸いにしてお前たちは幸運だ。他の部隊とちがって、ここにはそんな上官も古兵もおらん。なぜならば、国境最前線のここは一蓮托生の絆があるからだ」
帝国陸軍には三等兵という階級はない。いまの彼らは、最下級の二等兵以下ということである。
本郷がつづけた。
「いいか、俺の言ったことを思い出せ。お前たちに与えられる実弾は百二十発だとな。それが多いか尠ないかも言った。つまり、小銃の挿弾子は五発だから、たったの二十四回の装填で全弾が尽きることになる。戦闘間の戦場では、必ずしも戦闘物資が兵站と直結しているとは限らない。したがって弾薬や糧秣の補充がままならない場合がある。では、そんなときはどうするか!」
本郷は、青瓢箪のように青白い顔を揃えている兵隊たちに視線を巡らせた。
「弾薬も糧秣も尽きたあかつきは、戦いを放棄して逃げるか、それとも手を挙げるか?」
答えは、彼らの眼が自分の足下へ落ちることで出された。
それを読んでいる本郷は、くすんだ笑みを浮かべて、敢えて問い詰めることをせずに言葉を繋いだ。
「そうだ。逃げても手を挙げても無駄だ。逃げれば戦場離脱者として陸軍刑法により極刑だ。よしんば敵に手を挙げたとしても、敵兵はお前たちの命の保障など考慮しない。容赦なくお前たちを射ち殺す。それで一巻の終わりだ。したがって、弾薬のないお前たちに残されているものは一つに絞られる。それは肉迫による突撃、つまり白兵戦だ。だが、いまのお前たちには、その白兵戦すらこなす技倆も体力もない。もうわかったな、俺の言うこの意味が。銃剣術は、謂わば剣道と同じ剣技である。最後の一発を射ち尽くしたお前たちの銃は、新たに実弾を装填しない限りは、ただの鉄屑にすぎん。だが、その銃にお前たちの腰の帯剣を着剣すれば、今度は立派な武器となる道理だ。つまり、銃剣術は、敵と白兵戦になった場合の重要な剣技であるということだ。この国境線で、いま戦闘が勃発したならば、お前たちが百二十発全弾射ったとしても、おそらくお前たちは敵兵を一兵も斃すことができずに肉迫を敢行することになる。その結果はどうか、言わなくてもわかるな。そうだ、戦闘訓練未熟のお前たちは、いとも簡単に犬死にするということだ。したがっていま実施されている毎朝の駈足は、お前たちの虚弱な体力を強化するためのものだ。銃剣術はいま言ったとおりだ。いいか、よく聞くんだぞ。これから本格的となる小銃訓練に手榴弾投擲訓練、突撃発起点までの匍匐と躍進の要領、夜間による警戒と攻撃の要領等々、このほかにもまだあるが、お前たち戦闘要員は、これから行う、これら教科のどれが欠けてもいかんのだ。不平を言いながら適当にやっている奴は、いいな、誰よりも先にくたばる羽目になるぞ。俺は、国のために命を張れとは言わない。これは自分のためだ。自分が一秒でも長く生きる努力をするための訓練だ。ということを肝に銘じてやるんだ。このことは、すなわち、それだけお前たちの生存率も高くなると同時に、皇国に対する献身的奉公となり、しいては部隊の全滅も免れるということだ」
本郷曹長は、できの悪い兵隊を激励しながら、胸に苦いものを感じていた。
その様子を、自室の窓辺に立って見守っている唐櫃も、苦虫を噛んだ思いで眉を顰めていた。
本郷も隊長のそれを意識している。声が鋭く尖った。
「無抵抗で敵の銃弾に中って、野良犬のようにだらしなくベロを垂れて死にしたい奴は前へ出ろ!」
そう言って軍刀を起こすと、短い掛声と同時に、まるで人間の頸を刎ねるかのように、藁人形の上部を下から斬り飛ばした。片手居合いの見事な一刀であった。
「いいか、ここではそんなふやけた奴は不要だ。たったいま、俺がこのようにしてやる! 犬死にするよりは恥にはならん、ずっと楽だぞ。遠慮は要らん、出ろ!」
本郷は抜き身のまま兵たちの前に一歩踏みこんだ。このような男たちを雌伏させるためには、一人くらい斬り殺しておいたほうがいいとさえ思っているから、その顔は、決して冗談ではないことを示していた。狡猾で罪を恐れない男たちも、それが口先だけではないことぐらいは、相手の顔を見ればわかるのである。
本郷曹長は、兵たちを一通りなめ廻してから、軍刀を収めてニタリと笑った。
「そうだろう。無駄に死にたい奴は一人もおらんはずだ。よし、わかったところでもう一度言っておく。いま特訓を受けている銃剣術訓練、これから行われる一連の訓練もそうだぞ。お前たちが一秒でも長生きしたければ、短時間でこれらの教練を習熟するんだ」
曹長は、二名の名を呼んだ。
「紀多上等兵、狩谷上等兵!」
名を呼ばれた両名が一歩前へ出て踵をカチンと鳴らした。
「もう一度基本の動作を見せてやれ」
紀多も狩谷も、連隊対抗試合に選抜されるほどの銃剣術の達人である。
二人は、銃剣を形どおり正眼に構えると、一通りの基本形を披露した。両名の気迫のこもった一連の鮮やかな動作に、新兵たちは、思わず出そうになった驚嘆の声を呑みこんだ。
「それまで」
と、両名に命じて、本郷曹長が兵たちに向き直った。
「よし、いまの動作と要領を、お前たちの脳膜にしっかりと焼きつけておけ。ただし、言っておくが、いまのはあくまでも基本的動作であり、実戦ではこうはいかないことも記憶しておけ。なぜならば、実戦は、必ずしも一対一とは限らんからだ。したがって白兵戦の際には、常に前後左右の状況を判断し、次の展開を予測する反射神経と判断が必須となる。小銃を長時間振り廻すのはなかなか骨が折れるものだ。だが慣れればどうということはない。銃後では、女でもやっていることだぞ。いいな、その女たちがやっていることができんでは、お前たちは、まちがいなく九段行きの片道切符を受け取ることになるぞ」
九段行きだと? 冗談じゃねえ、そんな切符なんぞ欲しくねえや! 欲しけりゃてめえが頂戴しろ! 御託はそれくらいにして、俺たちに早く昼飯を食わせろ!
本郷曹長の思いとは裏腹に、男たちは、肚で悪罵を吐くだけ吐いて好き勝手に罵っていた。無理もない。自分たちが、虚構の大義の名分下に操られている虫螻以下の消耗品でしかないことを、これまで軍隊とは無縁に生きて来たこの男たちには、自分がどのような立場に置かれているのか、そのこと事態が、実感として湧いて来ないのである。
本郷曹長が腕時計を見た。
「まだ少し時間があるから、それまで予備演習をやる。午後の教練はこれを徹底的にやるから、いいか、憶えの悪い奴は晩飯抜きでやることになるぞ」
本郷は、助教の澤来伍長にうなずいた。
踵を鳴らした澤来は、今度は紀多に合図を送ると、それを心得ている紀多は兵たちに一歩踏み出た。
「いま曹長殿が言われたように、午後は銃剣術と刺突訓練を重点的に行う。その前に、いまから俺が刺突の要領を見せる。いいか、両眼をしっかりと見開いて、頭のなかに一連の動作を焼きつけるんだぞ」
刺突姿勢に入った紀多は、「突撃に」の澤来の号令とともに標的に向かって駈けると、鋭い掛声とともに、銃剣の剣尖を藁人形の心臓部へ突いた。
本郷曹長は、紀多上等兵の完璧とも言える乱れのない動作に、満足そうにうなずいていた。
「よし、各班ごとに位置につけ!」
弘前兵長に紀多と狩谷上等兵が藁人形の横に立った。
「もたもたするな! 早くしろ!」
助教の怒声に弾かれるように新兵たちは整列した。
「タンポを外せ!」
帯剣の脚絆が解かれて、鈍く光った銃剣が顔を出した。
「各列先頭一歩前へ、構え! 目標、前方の標的藁人形、突撃に、前へ!」
助教の号令で、新兵たちは、頼りない喚声を発しながら、藁人形に向かって突進して行った。
その日の夕刻、どうにか予定時刻に訓練を終えた兵たちが兵舎に駈け込むのを横眼に、本郷曹長は隊長室の扉を叩いた。
「まったく、悪事にかけては秀逸な連中ですが、肝腎なことになると鈍感な奴らばかりで、先が思いやられます」
本郷は、入るなり、頭を掻いてぼやいた。
「仕方あるまい。一般社会の人道に反して生きて来た連中だ。自分のことを棚に上げて、軍隊を非人情的と逆恨みするのも無理はない話さ」
皮肉交じりに、唐櫃は苦々しく嗤った。
「そうかも知れませんな。でも、いまのところ静謐が確保されて、ここは平穏だからいいようなものですが、もし、いま事態が急変したらと思うとぞっとします。しかし、いつまでつづきますかね、この静謐……」
唐櫃は小さく嘆息した。これこそ唐櫃がいちばん知りたいところだからである。
「俺は戦闘部隊の一介の指揮官にすぎんが……」
と、唐櫃は、そう前置きをしてつづけた。
「俺一個人の推測だが、ソ連がこの国境を越境する日が来るとすれば、それはヨーロッパでのドイツとの戦闘を終熄させたとき、と、そう考えるんだが、はたしてその時機がいつか、まずはそれがわからんことにはな……」
「と、いうことは、ドイツはいよいよ音を上げて、ソ連はこの満州に鉾先を向けつつある、そういうことですか?」
「そう考えていいだろうな。日本とソ連との中立条約はまだ生きてはおるが、そんなものは、向こうさんの都合次第でどうにでもなるもんだ。正確な情報ってやつが殆ど皆無だから、俺には判断のしようがないが、ただ、ドイツがヨーロッパで苦戦していることは確かだし、ソ連が対日戦に備えてこのソ満国境全線に兵力を展開しつつあるというのも確かだ。つまり、ソ連が日本との条約を破棄して対日宣戦布告をするのは、ドイツとの戦闘によるソ連側の損耗度にもよるが、日ソ開戦は、もう避けられない状況に進展していることだけは確実のようだ。ただ救われているのは、俺たちの現在の正面には敵影は確認されていないことを考慮すると、いま暫くの静謐は確保されるだろう。俺個人としては、いまの現状のまま、俺たちを戦争の埒外に置いてくれればと、そう希ってはいるが……」
「……つまり、ソ連は、ドイツとの戦闘で損耗した物資の補強時間が必要というわけですね」
「そりゃそうだろ。豊富な資源を持つソ連と雖も戦略物資が無尽蔵にあるわけではあるまい。ドイツとあれほどの戦争をやっているんだ。兵力・兵器・弾薬等々を損耗したままの状態で返す刀ってわけにはいかんだろうし、武力を立て直すにも、それなりの絶対的補強時間を必要とするのも自明の理だ。つまり、ドイツを叩いたそのあと……そうだな、少なくとも、向こう数ヶ月は、な」
「だとすると、単純に考えても、戦闘教令が全軍に下令されるのは夏から秋、ということになりますな」
唐櫃は静かにうなずいた。
「その前に、関東軍総司令官の山田乙三閣下殿が、はたしてどの時点で戦闘序列を発令するかだな。それによって、俺たちの寿命も、延びたり縮んだりするわけだが……」
あとは呟きとなって、唐櫃は卑屈に笑った。
「戦闘教令はいずれ出されるだろうが、いまは兵隊の練度を高めるのが急務だ。夏までの短期間でどれほどの成果が期待できるかは別として、せめて小銃の射ち方だけでもしっかりと教えておかんとな。国境第一線を護る監視部隊が、肝腎なときに小銃も扱えんでは、それこそ洒落では済まんからな」
「まったく、そのとおりですな」
本郷は、炊事場に視線を移して、口を一文字に結んだ。 この二人、この二十年四月五日に、ソ連が日本との中立条約を一方的破棄を通告していることも、関東軍総司令部が、その時点で満州全域に配備している隷下部隊の戦闘序列を発令したことも、不幸にして、知らされてはいなかったのである。
炊事場では、黒木伍長の指示で、男たちが無邪気にはしゃいで飯上げの準備をしていた。どの顔も、戦争とは無関係であるかのように、まったく緊迫感のない極楽浄土の笑顔である。
本郷が、隊長に向き直って言った。
「……しかし、ですが、隊長殿、小銃の基本的教練はどうにかなるとしても、問題は、いま隊長殿が言われました実弾による射撃訓練です。国境線での発砲は禁じられておりますし、訓練用の空包もなく実包も限られておりますから、これをどうするか、早急に解決しなければなりません。このままだと、それこそ田圃の案山子ですから」
田圃の案山子でも、使いようによっては役に立つが、その頭を鴉がつつくようでは無用の長物でしかないのだ。
「それだよ、頭が痛いのは」
と、唐櫃は、沈痛な面持ちをつくった。
「基本的な据銃動作だけ教練したところで、兵隊の射撃練度が上がる話ではないからな。こればかりは、実際に発砲させんことには……」
「そのことも考慮して、やれるだけのことをやってみるしかありませんが、しかし、それでも時間が足りません。兵一般の教練を一通り覚えこませるだけでも、最低半年の時間を必要としますからな」
唐櫃は含み笑いでうなずいた。
「教科通りの訓練なら実戦経験のない俺でも教官は務まるが、ここではそうはいかん。ここでは即戦力を要求される。だから、ノモンハンでの実戦経験豊富なお前にすべてをまかせて、本郷流の戦闘訓練を叩きこむしかあるまい」
「いや、あのときは、正直なところ殆ど無抵抗の状態で、正直なところ、蛸壺のなかで傍観していたと言うほうが本音です。敵の膨大な火力の集中射を浴びながら蛸壺に潜ったきりで、気がついたときには敵の後方に取り残されていましたから……」
熾烈な劫火をくぐった男は、そのときの苦い記憶を蘇らせて苦笑した。
唐櫃には、そのときの本郷の姿は知らぬことで、本郷は照れ隠しに謙遜しているものと解釈したらしい。軽くうなずいて抽斗から洋酒を出した。
「どうだ。頭の痛い話はこれくらいにして、食前に少しやらんか」
言って、二つの湯呑みに芳醇な洋酒の液体を注いだ。
「ほォ珍しいですな。山崎の角瓶ですか?」
と、唐櫃の前に置かれてある椅子に腰を下ろした。
「神野の置き土産だよ」
「中尉殿が……」
唐櫃がうなずいた。
「そうでしたか。あの酒豪の中尉殿のことだから、戦地のどこかで豪快に呑んでいるでしょうな」
扉が叩かれた。
本郷が入室を許可すると、炊事当番の田丸と菊地が二食分の食事を運んで来て、菊地が理由を述べた。
「澤来班長殿より、曹長殿の膳はこちらへ運ぶようにとのことでありますので、お持ちいたしました」
「お、そうか、御苦労」
いつものことである。本郷が隊長室にいることを知っている澤来伍長が気を利かせたのである。
今週の炊事班長は黒木伍長である。澤来伍長が教練の助教を務めている関係で、黒木伍長ともう一人の会田伍長が週替わりで炊事場の管理をしているのである。夜間は、この二名の下士官が交代でそこに詰めた。
炊事場に、下士官が詰めるのには理由があった。炊事場の奥が物資庫であるため、これの盗難を抑止するためである。なにしろ、少しでも油断すると、なにをやらかすかわからない前科者たちである。補給の乏しい物資の管理を厳重にしていなければ、忽ちにして干上がってしまうのである。そのお蔭もあって、粗末な兵食ではあったが、多少なりとも、まだ「味のある」食事が、年次の優劣なく公平に給与された。