ランシンの宝物
『義兄上殿、久しぶりだな』
『ああ、レイモンド殿。貴殿もいたのか。前触れもなくすまない』
『何ですの、兄様。急に通信を要請してくるとは。まさか、また私に泣き付くおつもりですか?』
魔道具越しに連絡を寄越してきた水鏡の中の兄を、シュリーは鼻で笑う。すると、釧の皇帝は顔を真っ赤にして声を裏返した。
『私がいつお前に泣き付いたと言うのだ!?』
『あらあら、まあまあ。お忘れですの? 先日酒に酔って連絡を寄越したではありませんか。本命の妃に嫌われたとかで泣きべそをかいてらっしゃったのは何方だったかしら』
『嫌われてなどいないっ! 少々誤解があっただけで……』
『その誤解を解いて差し上げたのは誰だと思っているのです? この私でしてよ』
『うっ……兎に角! 何でもかんでもお前に泣き付くわけじゃない! 私も皇帝としてそれなりにやっているのだ。それに、今日連絡したのはお前ではなく藍芯に用があるからだ』
「ランシンに?」
それを聞いたレイモンドとシュリーがランシンの為に水鏡の前を空けると、後ろに控えていたランシンは静かに前に移動した。
先程まで妹に見せていた荒々しい態度を消し去り真面目な顔をした紫鷹は、無表情のランシンへ静かに告げる。
『藍芯、其方の父が死んだ』
「……」
『今朝方、獄中で死んでいるのが見つかった。其方の父、藍海にはまだまだ余罪があるが、今回新たに隠し財産が見つかってな。先帝の側近として数々の罪を犯した藍海には横領の嫌疑も掛けられていた。全ての財産を差し押さえることになるが、構わないな?』
『はい。陛下のお好きなように』
淡々と返事をして、ランシンはすぐに退がった。
「ランシン……」
そんなランシンを見て声を掛けようとしたレイモンドを、シュリーがそっと制す。
首を横に振る妻を見て、何か事情があるのだと察したレイモンドは、それ以上何も言わずに引き下がった。
『……用件はそれだけだ。一応、伝えたぞ……』
後味が悪そうにごにょごにょと呟く兄との通信をブチリと切ったシュリーは、一切表情を変えないランシンに顔を向け言い放った。
「ランシン。ここはもういいから、休んでらっしゃい」
ヒラヒラと手を振ったシュリーに丁寧に拱手したランシンは、何も言わずその場を去って行った。
「……シュリー。ランシンは大丈夫か? 父君が亡くなられたのなら、釧に帰してやるべきでは?」
気を遣ったレイモンドに、シュリーは静かに呟いた。
「今はそっとしておいてやりましょう。ランシンの父と言っても血の繋がりのない養父です。それに、苦い過去もある相手ですのよ。ランシンも忘れてしまいたいでしょう」
「そう、なのか……?」
戸惑う夫を見て、シュリーはランシンが去って行った方を見る。
「……陛下になら。お話ししても、ランシンも文句は言わないでしょうね」
妻に促されて腰を下ろしたレイモンドは、何やら只事ではない様子に身構えてシュリーの話を待った。
「私の父である釧の先帝が祿でもない男だったのは陛下もよくご存知でございましょう? 父は好色家で、私の母を始め数多の女に酷い仕打ちをしてきましたわ。ある時、悍ましいことに父は女に飽きて美しい容姿の男子にまで手を出すようになったのです」
それを聞いたレイモンドの眉間に皺が寄る。シュリーもまた、自身の父親に対する嫌悪を隠しもしなかった。
「そんな中、父の側近の座を狙っていた宦官の藍海は、身寄りのないランシンを見付け養子にしたのですわ」
生殖機能を取り除かれた宦官は子を望めない。しかし、養子縁組によって後継者を得て財産を分け与えることがあった。
本来であれば一代で終わるはずの地位を、宦官はそのようにして次代に引き継ぎ勢力を拡大させていった。
当時養子のいなかった藍海が目を付けたのが、孤児だったランシンだったのだ。
「拾われた当初は優しくされていたようです。本当の父のように慕っていたと、いつだったかランシン本人の口から聞いたことがあります。それがある日、何も聞かされず宮廷に連れて行かれ、無理矢理宦官の身に落とし込められたとか」
宦官になる為には何を失わねばならぬのか、聞いたことのあるレイモンドは痛々しい表情で声を詰まらせた。
「何故、幼い子供にそのようなことを……」
「ランシンを一目見て気に入った父の命令だったようです。美しい男児を側に侍らせたかったのでしょう。ランシンは幼い頃から整った容姿をしていましたから。そして直ぐに黒蛇釧を着けられ皇帝の前に引き摺り出されたと。ですけれど、これは全てランシンの養父、藍海の思惑でしたの。彼は最初から皇帝に取り入る道具として使う為に幼いランシンを拾ったのです」
「なんと残酷な。では、ランシンは……」
沈んだ夫の声に、シュリーは首を振った。
「当時のランシンは幼過ぎて、父の好みにはまだ足りなかったとか。父はランシンを側に侍らせながら、食べ頃に育つのを楽しみにしていたと言いますわ。本当に、我が父ながら反吐の出る男ですこと」
吐き捨てる妻に、レイモンドは恐る恐る問い掛けた。
「それで。その後どうなったのだ?」
シュリーは、暗い空気を晴らすかのように胸を張って、いつもの笑顔を夫に向けた。
「この私が、そのような父の蛮行を見過ごすはずございませんでしょう?」
それを聞いたレイモンドは、ホッと胸を撫で下ろした。
「ランシンのことを知った私は、父に掛け合ったのです。成人まで私がランシンを預かり、鍛え上げて万能の宦官にしてみせると。父は面白がって私にランシンを預けましたわ」
それからランシンはシュリーに様々なことを教え込まれ、シュリーが父に宣言した通りの万能の宦官となった。
ランシンが成人を迎える前のこと。
『藍芯、私はこの国を出るわ。お前が望むのであれば、特別に連れて行ってやらないこともないけれど?』
『……お供させて下さい』
短い会話だけで、ランシンはシュリーと共に祖国を抜け出す覚悟を決め、この国に来たのだった。
ランシンは、王宮の中庭で空を見上げていた。
養父の死の報せは、ランシンにとってそこまで衝撃ではない。寧ろ先帝と共に死ななかったのが不思議なくらいだ。
ランシンの養父、藍海は、先帝崩御の際に紫鷹の手によって投獄された。先帝に阿り犯した数々の罪状により本来であれば斬首刑になるところを、命だけは助かりたかった藍海は、先帝の悪事の数々を暴露し、加担した者達を密告することと引き換えに、終身刑への減刑に持ち込んだのだ。
どこまでも浅ましい養父。獄中で虚しく死んだと聞いたところで、惜別の情など微塵も無かった。
しかし、養父の話を聞いて幼い頃のことを思い出したからか、無性に腹立たしくて遣る瀬無い思いがランシンの胸中に渦巻いていた。
慕っていた養父に裏切られ、信じられないような苦痛の果てに悍ましい皇帝の前に連れ出されたあの頃のランシンは、人では無かった。ただただ養父が出世する為の餌であり、皇帝が愉しむ為の玩具だった。
人としての尊厳を踏み躙られ、悔しさと恐怖に泣き叫んでも、その様を見下ろす皇帝は喜ぶだけだった。
そんな日々の中でいつの日かランシンは、笑うことを忘れてしまった。
白く小さい手が目の前に差し出された、あの日までは。
過去を思い出し、独り佇むランシンの耳に。鈴の音が鳴るような、軽やかな声が落ちる。
「ランシン」
声の聞こえた方を振り向いたランシンは、そのまま膝を折った。
「姫様」
そうして、駆け寄って来た幼い少女と同じ高さで目線を合わせる。
「どうして悲しい顔をしているの?」
カノン・ノクス・アストラダム。透けるような金色の髪と、黒曜石の瞳を持つ美しい少女。その風貌は、父譲りの金髪以外は母である王妃の生き写しのようだった。
「お願い、悲しまないで。あなたが悲しいと、私も悲しいの」
ランシンの顔を映した大きな黒い瞳に、今にも溢れ落ちそうな涙を溜めて。小さな丸い掌が、ランシンの頰に柔らかく触れる。
ーーーー温かい。
自分のような穢れた者が、こんなに無垢な存在の側にいてもいいのだろうか。
裏切りの象徴である黒蛇釧の痕は、今でもランシンの左腕にハッキリと残っている。
それでも、レイモンドもシュリーも、ランシンをとても信頼して側に置いてくれている。
自分はこんなに醜く汚れているのに。これ以上、この綺麗な人達の近くに、この眩しい場所に、立っていてもいいのだろうか。
心に闇を抱える度、未だにズキズキと痛む黒蛇釧の痕。それを覆い隠すランシンの左袖を、幼い王女は小さな手でぎゅっと引き寄せた。
「ランシン、大好き。私もお兄様も、お父様もお母様だって、みんなランシンが大好きよ。だってランシンは、私達の家族だもの」
白くてふっくらした手が、ランシンの目の前に差し出される。
「だから、もう泣かないで」
その手を見て、ランシンの脳裏に幼い日の鮮烈な記憶がフラッシュバックした。
『いつまで泣いているの』
目の前の王女と同じ顔、同じ声で、同じように手を差し出しながら、遠い昔に言われた言葉。
『私がお前を救い出してあげたのだから、もう泣く必要など無いでしょう。ほら、さっさと顔を上げなさい』
顔も声も仕草も同じなのに、どうしてこうも、性格が違うのか。
ランシンは、涙を流しながら笑ってしまった。
「宝宝、你是我的宝物」
「……? 宝?」
零れ落ちたランシンの呟きを真似して首を傾げた王女に、ランシンはもう一度。差し出された手を握り締めながら、ハッキリと告げた。
「あなた様は私の宝物です」




