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偽帝国消滅の日
――裁かれた運命の八月十五日――
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その年、昭和二十年(一九四五)三月の下旬、ソ連と満州(現中国東北部)との北部国境線の大地は、まだ春の訪れさえも知らされずに分厚い雪に覆われていた。
大隊本部で国境線への動員を下令された唐櫃中尉は、受領した部隊編制名簿を自室で読み終えるなり、それをいきなり机上に叩きつけた。
「なんだ、この編制は!」
と、唾棄した表紙には、孫呉北東部国境線独立監視中隊と、もっともらしい部隊名がついていた。
独立とあるからには、現在所属の連隊麾下からは切り離されるということを意味していたが、これは作戦上のことだから合法と認めるとしても、釈然としないのは、その命令の中心的内容であった。
それにしても、監視中隊とは傍目には立派で聞こえはいいが、なんのことはない、それは、連隊の表面上の体面を繕うものでしかなく、実際は、小隊にも満たない編制であった。しかも名簿に記載されている兵隊は、下士官と若干の現役兵を除けば、あとは某かの法を犯した犯罪者の寄せ集めで、戦闘部隊の兵士と称するにはあまりにも程遠い存在であった。
唐櫃は、名簿の末尾に記されてある乱雑な走り書きを想い起こして、ますます嫌悪感を露わにした。
それにはこう記されてあった。
『尚監視中隊ハ作戦任地ニテ編制スルナルヲ以テ指揮官ハ速ヤカニ任地ニテ兵員ノ教育訓練ヲ完了スルトトモニ万全ナル警備体制ヲ整ヘ任務ヲ遂行スヘシ』
つまり、兵員の殆どが囚人で、それも未教育のまま軍隊へ徴兵されて、この北の涯の国境線へ送られて来るということである。
唐櫃の属する連隊本部は、練達した将兵を南方戦線へ大量抽出させた穴埋めとして、残存兵力を温存させるための処置として、人間の屑として扱われているこれら犯罪者を、軍の捨駒の楯として受け入れ、ただでさえ困難をきわめる北満の涯ての、それも、作戦上もっとも重要な国境線へ囚人を配備させるという、軍隊の常識を逸脱した命令を唐櫃中尉に下達したのである。連隊の参謀に言わせれば、それは絶対数の要員が足りないからだと、唾を飛ばして一喝するだろうが、しかし、このようないい加減な作戦命令を受領した指揮官にしてみれば、上部の命令だから口にこそ出さないが、誰もが眉間に皺を寄せて憤怒を露わにしたにちがいなかった。
唐櫃も、無論同様であった。忿懣やるかたない面持ちで自室の窓辺に立つと、西の空にぶよぶよと揺れる赤い夕陽の下に展開する雪原を見つめた。そこは、晴れた日の黄昏時にだけ見せてくれる幻想的とも思える茜色に輝く雪の曠野がそこにあった。その光景を眺めていると、自分が戦争の渦中に置かれていることなど微塵も感じさせなくなるほどの、それは荘厳とも言えるほどの夕景であった。
日本本土で三月の下旬と言えば、温かい地方の山々では桜の蕾が色づきはじめる季節である。だが、ここ北満には、なぜか桜の花は咲かない。唐櫃は、遠くの地平線を見つめながら、日本の華やかな桜花を懐かしみつつ、声の届かぬ遙か郷里を偲んだ。
あの日も、ちょうどいまと同じ季節であった。庭の桜の木の蕾が薄紅色に変わろうとしているとき、我が子の旅支度をととのえながら、母は強がりを言ったのだ。
「いいかい武志、お前はお父ちゃんとは別の道を択んだ以上、お前は天子様の赤子として立派なお勤めをしなければいけないよ。お前は一人っ子でお母ちゃんに甘えて育ったわがままな淋しがり屋だから、どこへ行っても弱音を吐いたり、里心を持ってはいけないよ。いいね。お前は自分の意思で軍人になったんだ。だから、お前がどこで死のうと、お母ちゃんは、悲しんだり泣いたりはしないからね。だってそうだろ、お前は天子様に仕える股肱の軍人を択んだんだ。だからお前もそのつもりで、お母ちゃんのことは忘れてお国に奉公するんだよ」
母は、小さな肩を丸めて声を殺して嗚咽した。
しがない会社員を勤めた挙句に、ただの一兵卒で北支の戦場で死んだ夫のあとを、この母親は、女の細腕で、身を粉にして我息子を育てあげたのだ。世間では、晴れの門出と出征を祝うが、この母親にとってのそれは、我が子と永訣する、まさに死出の旅へ送り出す心境なのである。
その母親の苦衷は、唐櫃には痛いほど伝わっていたが、軍人を志した以上、いまさら女々しい態度はできない。
唐櫃は、薄くなった母の肩にそっと手を添えて、気休めにもならない言葉をかけたものだ。
「職業軍人になったからって、母ちゃん、その人間は必ず死ぬときまったわけじゃないよ。心配しなくても、僕は生きて帰って来るよ。母ちゃんのいる、ここへさ……」
その母は、もういない。これまで身を粉に生きて来た無理が祟ったか、風邪を拗らせ、肺炎を併発させてあっけなくこの世を去った。訃報を受け取ったのは、ソ満国境線で対峙しているソ連との開戦に備えて、大本営が昭和十六年七月に発動した関東軍特別演習(関特演)のさ中の動員先の北満、はじめて知る孫呉という辺境の地に在所する部隊であった。
それからの唐櫃は、決して郷里を偲ぶまいと心に誓ったが、陰膳を据えて、我が子の無事を祈願しながら死んだ孤独な母を想うと、言い知れぬ侘しさがこみ上がって、胸の内に小さな棘が刺さったような疼きを覚えた。
望郷の念に駆られるのは唐櫃だけではない。殺伐とした軍隊の兵舎に生きる兵士たちも、切実な思いでこの夕景を眺めているはずである。
自ら軍人を志望した唐櫃と大きく異なるところは、彼らは、たった一枚の赤紙(臨時召集令状)によって強制的に家族や肉親と引き離され、未来につづくはずの希望に満ちた生活を毟り取られ、好むと好まざるとにかかわらず、郷里から数千キロも隔たった、この北の涯てに送りこまれたという悲劇がこめられているということである。彼らは、茜色に輝く雪原を眺めるたびに、故郷に残した家族を偲び、母や恋人を偲んで、胸の内を痛めているにちがいないのである。
その兵士たちの掛声が、残雪を踏み荒らした泥濘の営庭で、全身を泥だらけにして喊声を上げていた。この兵士たちは、特別臨時召集兵として軍隊へ徴兵された、所謂「二国」(第二国民兵)と称される補充兵たちである。彼らは、初年兵教育掛の絶え間ない怒声を浴びながら、不慣れな木銃を手に、兵隊の基礎課程である銃剣術の訓練を受けているのである。
現役であれ補充であれ、地方では社会的に高い地位にある者でも、商家の老舗に生まれて高学歴を擁した息子であっても、いったん兵隊として軍隊へ召集されれば、地方では許された個人の特権的階級の優劣などというものは一切尊重されない。軍隊では、人間の権利を剥奪された、単なる一個の消耗品として平等に扱われ、死ぬためだけの道具として殺人兵器に改造されるのである。
昭和十八年(一九四三)以降、日本は、南方の戦局が多端となってからは、兵器はもとより、練達した将兵の損耗が顕著となり、大本営は、日本本土からと、満州全域に配備している在満関東軍の兵力を南方や沖縄へ大量出兵させるという動員令を発令した。それも、二十年初頭を迎えるころには、既に十四個師団が抽出されて、このときの関東軍は、実質的には蛻の(もぬけ)殻同然となっていた。唐櫃の属する連隊も例に洩れず、連隊単位から大隊単位へと縮小されながらも動員が繰り返され、その多くは南方戦線へ送られ、二十年初冬には沖縄へと動員された。
大本営は、関東軍の武力が気魄になるのを憂慮して、その穴埋めとして、既に兵隊としての機能も体力も失いかけている老弱な二国の補充兵を駆り出し、それらの要員を満州各地の部隊へ送りこんだ。その再編制も漸く(ようや)終盤を迎え、ここ北満の部隊も、どうにか形ばかりの編制がととのったばかりであった。
唐櫃は、営庭の老兵たちを窓越しに見つめて、
「我が関東軍は精兵なり、か」
と、皮肉の嘆きを呟いた。
そのはずである。どの顔も干涸らびた沼のように萎びていて、その体躯は、まるで病的とも言える虚弱な姿形であった。したがって木銃を突くその動作も、自分の意志とは無関係に働いて、一打ごとに嗄れ(しわが)た掛声を発して息を上げていた。
無理もない。彼らは、既に戦う兵隊としての資格を返上して、これからは人生の終盤へと自船の舳先をそれへと向けはじめた年齢なのである。
だが、それだからと言って、演練に手加減は加えられない。老若関係なく、教科どおり公平に「必勝の信念」が叩きこまれる。気力体力とも劣弱な老兵は、それだから、ますます気後れして動作が緩慢になる。それが助教の下士官を苛立たせもし、助教の助手がここぞとばかりに出て来て気合いをかけるのである。
この助教助手は、初年兵教育を終えたばかりの現役の上等兵であったが、これがまた気力気迫とも充実していて、助教の下士官が不得要領の老兵たちを叱咤すると、彼は、間髪入れずに動いて、老兵たちの肉体めがけて、怒声と木銃を容赦なく突きまくった。
助教助手は、本来は中隊の古参兵長か訓練精到の上等兵が務める役目である。初年兵教育期間を満了したばかりの兵隊が助教助手を務めることは、殆ど例がないと言っても過言ではないが、このことは、練達した優秀な兵隊が動員されているため、中隊の人事を掌る准尉が、再編要員として残していた一選抜の上等兵候補の現役兵を急遽上等兵に進級させて、それを助手として任命せざるを得なかったという、苦しい実情がそこに秘められていたのである。
それにしても、この教育助手は、自分を余程優秀な兵隊と自負しているらしい。自分の親ほども歳の差のある老兵に対して、虚空を引き裂かんばかりの怒声と罵声を浴びせて、手にしている木銃を容赦なく老兵に突きまくっていた。
老兵たちは、そのたびに、悲痛な顔つきをしてその場にうずくまる。すると、今度はその横腹めがけて、助手の呵責のない強烈な軍靴が襲った。
老兵は、朦朧とした意識のなかで、伸びきったバネのようにノソリと立ち上がると、また同じ動作を繰り返しては有難くもない木銃の洗礼を頂戴していた。
苦り切った顔で唐櫃がその様子を眺めていると、部屋の扉を乱暴に開ける音がして、それへ眼を向けると、将校が入って来た。
「あさって発つんだってな」
と、その将校は入るなり言い放って、営内靴の踵で(かかと)また乱暴に扉を閉めた。この男は、部隊内に数いる同僚のなかで、唐櫃が唯一心を開いている神野中尉であった。
両手には、軍隊では殆ど口にすることのできない貴重な灘の清酒が提げられていて、左の脇には洋酒の角瓶を挟んでいた。神野も、出兵先こそ異なるが、唐櫃同様このたびの動員組の一人である。
神野は、唐櫃の寝台にずかりと腰を下ろすなり、
「おい、そこの湯呑みを持って来い」
と、将校鞄から包みを出して広げた。包みからは、小さく裂かれている鯣が(するめ)出て来た。
神野は、その一切れを口に挿んで、唐櫃が差し出した盆の上の二つの湯呑みに清酒を注いだ。
「いまから惜別の宴を開こうぜ」
神野と差し向いに坐った唐櫃は、近頃では滅多に口にすることのない清酒の銘柄に眼を細めた。
「ほう、灘の菊正宗か。贅沢は敵、食糧窮乏の時節に、こんなものがよく手に入ったものだな」
「なに、ちょいと連隊長の居室からくすねたのさ。あすこは貢物の宝庫だからな」
真面目な顔で白い歯を見せた神野に、唐櫃は苦笑交じりにうなずいた。まんざら冗談でもないのである。連隊を統率する最高指揮官の部屋には、一つや二つ物がくすねられても気づかぬほど、それほど不正な品が積まれてある。
その調達先不明の芳醇な酒を一口喉に通した唐櫃が、
「うちの村松准尉に聞いたが、お前、出発の日程が早まったんだって?」
と、訊くと、神野は、湯呑みの酒を一息に煽って、空になったそれに酒を満たしながら答えた。
「列車運行上の都合らしくてな、急遽あしたときまった。孫呉駅集合は〇六〇〇だ」
「お前は俺の後へつづくものと思っていたから、俺は明日にでも、お前を料亭幸楽へでもと考えていたんだが……」
「このご時世だからな。参謀部の気分で算盤は如何様にも弾かれるからな。ま、いいさな。いつ出されてもいいように、心の準備だけはできているからな。早いか遅いかのちがいだけだ」
と、神野は口許で軽く笑って湯呑みを空けた。
この男の豪快な呑みっぷりは、なにもいまにはじまったことではない。唐櫃が喋っているあいだに何杯目かを呑み干していて、既に一升瓶の半分が減っていた。
唐櫃は、二口目の酒を口に含むと、それを舌で軽く弄んで、芳醇な香りとともに酒を胃腑へゆっくりと流しこんだ。喉を軽く刺戟する酒の余韻が消えるころには、神野の湯呑みは空になっていた。
その湯呑みに酒を満たしてやりながら、
「ところでお前、暢気に構えているが、身辺整理は済んだのか?」
と、訊くと、神野はさらりと言い払った。
「身辺整理? そんなものは俺には必要ない。他の将校連中は、可愛いスーちゃんとの想い出作りに忙しいようだがな、俺にはそんな面倒な奴はいないから、却ってサバサバしているよ。それよりも、お前とこうして吞めるのも、おそらくこれが最後だろうからな。冥途での土産話にじっくり呑んでおきたいのさ」
と、冗談とも本気ともつかぬ顔で笑うと、唐櫃は、それを生真面目な顔で受けた。
「バカな奴だな。それなら尚更じゃないか。こういう状況だからこそ、今生に悔いは残さんものだぞ」
「確かに、それも冥途への手土産に相応しいかもしれんが、しかしな、俺にとってのそれは、自我の煩悩に蔓延る性欲の悪足掻きにすぎん」
「どういうことだ?」
唐櫃が怪訝な顔をすると、神野はニタリと笑った。
「俺の個人的意見を述べればだな、身辺整理、つまり、世間一般に言えば性欲だ。兵営に拘束されて、日常的に自由を束縛されている兵隊が色めき立つのはわからんでもないが、営外居住が許されて自由奔放に生きている将校が、そんなものに拘る(こだわ)のはナンセンスだよ。しかし、人間って奴はエゴイズムだからな、死んでしまえば叶わぬ欲望だからと、あした死ぬのなら、生きているいまのうちに情欲の煩悩を祓っておきたいと考えるのは共通した思考なんだろう。だから、誰もがそれに倣ってくだらん無様な痴態を演じるんだ。俺は、そんな一過性的な熱病に犯されたくはない。ま、早い話がだ、生きてりゃ煩悩を癒す快楽は彼の地にもあるってことだからな。だから俺は焦らずにだな、生きることが許されている限りは、本能の趣くままに生きることにきめているのさ」
「相変わらず気儘な奴だな、お前は」
と、苦い笑みを浮かべた唐櫃に、神野は、
「まあ聞けよ」
と、片手で制して、
「俺が言いたいのは、つまり、こう言うことさ」
と、湯呑みの酒を干してつけ足した。
「俺はこう思うんだ。女房は勿論だが、婚約者や恋人がいるとな、危機に直面すると、俺は肝腎なときに命が惜しくなって判断が緩慢になると思うんだ。部隊を預かる指揮官って奴は窮屈だよ。どんな局面に接しようと、指揮官は遅疑も逡巡も(しゆんじゆん)許されんからな。俺は自分の性格をよく知っている。だから、愛だの恋だのとかいう面倒なものを持っていると、俺は戦闘の直前に指揮を遅疑させるにちがいないんだ。だから恋愛はしないのさ。お前から見れば、それは気儘な空威張りの言訳にすぎんと嗤うだろうが、早い話がだな、束縛のない身の上のほうが、必要且つ最低限の手続きで、何事にも縛られずに、あと腐れなく済まされて気を楽にして死ねるってことだ」
唐櫃は、今度は反駁しなかった。神野の言うことも一理あることだと思ったのである。死の顎門に自ら跳びこんで行く軍人に、将来の希望も約束もありはしないのだ。そんなものは、所詮空手形に過ぎない。だから、唐櫃が愛した女には、こう言って別れを告げたのである。
『僕は、いつかは戦場に出て征く。そして、君も僕も、互いが無事でいることを心で祈るだけの存在になってしまう。殊に君は、僕が確実に生きて帰るという保証も望みもないままにね。そんな暗澹とした毎日を君に過ごさせるわけにはゆかない。それよりも、君は、君の新しい人生を考えるべきだ。君の本当の倖せは、軍人の僕を愛することじゃない。もっと素晴らしい自分の倖せを見つけて将来を掴むことだ。この僕の辛い気持、わかってくれ』
これが中央の司令部勤務で戦場へ赴く心配がなく、のほほんと椅子を暖めているだけの軍人であったならば、唐櫃はこうは言わなかったはずである。戦闘部隊の多寡が知れた下級の士官では、愛する女を自分の腕に犇と抱きしめて護ってやることはできないのである。軍人である以上、いったん戦場へ赴けば、生還の見込みはそのときの運次第である。軍隊での立場上のちがいこそあれ、その点は、兵隊と大差はないのだ。
軍人を愛した女は惨めな存在である。女は、溢れ出る涙で頬が濡れるにまかせて、髪を振り乱して走り去った。いま、その愛する女も、母親もいなくなった男に残されたものは、神野同様、天涯孤独の身体一つである。
営庭で、軍歌演習がはじまった。軍歌は、猛々しい進軍歌であったが、二国の老兵たちには、軍歌など歌ったことがないのだろう、嗄れた集団の蛮声は、歌唱の随所で音程のはずれた声が入り混じって、それが却って奇妙なハーモニーとなって心に沁みるから不思議であった。
その蛮声を聴きながら、神野が言った。
「ヨーロッパや太平洋の各戦域は忙しいことだが、それに較べると、ここは平穏そのものだ」
と、空虚な笑みを浮かべて、
「関東軍のこの静謐がいつまでつづくかわからんが、願わくば満州をこのままにして、俺たちを戦争の埒外に置いて欲しいものだな」
ぼそりと本音を呟いて、酒を口に含んだ。
双方ともに国境を侵さないというソ連との不可侵条約のお蔭で、いまは確かに平穏である。だが、それも短い期間の気休めであり、やがては南方や太平洋戦域同様に満州全土が劫火と化すであろうことを、この二人の下級将校は既に承知している。
「その太平洋だがな」
と、唐櫃が言った。
「本当のところはどうなんだろうな。ミッドウエーの海戦で、海軍は艦艇の大部分を損耗したらしいんだが、そのせいでじり貧状態に陥っ(おちい)て、いまでは南方海域の制海空権も危ないそうじゃないか。実際のところ、いまの海軍はどれほどの戦力を保持しているのか、さっぱりわからん状況だ。大陸部(大本営陸軍部)が発表したガタル(カナル)の転進だってそうだ。誰が考えても、あれは島を放棄した撤退だよ。兵站線が延びるだけ延びて、補給の見込みが期待できなくなってだ、それがために陸軍は持久できずに撤退を余儀なくされたんだ、と俺は考える。転進か撤退か知らんが、これまでは、それを必要としないだけの能力があったんだろうから、まだ救われたが、これからの太平洋島嶼の陸軍部隊は……」
兵站線の延びた孤島で、物資の補給が途絶したとなれば、必然的に死が訪れるのは自明である。
「……中央の奴らだっていい加減じゃないか。都合の悪いことは捏造するか隠蔽するかして、自分たちは過ちを犯さない聖人君子でいやがる。新聞も新聞だ。軍部の弾圧を怖れて活字をぼかして報道しやがるから、なに一つ真実が伝わってこない。だから、俺たちは、そのぼやけた活字のなかで物事を判断するよりテがない」
上層部を露骨に罵った唐櫃に、神野は声を出さずに口だけで笑った。
「お前が他の将校のように、大本営発表を威丈高に妄信しないから、俺は安心してお前と話が出来るよ。そう。お前の言うとおりだ。海軍には、いくらも艦艇が残っとらんのは事実のようだぞ。軍令部は、軍需生産部門に増産のハッパをかけているそうだが、生産部門では、戦闘の損耗速度に製造が追いつかんと嘆いているらしい。殊に航空部門は悲惨だ。飛行機はどうにか造れても、それを飛ばす搭乗員を養成するにもガソリンの著しい欠乏からそれができん。艦建工数のかかる軍艦に到っては尚更だよ。だから輸送船の代用に、建造中の民間漁船や既存の商船を徴用して、軍需物資や兵員の輸送船用に改造して、それを艦隊に配備させているそうだ」
「商船はまあいいとしても、漁船の動力機関はいまも原始的な焼玉式エンジンだろ? その漁船を艦隊にか?」
唐櫃は一瞬絶句した。
「……それが事実なら、海軍は、それで戦争継続が可能と考えているのかな。馬力のない簡素な焼玉エンジンの改造船にどれほどの対戦火器を装備しているのかしらんが、所詮は民間の漁船だ。そんなものを艦隊に配属させて、それが戦力として期待できるのか。無意味な消耗の上塗りをするだけだろ!」
「そのとおりだ。改造船には対空機関砲程度の火器は装備されているらしいが、そんな火力などは、なきに等しい代物だ。それよりも問題なのは、これら改造船には感度の低い無電気は搭載されているらしいが、肝腎な電探装備がないことだ」
「盲目の航海ってわけか。敵機や潜水艦の格好の餌食ってわけだな」
「そうさ。駆逐艦の護衛なしの上に、それでなくても鋼板の薄い船腹だ。制式艦とちがって防水隔壁もないから、土手っ腹に魚雷を一発喰らえばそれまでだ。つまり、肉眼で敵を発見したときには、こっちはもう雷撃されて沈没している寸法ってわけだ」
神野は皮肉をこめた嗤いを浮かべた。
「つい一月前もだ、大連港を出港した陸軍の輸送船団が南西諸島附近で敵潜の雷撃を受けて、二個連隊が丸ごと海没したのは知っているだろ」
唐櫃はうなずいた。
「あれがいまの我が帝国の内懐事情だよ。つまり、海軍は援護の戦力すら失っていることを証明しているし、海を渡る陸海軍将兵は、文字通り犬死にを覚悟しろってことだ」
唐櫃は、今度は強くうなずいた。神野の言うとおりなのである。日本の国力は、真珠湾の開戦劈頭からその程度の戦力でしかなかったのだ。それを政府も軍部も承知しておりながら、おのれの名利と権勢慾に固執したばかりでなく、肝腎な戦争の帰趨を蔑ろにした結果が今日の不幸を招いていることを、国軍の中枢に胡坐をかいている高級軍人どもは、誰一人として真剣に考える者はいなかったのでる。
唐櫃は、湯呑みの酒を呑み干して寝台を下りると、机上の名簿を拾い上げて神野に差し出した。
「後学の足しにもならんがな、読んでみろ」
名簿を受け取って、それに眼を通した神野は、読み終わってから軽蔑の嗤いを浮かべた。
「刑期半ばの受刑者を徴兵して現地で教育か。戦争を遂行する関東軍中枢の作戦参謀事態が戦国時代古い思考の人間の集団だからな。だから作戦による動員部隊の編制一つ作成するにしても無責任なものさ。作戦遂行上の員数さえ揃えば、それで奴らの面目は立つんだからな」
「話にならんよ。この時勢だから部隊編制云々は仕方がないとしてもだ、問題なのはその名簿の中身だよ。服役中の囚人を獄中から駆り出して、それもいつ勃発してもおかしくない一触即発のソ連との国境線へ動員して俄教育ときた。師団司令部か連隊参謀か知らんが、奴ら、どいつもこいつも雁首だけは一人前に揃えてやがるが、頭の脳味噌はまるで案山子だ」
唐櫃は、隣の部屋に声を叩きつけるように言い放った。
隣室の大隊長は、反骨的な部下が自分の手から離れることに満足して、いまごろは副官とほくそ笑んでいるにちがいないのだ。
唐櫃は、それを意識しながらつづけた。
「……戦局は、確かに逼迫しているよ。満州全域の部隊が南方や沖縄へ抽出されて、猫の手も借りたいほど、兵隊の数が足りないのも承知だ。だから俺は徴兵云々を非難しているんじゃない。強盗やかっぱらいの前科者結構だよ。兵隊としての訓練が精到であればな。それをだ、重要な国境線に未教育の囚人を送りこんで、それも肝腎な実包訓練ができない危険地帯で、どうやって兵隊の演練度を高めるんだ!」
そう。命令が不服なのではない。不服なのは、兵隊としての教練を受けていない未熟な人間を、高度で緻密な監視技術を必要とする国境線へ、いきなり投入させるという不条理である。それも国境線の現地で俄教育で済ませようという厳格な軍隊にあるまじき、分別のない作戦参謀のいい加減な計画に怒りを覚えるのである。
唐櫃は、憤怒とともに酒を呑み干すと、窓辺に立って、営庭に顎をしゃくった。
「あの兵隊たちはまだ救われているよ。少なくとも兵一般の教練を会得して、まがいなりにも戦闘要員として実戦に参加できるからな」
その営庭の老兵たちは、午後の教練を終了して、教官の訓話を神妙な顔つきで聴いていた。この老兵たちの殆どは、前に触れた、俗に「二国」と呼ばれる満十七歳から四十五歳までの補充兵役対象の召集兵である。
二国とは第二国民兵役認定者のことで、二十歳の徴兵検査でいう甲種と乙種を除く、丙種・丁種・戊種の兵役除外者のことである。戦争の長期化で損耗した兵力補充のために、昭和十六年(一九四一)十一月十五日に施行された兵役法施行令改正公布により、昭和六年以降の第二国民兵認定者を予備役及び乙種補充兵同様に召集対象とし、動ける者は文字どおり根刮ぎ動員とされたのである。
ちなみに、乙種は第一補充兵と第二補充兵とに分けられ、丁種は不合格者として兵役免除となり、戊種は次年度再検査を受けることにより兵役の有無を判定された。つまり、第二国民兵役認定者とされた乙種と丙種以下の合格者は、一時的に兵役を免除されて普通の社会生活を送ることができたが、いったん召集令状(赤紙)が下達されれば、いかなる理由があろうともこれを忌避することは許されず、天皇の命の下に兵役の義務と責任を背負わされたのである。
営庭に居並ぶ昨日までの彼らは、本来なら兵役免除となるだけに、どれも虚弱な体躯の持主ばかりであった。
そのなかには、健全な者(矮小であるがために徴兵基準に適合せず不合格となった者)もいて、虚弱ながらも夫婦で築きあげた商売でやっと食えるようになった商店主や、優秀な弟子を幾人も抱える大工の棟梁や、まもなく一人前になろうとする教え子の姿に眼を細める教職員とか、企業で言う中間管理職も数多く含まれていた。これらは徴兵されても、すぐに家計が困窮するという懸念はなかったが、それ以外の兵役者は、その日を汲々として生きる男たちで、一家の大黒柱をもぎ取られると、忽ちにして家族を窮乏のどん底に陥れる危惧を背負った者たちであった。
泣いても、叫んでも、喚いたところで、もうどうにもならない。彼らは、奇跡が起こらない限り、二度と旧の生活には戻れないところに運ばれてしまったのである。
これから彼らが手にするものは、これまで自分の手に馴染んだ勤労用具ではない。兵隊にとっては我が生命よりも大切に扱わなければならない、大元帥陛下(天皇)より下賜された一挺の陸軍九九式(三八式)歩兵小銃である。
唐櫃と肩を並べて窓辺に立った神野は、営庭の老兵たちをしみじみと見つめて嘆息した。
「あれがいまの大日本帝国の現実なんだな。あんな二国まで徴兵するようでは、もはや日本の戦勢は立て直すこともできんところまで逼迫しているんだろう。そんな二国を現役と同等な教練をしたところで、国家の干城になれるはずがないんだが……」
神野は、心中を素直に表現にしたに過ぎなかったが、唐櫃のほうは別の受け方をした。受領した隊員名簿で先程から燻りつづけている憤怒が神経を逆撫でして、抑えていた怒りが肚の底から一気に噴き出してしまった。
「戦勢が逼迫したら、どんな人間でも戦争に駆り出してもいいという軍中枢の考えが、そもそも無責任なんだ。冗談じゃないぜ。この三月十七日に硫黄島が玉砕した。その前にはマキン、タラワ、トラック島が陥落して、太平洋の大日本共栄圏は事実上崩壊したも同然じゃないか。それでも大本営は、負け戦を転進とすり替えて国民を欺いている。海軍においてもそうだ。ミッドウエーの海戦で多くの艦艇や将兵を失って戦果らしきものは上げていないのに、軍令部は、それを恰も(あたか)戦勝しているかのように報道してごまかしている。奴らの言うそれがもし事実なら、連合艦隊は太平洋のどこかで健在なはずだろ。その艦隊は、どこにいるんだ? 長官の山本(五十六=連合艦隊司令長官)大将がブーゲンビルで戦死(昭和十八年四月十八日)して以来、海軍はまったくの音無しの構えじゃないか。そんな状態でだぞ、この上あんな劣弱な老兵や、その名簿にある囚人や伝馬船同然の漁船を徴用してどうやって我が軍の戦局を好転させるというんだ!」
「まあ落ち着けよ」
と、神野は、唐櫃の軍部への痛烈な誹謗を苦々しく笑って、唐櫃の肩に手をかけた。
「俺たち下級士官は、所詮一個の消耗品だ。命令されるがまま動く捨駒なんだよ。俺たちの死が、皇国に対してどれほどの意味と価値があるか、そんなことは、もうどうでもいいことなのさ。つまり、形振り構ってはいられないところまで来ているんだ」
神野は、唐櫃の机の煙草を抜き取って火を点けた。
「……日本の臨終はそう遠くないだろう。俺も、お前も、残念ながらその瞬間を見届けることはできんが、敵は既に沖縄の水際にまで迫っている。そのことから判断して、海軍の戦力は事実上消滅していると考えていいだろう。そんな現状で、どれほどの兵力が現地戦線へ到達するかわからんが、運良く任地へ上陸したとしてだ、このずぼらな中隊長は、その地で果敢に戦闘の指揮を執るんだよ。敵の圧倒的火力を前に、それも無意味な犬死にとわかっていながら遅疑なく部下に突撃命令を下すんだ。そして俺も確実に死ぬ。名も、顔さえもわからん、敵の狙撃兵の銃弾によってだ……」
神野は、もの哀しげに笑った。
「そうだよ。このくだらん戦争が継続される限り、これは繰り返されるんだ。あの兵隊たちも、俺も、お前も、早晩、そういう運命を辿ることになる」
神野は、営庭のそれらに視線を配りながらつづけた。
「お前は陸つづきの国境線に赴くが、生きていられるのもソ連との開戦までだ。レニングラードでのドイツは苦戦しているとのことだから、これの臨終も時間の問題と考えていいだろう。つまり、ソ満国境の静謐が崩れるのはそのときだと俺は見ている。そのソ連と戦闘になれば、残念ながら関東軍の勝算は九分九厘見込みはない。つまりだ、軍のこの破滅的暴走を停められるのは、陸軍大臣でも参謀総長でも天皇でもない。敵対国の砲弾だってことだ」
営庭での教官の長い訓話が終わって、兵たちに解散の号令がかけられたようである。
それを合図に、夕食の飯上げに急ぐ初年兵たちが、他班と競うように兵舎へ駈けこんだ。
神野は、二国の老兵たちが消えた営庭に視線を留めて、煙草の煙とともに幽かな溜息をついた。
「お前の気持ちは、俺にはよくわかるよ。命令は異なるが、俺も二国の大半を連れて行くんだ。戦場での運不運は、人間の年齢や善悪とは無関係だ。銃弾は分別をもっていちいち飛んでは来ない。だから、生死の百分比は誰にも予測できん。死ぬ奴は、どれほどの防禦をしていようと死ぬし、生き残る奴は、それがどんな極限状況下であろうと、ほんの一秒の偶然の結果で生き残るんだ。それが戦場の方程式だよ。兵隊とちがって、俺たちは軍人になるべくして職業軍人を択んだ。だから、戦って死ぬのは当然だし、命令が下達されれば、いかなる命令であろうと、それを遂行せねばならん立場にある。それだけのことさ。……兵隊たちには気の毒なことだが……」
神野は、淡い煙を吐いて、炊煙の立ち上る辺りに視線を巡らせた。兵舎と炊事場を繋ぐ通路では、炊事当番の初年兵たちが、重そうな食罐((しょくかん)飯や副食を入れる容器)を提げて、慌ただしくそれぞれの中隊へ散っている。先程まで鮮やかな茜色に染められていた雪原の曠野のそこは、いまは水墨画を思わせるかのような色のない風景へと変わろうとしていた。
「子供のころ……」
と、唐櫃は言った。
「駅で出征する軍人を見送ったことがあった。その人は、カーキ色の軍服が似合う陸軍士官だった。国家に一命を捧げる殉国の志士たるその姿は、俺の眼には、軍人精神旺盛な立派な士官に映った。それが上辺だけのものだとは知らずに、でっかくなったら俺もその人のような軍人になって、国に尽くすことを誓って胸に熱い炎を燃やしたものだ。それが俺の間違いだったことに気づいたのは、陸士を出て、隊附将校として勤務に就いてからだった。俺は、職業軍人というやつに嫌気が差しはじめた。くだらん理由からだ。公正峻厳であるはずの軍人が、階級権力を笠に、その権力を別の目的で行使している奴らばかりだったからだ。なにが殉国の志士だ。軍隊には、殉国の志士なんて奴は一人もおらん。どれもこれも、軍人の本分を棚上げにして私利私欲に奔走だ。都合が悪くなると、自分の所業を平然と下級者に転嫁して、自分だけが清廉潔白な軍人のような面でいやがる!」
唐櫃は、隣の壁に向けて声を荒げた。権力を笠に、不正に取得した軍隊の物資で私腹を肥やす、その狡猾な大隊長に当てつけたのである。
文句があるなら、俺の前に出て来て、貴様らの日頃の所業を釈明してみろ!
物的証拠を握って開き直っている唐櫃には、上官に対する畏敬の念など更々ない。あるのは軽蔑だけである。
その思いが、唐櫃の口をさらに毒づかせた。
「将校ってなんだ? 俺もお前も、軍人として少なくとも将校の資質を堅持しているつもりだが、その俺やお前と、軍の物資を横領して利益を壟断している将校と、いったいどれほどのちがいがあるんだ」
「ちがいはないさ。兵隊に言わせれば、将校はみんな一つ穴の狢に見えているさ。金筋や星の数に関係なく、な」
神野は、素気なく返して卑屈に笑った。
「軍隊は腐敗しきっている。軍人は、事挙げせぬことをいいことに、収賄、横領、略奪等々の嘘で固めた軍人の巣窟だ。そんな軍隊にだ、仮に公正峻厳な将校がいると、上の連中は身の置き場がなくなる。だから、そいつが同僚や上官の不正を指摘しようものなら、そいつは真っ先に最前線直行の片道切符を切られる。口封じにな」
と、隣室の耳を憚りもせずに言い放った。
酒の力に便乗しているとはいえ、この二人の会話は既に危険の度合いを超えている。
かまうものか! どうせ明日には出て征く身だ。
「実力もなく、大言壮語する奴がだな……」
と、唐櫃が、それに拍車をかけようとしたところへ、突然、扉が叩かれた。
二人は、大隊長室から副官か誰かが動いたものと思って、互いの顔を見合って薄ら笑ったが、そうではなかった。扉を叩いたのは、中隊長の当番兵であった。
「当番、食事を持ってまいりました」
入って来たのは二名であった。それぞれが神前に貢物を献上するかのように盆を高々と捧げて、二食分の夕飯を厳かに運んで来た。
「どうしたんだ、それは?」
と、唐櫃が二食分のそれを見て訊くと、当番兵の一人が、この夕食は、唐櫃とともに監視哨へ赴く事務室の曹長が、訣れ行く二人のために、神野中尉の中隊に断りを入れて配慮したものだと答えた。
「ダ・ビンチの絵画のような晩餐とまではいかんが、そうか、本郷がな、お前、いい部下を持ったな」
神野が白い歯を出して笑った。
翌朝の払暁、営庭に立った神野は、
「今度会うときは、唐櫃、靖国の杜のどこかだな」
別れ際に、この一言を残して、神野は、二百五十余名の将兵を引き連れて営門を出て行った。