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 昨夜の風の騒がしさとちがって、国境線の朝は、静寂を保っていた。敵側に届く物音は一切厳禁とされているから、遠くまで音の届く起床ラッパはなく、玄関立哨兵の起床の号令で朝がはじまり、洗顔と営内の清掃作業を終わらせ、形式的な日朝点呼が行われる。それらが終われば、囚人兵たちは、副官兼部隊の人事を掌る本郷曹長が作成した勤務割で動くのが日課となった。

 それにしても、北満の涯の春の気候は正確無比であった。昨日までは、肌を凍らせた気温が、まるで嘘だったかのように、次の四日間は、身も心も緩ませる、温暖な日がつづいて、これが繰り返された。気象で謂うところの、所謂、三寒四温というやつである。

 その日は、生憎と、寒の日であった。日中の寒気はそれほどでもないが、陽が落ちると、急激に気温が下がりはじめて、夜半の気温は、零度近くまで下がって男たちの身を凍らせた。殊に、塀のなかで過ごした軍隊経験のない男たちには、刑務所以上の、過酷な夜であった。

 「赤」の烙印を捺された菊地は、この夜、はじめて歩哨に就いた。皮肉なことに、夜半から寒風が吹き荒れた。

 国境線警備の警戒区分は、兵舎の玄関(不寝番)立哨一名と望楼での対敵監視一名に、黒龍江対岸監視の動哨二名の計四名である。

 本来ならば、衛兵守則を遵守して衛兵が二十四時間の態勢で勤務する仕組みになっているが、僅か五十名足らずの守備隊にはその余裕もなく、その上、哨兵の兵一般の訓練度が不完全ということもあり、隊長の唐櫃中尉がこれを考慮して、全隊員による一時間交代という変則的勤務にしたのである。

 この夜の上番者は、原隊を放り出されたぐうたらな上等兵の片渕という関特演の現役五年兵を長に、関西出身の田丸に、新潟出身の地方新聞記者だったいう無口でおとなしい花巻と菊地の三名が、夜明け間近の、それも朝のいちばん厳しい(りん)(れつ)な寒気のなかに身を曝して勤務に就いた。

 片渕は、上番するなり古兵風を吹かせて、三人にこう言った。

「お前ら、歩哨守則を習ったな」

「習いました」

 菊地が答えた。

「よし、俺は舎前の不寝番に立つ。菊地、お前は望楼だ。花巻、お前は田丸と動哨に出ろ」

 三人は不可解な顔をした。

 勤務割でいけば、片渕が望楼の対敵監視に就き、菊地と田丸が動哨に出ることになっていて、花巻が玄関の立哨に就くはずである。

「勝手に勤務割を変更して大丈夫だっか?」

 田丸は、不満を洩らしたのではない。軍隊のしきたりを破るのを怖れたのである。ただ、関西人特有の馴れ親しさがつい出てしまったのが悪かったようである。

 途端に、片渕の平手が横ざまに来て、田丸の頬に鮮やかな音を立てた。

「馬鹿野郎。ムショ帰りの三年兵だからって、てめえ、でけえ口叩くんじゃねえ。ショネコ同然のくせしやがって、言われたとおり黙ってやれ!」

 片渕は、眼を三角にして噛みついたが、すぐに弛めて田丸の肩を突いた。

「安心しろ、この寒空の払暁だ。敵さんなんぞいやしねえし、下士官だって爆睡していて、まともな巡察なんかしやしねえよ。どうせ一時間の辛抱だ。いいか、習ったとおりにやるんだぞ。ヘマなんぞしやがったら承知しねからな」

 と、言いつけて、自分は浴場へ駈けて行った。

 風呂の湯船は木製で、しかも薪で焚く方式だから、気を抜くと、すぐに湯が冷めてしまう。しかも一度火を落とすと、十五人が一度に入浴可能な浴槽を適温にするのに時間がかかる。殊に冬場は湯が冷めやすいから、風呂釜の火を絶やすことはできない。手を抜いたり油断すると、ぬるま湯の湯船に浸かる羽目になる。このために、玄関の不寝番は、昼夜を問わず、火を絶やさずに管理することを命ぜられている。このことから、兵舎から誰かが出て来ても、不寝番は浴場の点検に出向いているものと判断して誰も疑わない。したがって、正面立哨の不寝番のみが、公然と風呂釜で暖が取れるというわけである。

「ふん。小狡いやっちゃ。なにが一時間の辛抱や!」

 舌打ちを一つして、田丸は、花巻を促して出て行った。

 それを見送った菊地も、古参兵には逆らえないから、仕方なしに望楼に上った。

 だが、望楼に立った途端に、あの馬鹿が逃げるはずだと思わず唸った。日中は殆ど着ることはなくなったが、夜間にはまだ手放せない外套を着用していても、猛烈な寒気が、容赦なく肌に噛みついてくるのである。

 足踏みをしながら監視鏡を覗いてみたが、闇の向こうなど、見えるはずがなかった。対岸はおろか、足下すら闇に閉ざされているのである。

 田丸と花巻は、その漆黒と化した闇のなかを、背を丸めながら大河の沿岸を動哨していた。

 解氷期が間近だとはいえ、凍てついた湿原地帯を吹き撫でる風の冷たさは、生身の人間の体には尋常ではなかった。唯一露出している顔の肌は、風が吹きつけるたびに鋭利な刃物で斬られるような痛みが走った。動哨の往復は、約一時間である。身を凍らせて、二人が兵舎に戻ったときが、ちょうど交替時限となる勘定である。

 やがて、動哨が舎前に帰って来た。下からの合図で、望楼からそれを認めると、正面玄関に片渕の姿がないのを知っているから、望楼を下りた菊地は浴場へ走った。

 片渕は、案の定、釜焚きの壁にもたれて爆睡していた。そのだらしなさに、菊地は、腹を立てるよりも、馬鹿らしさが先立って、思わず鼻先で(あざ)(わら)った。

「古兵殿、ぼつぼつ時間です。動哨も帰って来ました。起きてください」

 揺り起こすと、片渕は、驚いたように顔を上げて跳ね起きたが、それが菊地であることがわかると、大きな欠伸を一つして口を尖らせた。

「ち、お前か。これからいいことがはじまろうってときに、バカが、野暮な声をかけやがって!」

 と、不機嫌に言い捨てて鼻頭をツンと上げた。

「どうだ、物見櫓は(やぐら)至極快適だったろうが。お前らが兵隊のイロハを教わっているさ中にだな、俺たち古兵は、真冬のこんな寒風のなかを四時間も突っ立っていたんだぞ、四時間もな。少しは古兵の有難味がわかっただろ。え!」

 と、菊地の肩を小突いた。 

「先に行ってろ。小便をしてから行く」

 菊地が早駈けで戻ると、次の哨兵の紀多上等兵以下四名が舎前に待機していた。

「片渕はどうした?」

 紀多が訊いた。

「便所へ行かれましたが、もう来られます」

 そう答えると、片渕が小銃を肩に提げて、寒そうに軍手を擦りながらやって来た。

 歩哨の交代時、片渕は何食わぬ顔で、守則どおりに「異常なし」を申し送った。

「まったくひでえ寒さだぞ。おい紀多班長よ、眼鏡なんか覗いてもなにも見えやしねえぞ。適当にやるんだな」

 と、言い残して自分の銃を花巻に投げ渡すと、腰を丸めて小走りに兵舎へ消えた。それを田丸の斬りつけるような視線が片渕の消えた先を刺した。

「アホったれ、なにが異常なしや! ひでえ寒さはこっちのほうやないか! 勝手に勤務割を変更して、自分は風呂釜にへばりついて爆睡してやがったくせに!」

 田丸が声を殺して毒づいた。

「軍隊ちゅうとこは、ほんまに監獄と一緒やで。一日でも相手が古かったら、わてらはそいつには頭が上がらんさけな。ほんまにアホらしいとこや。巷で言うやろ、アホで行動的な奴ほど始末が悪いってな、あいつはそれやで。あんなアホ気にしとったら、それこそ寝不足になるだけ損や。早う休むことや。あしたからは本格的な教練がはじまるそうやさけ、な」

 菊地と花巻は、田丸の言うとおりだと、互いにうなずき合って苦笑した。

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