才色と彩色
「シュリー!!」
朝に飛び出して行って夕方に戻って来た王妃を出迎えた国王レイモンドは、あまりにも早い帰還に目を丸くする家臣達を気にも留めず愛する妻を抱き寄せた。
「無事か?」
「勿論でございますわ。かすり傷一つございません。お約束致しましたもの。私が陛下とのお約束を違えることなど有り得ませんわ。帝国軍は既に引きました。我が国の勝利でしてよ」
「そうか。そなたが無事なら何だって良い。どれ程生きた心地がしなかったことか」
愛する夫の切ない声を聞いて胸が締め付けられたシュリーは、信じて待っていてくれた夫が可愛くて仕方なかった。
ぎゅうぎゅうに抱き締められるのが嬉しくて堪らない。産後の肩慣らしにもならなかったが、一仕事終えた後なのでシュリーは思う存分夫の腕に甘えた。
しかし、何処からともなく咳払いが聞こえる。それもそうだ。戦に行くと言って飛び出した王妃が僅か半日で帰還したのだ。報告を聞きたい家臣達が遠回しに合図を送るのも当然のこと。
「ああ、そうね。早く陛下に会いたくて置いて来てしまったけれど、もうすぐリンリンとジーニーが戻りますわ。お土産を持たせているので降り立つ場所を空けてあげて下さいまし」
今朝リンリンの正体を知った家臣の三人は、あの怪物が王宮に来るのか……と恐々としながらも早速準備を始めた。
シュリーが思う存分レイモンドの腕に擦り寄って満足した頃に帰って来たリンリンは、その毛むくじゃらで尻尾のたくさん生えた巨体を王宮のバルコニーに落ち着けると、咥えていた何かをぺっと吐き出した。
ゴロンと転がったのは、白目を剥いて気絶している一人の男だった。
「この者は?」
「ラキアート帝国の皇弟、エルデリック公ですわ。今回の進軍の指揮を執っておられたとか。帝国軍は撤退させましたが、捕虜として連れて参りました」
「皇弟!? 帝国はわざわざ皇弟を送り込んで来たのか?」
「どうしても魔晶石を手に入れたかったようです。腐っても皇族ですから、この者がいれば帝国との交渉も有利に進められましょう。敗戦国からはたんまりと賠償金を頂かなくてはいけませんもの」
ニンマリと笑ったシュリーは、リンリンの涎に塗れ無様に横たわる皇弟を見下ろした。
「侵略目的で宣戦布告もなく他国に攻め入り、三万の大軍を率いて押し寄せて来たにも関わらず、手も足も出ずに撤退。更には交渉に赴いた王妃との一騎討ちでそれはそれは見事な負けっぷりを演じて醜態を晒したのです。この男はこの先、生きている方が辛い辱めを受けるでしょうね」
ケラケラと笑う王妃にドン引きしながらも、マドリーヌ伯爵は状況を理解し即座に皇弟を連行するよう指示を出した。
「王妃様。我が国を守護して頂いたこと、改めて御礼を申し上げます」
ガレッティ侯爵が頭を下げれば、シュリーは何でもないことのように気安く笑った。
「私はこの国の王妃として当然のことをしたまでよ。それよりも、この後の交渉が重要。交渉は貴方達に任せるわ。賠償金の他に、帝国の街道を無償で自由に行き来する権利を捥ぎ取って頂戴。それで帝国を隔てた東方の国々との貿易がより有利になりますもの。宜しいですわよね? 陛下」
「ああ。勿論だ。王妃の言う通りに」
謹んで国王夫妻の命を受けた三人は、恭しく頭を下げた。
「一つだけ、皇弟は気を失う前に帝国のダイヤモンド鉱山をやるから赦してくれと命乞いしていたわ。その話は決して受けないように。必ず金で解決なさい」
「ダイアモンドの鉱山!? 王妃様、それは受けるべきでは?」
思わず叫んだマクロン男爵へ向けて、シュリーは首を横に振った。
「いいえ。帝国は今、国力を著しく落としている。これは帝国から独立した大公国の領地が帝国の国力を担う龍穴だった為。龍穴の恩恵を失った帝国はこの先枯れゆくのみよ。恐らくそのダイアモンド鉱山も既に枯れ果てている可能性が高いわ」
「まさか! それが本当だとしたら、帝国は今回の馬鹿げた侵攻の賠償にゴミ屑を寄越そうとしたということ。見下げ果てた者どもですな」
勝手に攻め入って来たばかりか、枯れた鉱山を押し付けようとは何事だ、と怒る臣下の三人は、改めて作戦を立てる為に顔を見合わせた。
「帝国は捨ててはいけないものを捨ててしまったようね。この先帝国の未来には衰退しかないでしょう。可哀想に」
ちっとも可哀想とは思っていない笑顔で呟いたシュリー。その言葉を聞いていたレイモンドは、ただただ苦笑を漏らすしかなかった。
「うぅ……いつの間に着いたんだ?」
リンリンの背にぶら下がって眠りこけていたのか、頭を押さえて起き上がったジーニーが呻き声を上げる。
「久しぶりに遊べて楽しかったでしょう?」
よろめく昔馴染を見下ろしてシュリーが声を掛ければ、ジーニーは恨めしそうに王妃を見上げた。
「否定はしないけどさぁ、移動方法はもうちょっと考えて欲しいな。リンリンは君以外に対して基本的に辛辣過ぎるんだよ」
ブツブツと文句を言いながら立ちあがろうとしたジーニーは、次の瞬間。勢いよくぶつかって来た何かによって地面に押し戻された。
「ジーニー!」
「え、」
「どういうつもりだ! 急にいなくなったと思ったら、戦場に向かっただなんてッ! どれだけ心配したと思って……」
わけが分からないジーニーは、よく見知った顔が目の前で涙ぐんでいるのを見て放心した。
「……え、……えぇ?」
「何なんだ! 君はいつも、風変わりで突飛で珍奇で理解できない言動ばかりして。散々私を翻弄しておいて……」
ジーニーの胸ぐらを掴んだドラドは、声を震わせて言い募る。当惑するジーニーは、為す術もなく揺さぶられながら働かない頭で取り敢えず謝罪を口にした。
「う、うん。ごめん。いや、今回は僕も急に連れ去られただけなんだけど、いや……え。……ええぇ!?」
叫ぶジーニーを見てやれやれと肩をすくめた国王夫妻は、二人を残してそっとその場を後にしたのだった。
「シュリー。そなたに渡したいものがある」
ディナーを共にした妻へと、国王レイモンドは静かに口を開いた。
「あらあら、何でございましょう。頑張ったご褒美でも下さるのかしら」
楽しげなシュリーが首を傾げれば、レイモンドは頬を掻きながらソワソワと視線を動かした。
「その……気に入ってもらえるか分からないが」
「まあ。陛下ったら。私が貴方様からの贈り物を喜ばないとお思いですの? 心外だわ。陛下から頂けるものでしたら、どんなものでも嬉しいに決まっておりますわ」
それを聞いたレイモンドは、一つ頷くと立ち上がって愛する妻の前に跪く。そしてシュリーの左手を手に取ると、兄に金玉四獣釧を渡してからずっと空いている細い手首を見詰めた。
「そなたの祖国の風習を聞いてから、ずっと思っていた。この先そなたの左腕に嵌る証は、そなたが他の誰でもなく私のものだという証であって欲しいと」
「シャオレイ……」
優しい手付きで左手に通された、新しい重みを感じてシュリーは息を呑む。
久しく空だったシュリーの左手首には、金の台座にオブシディアンを施した真新しい腕環が嵌められていた。
「ルキア王国では、婚姻した夫婦は左手の薬指に揃いの指環を着けるらしい。だから……」
シュリーに嵌められたものと全く同じ腕環を取り出した夫を見て、シュリーの心臓がきゅうっと締め付けられる。
「私にも、私がそなたのものであるという証を着けてくれ」
腕環に施されたオブシディアンと同じ煌めきを乗せたシュリーの瞳が揺れて、レイモンドの黄金の瞳とかち合った。
「陛下は、いつもいつも。私を殺す気ですの?」
吐息を震わせながら手を伸ばしたシュリーは、それを受け取ると愛する夫の左手を取った。
「いつも言っているだろう? 私を置いて死なないでくれと」
目を細めて優しく微笑むレイモンド。その左腕に揃いの腕環を通したシュリーは、言いようのない感情が迫り上がってきて飲み込まれそうになるのを必死に堪えた。
しかし、駄目だった。まさかこんな贈り物一つで、胸がいっぱいになって涙が出るなんて。そんなことが起こり得るなんて。シュリーは生まれて初めて知った。
「……知っておりまして? 釧を交わして釧の国を創った二神は、夫婦だったと言われておりますの」
「そうなのか。それは知らなかった」
建国神話の神々の行動を容易くなぞらえておいて、偶然だなと笑うレイモンド。他でもない彼こそが自分の夫であるという幸福を噛み締めながら、シュリーは柔らかく微笑んだ。
「我愛你、小蕾」




