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憲兵の護送車を白い眼差しで見送った囚人兵たちは、その場で解散を命じられ、暫くして飯が配られた。大人の拳大の握飯一個と、薄く切られた沢庵二切れである。
それを手にした囚人兵たちは、口々にぼやいた。
「なんでェこりゃ。ムショよりもひでえじゃねえか! もっとマシな飯が食わせられねえのか!」
「無敵関東軍の、これが兵食かいな? 監獄帰りには、まともな飯も満足に食わして貰らわれへんのんか!」
「俺ァ豚箱のシャリが恋しくなったぜ」
誰かが、皮肉を投げて唸った。
この男たちが口を尖らすのも無理はない。分厚い塀に囲まれた獄舎のほうが、臭い飯ながらも、一汁一菜の、これよりもマシな給与が与えられたのである。
その不服そうな群れに、握り飯を配り終えた先程の上等兵が一喝した。
「文句を言わずに黙って食うんだ! 炊事場の修復が不完全ないまは、これが精一杯なんだ。それとも、もう一度血反吐と一緒に臭い飯が食いたければ、遠慮は要らんぞ、いますぐに元の場所へ帰してやる。そうして欲しい奴は手を挙げろ」
上等兵は、兵を見廻して一気にまくし立てた。
「食いながら聞け。俺は紀多上等兵だ。いまから、お前たちの訓練の助手を務めることになる。だが、その前に、お前たちに言っておくが、お前たちがこれまで過ごしたように、ここは檻のなかとはちがうぞ。兵舎ではお前たちを自由にさせてやる。だが訓練ではそうはいかんぞ。いまのお前たちの精神は、人間においても兵隊においてもすべて未熟だ。そのお前たちの体に染み着いた腐った根性を、これから俺が血反吐と一緒に徹底的に搾り出してやるから覚悟しておけ。見てのとおり、ここには塀もなければ鉄条網もない。あるのは対岸の敵を監視する望楼だけだ。このことは、逃げたければ、いつでも脱走は容易であるということでもある。だがな、脱走しても意味がない。単独でやるか集団でやるか、それはお前たちの勝手だが、参考に教えておくが、ここからいちばん近い孫呉の街まではおよそ五十キロある。健脚な者ならたったの一日の距離だ。その間には、日本の開拓団や満人の集落が幾つもある。だがな、それらの村は充分注意しろ。なぜならば、一つは日本の開拓団には、軍と憲兵隊の連絡が密に確立されている。よしんば開拓団に潜りこんだとしても、通報によって即時憲兵に検挙されるか、それとも近隣部隊の捜索隊に捕縛されて敵前逃亡の罪で銃殺だ。もう一つは、この部隊の十キロ地点圏内は匪賊の活動範囲でもある。単独、徒党にかかわらず徒歩で行動しようものなら、お前たちは、まず二里も進まないうちに匪賊に襲撃されてそれで終わりだ。俺の言うことを信じずに命を惜しまず脱走したければ、このことをよく考えた上でやれ。お前たちは到着した早々だから、いまはこれくらいにしておく。飯を食い終わったら三十分後に兵舎内に集合。それまでは休憩するなり、いま俺の言ったことを疑った奴は、かまわん、周辺を徹底的に探索して、自分の逃走経路をしっかりと確かめておけ。そのまま逃亡したければ勝手にやれ。ただし言っておくが、いったんここを出て行った奴は、なにが起ころうと戻ってはならんぞ。のこのこ帰ったりしたら、敵前投与逃亡罪でお前たちを極刑に処す。だから、無断で営門を出た者は二度と戻ってはならん」
敵前での脱走は死刑であることは、この囚人兵たちも聞き及んでいる。逃げても死、戻っても死と聞かされれば、どれほどの悪党でも命は惜しいはずである。脱走は否応なく諦めざるを得ない。無防備の上に、地理さえもわからない辺境の地で死ぬのを、それを承知で逃げる阿呆はいないのである。
少しの間があって、最前列の男が顔を持ち上げて口を開いた。俠客を自負している戸田である。
「三十分後って、遠路遙々やって来た早々に、もう訓練させようてんですかい?」
「そうしたいところだがな、そうではない」
「それじゃ、なにをさせようてんですかい?」
「お前たちのねぐらを修理するんだ」
「ねぐらって、あれですかい?」
戸田が苔生した兵舎に顎をしゃくった。
「そうだ。長年使われていないから随分痛んでいる。そのままだと、吹き曝しの状態で兵営生活を送ることになるからな、だから、お前たちのために修繕するんだ。だが、それでもかまわんと言う奴はなにもしなくていいぞ。そいつには、その辛さがどれほどのものかを、お前たちの身体で教えてやることになる」
と、突き放すように言い置いて、
「ついでだからもう一つ言っておく。いいか、ここはお前たちの言う娑婆ではない。軍隊だ。いまのようなぞんざいな口の利き方をすると、古兵だけじゃなく、教育助手の俺が許さんぞ。自慢するわけではないが、俺は空手道の有段者でもある。銃なら、二百メートル先の拳大の標的を射ち損じたりはしない。お前たちが束になってかかってきても、俺は臆したりはせんのだ。いいな。上級者には、何々であります、というように、軍隊用語できちんと接しろ。さもなければ、飯が食えんほどの制裁を加えることになるぞ」
紀多は、その兵隊を見下ろして名札を読んだ。
「……戸田か、お前はなかなか気骨がありそうだが、いま俺の言ったことを、忘れずに憶えておくんだぞ、いいな」
と、一瞥して兵舎へ戻って行った。
握り飯を平らげた男たちは、いっときはそこら辺りをぶらぶらしていたが、やがて時間が来ると、仲間の一人が渋々自分の装具を抱えて兵舎へ脚を向けると、他の者もブツブツ言いながらあとにつづいた。
兵舎に入ると、内務班と称されるそこには、上下二段に仕切られた板張りの寝台の下段に薄っぺらい藁蒲団が積み重ねられていて、寝台の頭のそこには、個人の名前が記された札が貼られてあった。
内務班には、先程握り飯を配った教育助手である紀多上等兵が待ち受けていた。
「装具は各自のその場において、まず自分の寝具を日干ししろ。そのままだと、蚤や虱の奇襲攻撃を食らうぞ。それが終わったら舎前に集合」
兵たちは、古参兵の指示を受けながら雑用を済ませると、亀のようにノロノロと舎前に整列し、そこで三班に振り分けられて、兵舎内外の修復作業を命じられた。
成人期の殆どを塀のなかで過ごしたお蔭で、肉体労働などおよそ縁のない連中である。兵舎の修復作業は、したがって誰も真剣に働こうとはせず、遅々として捗らなかった。
「このボンクラども、モタモタするな! いい加減な手抜きをすると、いいか、その分だけお前たちが不自由な思いをするんだぞ。もっと身を入れて真剣にやれ!」
機関銃の班長を務めることになっている会田伍長が、男たちにハッパをかけた。
「おいそこの兵隊。お前だ。貴様、煙草を咥える暇があるなら、さっさとこのガラクタを片付けろ!」
足下に転がっている木片を蹴り上げた。
別の場所では、望楼の補強と浴場の修復作業が行われていたが、浴場の作業場でも、下士官が頭から湯気を噴き出して呶鳴り散らした。
「誰だ、金槌を投げた奴は! 貴様か!」
指をさされた兵隊が、嘲るように手を横に振った。
「わざとじゃねえですよ、なあ」
と、その男は、傍の男に片目をパチリとやった。
受けた男も人をなめている。
「いや、こいつの金槌がね、班長さん、まったく困ったもんでね、勝手に手から跳ねたらしいですぜ」
と、返すと、別の男が、腐った屋根の天板を力任せに剥ぎ取って、何食わぬ顔で下士官の足下へ抛り投げた。
足下に投げ落とされた板屑の音に驚いた下士官は、思わず一跳躍跳び退いて顔を真赤に上気させた。
「馬鹿もん、なにをするか!」
するとその男は、悪びれもせずにケラケラと笑った。
「あら、まだいたんですかい。そんなところにボーッと突っ立ってたら班長さん、しなくてもいい怪我ァしますぜ。なにしろ、俺たちァ長えこと檻に繋がれてたもんで、それも箸より重いものなど持ったことがねえんでね、どうも握力が弱っちまって、それで、つい手が滑っちまいやがるんです。え。びっくりした? あ、そうですかい。そりゃどうもすまんことでしたねェ」
人を食った悪ふざけに、最初の男が悪乗りしてますます調子づいた。
「俺たちァね班長さん、あんたのように下士食をたっぷり食っちゃいねえもんでね。握り飯一つじゃ力も気力も出やしねえ、少しは大目に見て貰いてえもんだ。あ、そうだ、忘れてた。ついでに班長さん、それ、そうそう、その金槌、それをちょいと抛り上げてくれませんかね」
「馬鹿もん、欲しければ取りに来い!」
と、呶鳴りつけ、下士官は、金槌を蹴り飛ばして別の場所へ行ってしまった。
その後姿に、詐欺横領前科五犯の犯罪歴を持つ和久井が、ニヤニヤしながら呟いた。
「ヘ。いちいち眼ン玉尖らしていると身が持たねえよ。先は長えんだろ? な、焦らず怠らずで行こうぜ」
屋根の上でゲラゲラと嘲笑が起こった。
この日は、確かに長旅の疲れもあり、そのせいで兵舎の修復作業は遅々として捗らなかったが、それも翌日からは真剣そのものとなった。
そのはずである。冬季の厳寒は過ぎ去ったと雖も、早春の北満はまだ凛冽な寒気が居座っているのである。その一夜の寒さがどれほどのものか、紀多上等兵の言ったとおり、その現実を、男たちはたったの一晩で骨の髄まで沁みこませて震え上がったのである。
「ちょっと訊くがよ」
と、腐った板壁の張替をしている奥田が、昨夜の異常な寒さを蘇らせて身震いをした。
「ここの季節ってのは、なにかい? 麗らかな春ってェもんはねえのかね? ゆんべはおめえ、とても眠れたもんじゃなかったぜ」
と、手洟を一つやって、
「まったくとんでもねえ寒さだったぜ。毛布のなかはよ、まるで氷の寝床ときた。ムショもひでえところだったがよ、それでもここよりはよっぽど居心地はよかったもんだ。ここにゃお前、キンタマを凍らせる雪女でも棲みついてるんじゃねえか」
奥田は、冷えきった股間をさすりながら、獄舎を懐かしむようにぼやいた。
娑婆と刑務所を往復するのが生甲斐にしているかのように空巣狙いを常習としたこの男、法の裁きに懲りないケチな盗人である。
「これじゃ三日と持たねえぞ。早いとこ片付けてよ、暖でも取ろうじゃねえか。おいそこの兄さん方よ、壁は隙間のねえようにしっかと頼むぜ」
男たちは、顔色を変えて作業に没頭した。そのお蔭で、自分たちの寝座だけは次の日を待たずに完了した。
その夜は、元内務班だった片隅に残されているストーブを修繕して、それに廃材を燃やして暖を取った。今宵からは、身も心も凍らせずに眠れそうであった。
男たちは、藁蒲団に長々と身を横たえて、それぞれが、別々の思いのなかに思考を巡らせた。
ある者は、自分が以前よりも更なる厳しい状況に追いこまれた身の上であることも気づかずに、長かった獄中から開放された歓びを嚙み締めた。
またある者は、自分の犯した罪の意識に嘖んで枕を濡らし、疎遠となってしまった故郷を偲んで忍び泣いた。
そう。故郷の山河の其処彼処には、冬の眠りから眼覚めた草花が初々しく芽吹いているころである。それを確かめたくても、遙か遠隔の僻地に来てしまったいまは、どう望んだところで叶わぬ希いである。親も、家族も、世間からも見捨てられた前科者であっても、その体内には、温かい人間の血が流れているのだ。郷里の肉親や家族を偲んで感傷的になったとしても、ここでは誰も嘲笑う者はいなかった。
夜が深くなると、営舎の外が一段と騒がしくなった。いまだに冬装備を解こうとせずに、いつまでも居坐っている冬将軍を、春の木枯しがそれを追い払うかのように吹き荒れて、兵舎の窓ガラスを叩きはじめたのである。