育才【第二部 完】
レイモンドは、ふと気配を感じて顔を上げた。
「どうした、遊びに来たのか?」
優しく微笑んだ父の顔を見た王子、アシュラは隠れていたソファの影から出て来ると、恥ずかしそうに頰を染める。
「父上、お忙しいですか?」
「いいや。ちょうど一息吐こうと思っていたところだ」
レイモンドの一言でお茶を運んで来たランシンが、アシュラの分のお菓子を応接用のテーブルに並べた。
羽ペンを置いたレイモンドは机を離れ、アシュラの正面に移動して深く腰掛ける。
「おいで。一緒に食べよう」
丸い頰に抑え切れない嬉しさを滲ませたアシュラは、父と同じ色の瞳を輝かせてランシンからホットミルクを受け取った。
「勉強はどうだ? 辛くはないか?」
父の問いに、アシュラは少しだけ考えてから答えた。
「学ぶことは楽しいです。でも……母上は時々無茶なことを言います」
息子の話を聞いて興味深そうに目を瞬かせたレイモンドは、息子の皿にチョコレートケーキを取り分けてやりながら口元を緩ませた。
「母上はどのような無茶を言うのだ?」
ぷくぷくの唇をむぅっと尖らせたアシュラは、先日母から言われたことを思い出して父に告げた。
「あまり父上の邪魔をしてはダメだと。父上はお忙しいのだから、遊んでもらうのは少しの時間だけにしなさいと言われました」
不満げな息子の様子と、息子にそう言った妻の真意を理解したレイモンドは、思わず笑ってしまった。
「ハハハ、そうか。ふむ。……実のところ、私はそこまで忙しくはない。愛する家族との時間を確保できる程度には、優秀な部下達がいるからな」
レイモンドがそう言うと、アシュラは愛らしい頰を上気させた。
「じゃあ、また遊びに来てもいいですか?」
「勿論だ」
優しい父の声にホッと胸を撫で下ろしたアシュラは、トテトテと父の側に来ると、ずっと思っていたことを父に打ち明けた。
「母上は、父上のことが好き過ぎます。父上にメロメロなんです。父上は立派にお仕事してるのに、母上は父上のことばっかり考えていてちょっと変です。遊んじゃダメだって言うのも、本当は自分が父上と一緒にいたいからです」
小声でそう耳打ちしてきた息子の言葉に一瞬だけ虚を衝かれたレイモンドは、ニヤける口元を隠すことができなかった。
「そうか。アシュラはそんなふうに思っているのか。……ふっ」
笑いを堪え切れないレイモンドの後ろで、控えていたランシンもコッソリと肩を震わせていた。
「なにか可笑しいですか?」
何故笑うのかと。純真なまん丸の瞳を向ける息子に、レイモンドは何とか真面目な顔で答えた。
「いや。そなたがそう思うのも無理はない。そうだな……そなたが大人になり、愛する人ができたら。その時はきっと分かるはずだ。好き過ぎて変なのは、母上だけではないと」
「……?」
父の言葉の意味を反芻する前に、アシュラは嫌な予感がしてハッと扉の方を見た。
その瞬間、バンッと勢いよく扉が開く。そこにはアシュラが今だけは会いたくなかった人物が、目を吊り上げて立っていた。
「アシュラ・デイ・アストラダム! この私に隠れて陛下と遊ぼうなど、百年早くてよ」
「は、母上っ……!」
「お前の父上は、私のものよ。本来なら陛下の空き時間は全て私と過ごす為のもの。それを時々お前に貸してあげているだけだということを忘れないで頂戴」
息子相手に本気の嫉妬を繰り出す王妃。王宮の日常風景でしかないこの光景に、使用人や護衛は今更何も思わなかった。
悪戯が見つかったかのように固まる息子を見て不憫に思ったレイモンドは、穏やかな瞳を妻へと向けた。
「シュリー。そなたも一緒にティータイムはどうだ?」
「……陛下がそう仰るのなら」
いそいそとレイモンドのすぐ側まで来たシュリーは、幼い王子が目の前にいることなど関係なくそのまま愛する夫の膝の上に座り込んだ。
「シュリー……アシュラが目の前にいるのだが」
「それが何だと言うのです。私の定位置はここですわ」
息子相手にマウントまで取り出した妻に、レイモンドは苦笑しながらも、今更かとそれ以上は何も言わなかった。実際にアシュラはそれが両親の通常だと思っているので、特に気にしたふうもない。
それよりも母に怒られるのでは、と怯える息子に、シュリーは溜息を吐いた。
「授業をサボったことについては、お前を叱るつもりはないから安心しなさい。どうせ今日の講師のジーニーがドラドのところに行きたくてお前を唆したのでしょう。まったくあの男は」
昔馴染の困った行動に頭を抱えたシュリーは、ソワソワする息子へフォークを手渡してやった。
母からのお許しをもらってお利口にチョコレートケーキを食べ始めたアシュラを見て、レイモンドは瑞々しい苺を差し出しながら妻へと問い掛ける。
「義兄上殿はどうだった?」
「相変わらずですわ。皇帝になったからと言って、あの凡庸さはそうそう変わりません。まあ、私の弟子達に見限られていないだけ、成長したようですけれど」
当然のように夫の手から苺を食べたシュリーは、肩をすくめた。
「会議さえなければ私も通信したかった」
「……近々こちらに来ると言ってましたわ。祝いの品と酒を持って行くから義弟とまた飲み明かしたいと伝えてくれ、とのことです。それと、アシュラ。お前にもお土産を持って来るそうよ」
「伯父上が? 楽しみです!」
ニコニコと笑ったアシュラは、母方の伯父である釧の皇帝の顔を思い浮かべて口にチョコを付けたまま微笑んだ。
アストラダムで日々研究が進む魔道具。その中には遠方にいる者と水鏡を通して会話できる通信具や、予め設定した特定の位置同士を繋げて行き来を可能にするゲート等が開発されていた。
試作品として運用が始まったばかりのそれらは、実際に魔塔と共同で開発を主導したジーニーではなく、セリカ王妃の名で世界に発表され話題を呼んだ。
試行のため王妃の祖国である釧と繋げられた通信具とゲートは、稼働には大量の魔晶石が必要なため濫用はできないが、実際に釧と通信したり双方から人や物を送り合うことは問題なくできるようになっていた。
それを通じて先程まで兄と通話していたシュリーは、もうすぐ起こる慶事の祝いに来たいと言い張る兄の声を思い出して溜息を吐いた。
「そうか。前回も義兄上殿はなかなかの品を送って下さったからな。今回も期待しよう」
「さて。どうでしょうかしら。ただ陛下と飲み明かして愚痴を聞いてもらいたいだけだと思いますけれど。アシュラ、口に付いているわ」
手を伸ばして息子の口元を拭いてやったシュリーは、目を細めて柔らかく微笑んだ。
「まったく。もうすぐ兄になると言うのに。お前はいつまで経っても可愛い子供のままね」
言葉とは裏腹な優しい母の手付きに、アシュラは頰を染める。
「シュリー、あまり身を乗り出すと危ない」
そんな母を引き寄せた父は、膨らんだ母の腹を何度も優しく撫でていた。
その後、暫くは家族団欒のひと時が続いたのだが。しかし。
「あら、陣痛が始まったようですわ」
和気藹々とティータイムを楽しんでいたアストラダム王国国王レイモンド二世と王子アシュラは、王妃の一言にポトリとフォークを取り落とした。
あら、お茶がなくなってしまいましたわ。のテンションで発せられた王妃の言葉を受けて、周囲に一瞬の沈黙が落ちる。そうして次の瞬間には、王宮は大混乱の渦に飲み込まれた。
「シュリー!」
「母上!」
「娘娘!」
「王妃様!!」
「今すぐ侍医を!!」
アストラダム王国のセリカ王妃は、またしてもティータイム中に産気づいて第二子を産み落としたのだった。
「何を笑っているのですか?」
アシュラは、隣に立つ美しい花嫁から怪訝そうな声を掛けられて我に返った。
「ああ。いや……。妹が生まれた時のことを思い出してな。あの日、父上の言っていた言葉の意味が、今やっと分かった気がする」
「……?」
「君に対する私の愛の重さはどうやら、母だけでなく父にも似ているようだ」
アシュラが参列者の方にチラリと目を向ければ、ドラドとジーニー、マイエにベンガー、ドーラ、侍従長、マドリーヌ伯爵夫妻、ガレッティ侯爵夫妻、マクロン男爵夫妻、ダレルにシルビア、ランシンとリンリン。
見知った顔が並ぶ中で、一際目を引くのは釧から駆け付けてくれた伯父と叔母夫婦、妹、そして並び立つ両親。
愛する国で愛する人々の中、愛する女性と愛を誓えるこの瞬間の幸福を噛み締めたアシュラは、改めてストロベリーブロンドの美しい髪を持つ花嫁に目を向けた。
「左手を出してくれ、レリア」
緊張した面持ちで素直に左手を差し出す花嫁を可愛いなと思いながら、アシュラはその細く白い手に口付けを落とし、愛を込めてそっと揃いの腕環を嵌めたのだった。
その王妃は異邦人 第二部 完
読んで頂きありがとうございます。
これにて本編完結です。
長らくお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。
……と、言いたいところですが、シュリーとレイモンドが好き過ぎて、あと少しだけ番外編を書こうと思います。
これまでのような毎日更新ではありませんが、1話完結の番外編を5話ほど書く予定です。
不定期となりますが、もう少しだけお付き合い頂けますと幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。




