百里之才
『莫泰然だと? あの使節団の一員の? アストラダム語ができるという理由だけで抜擢された下級貴族にいったい何の用があるんだ?』
昨夜、自分を呼びに来た影の薄い男の顔を思い出しながら訝しむ兄へ向けて、シュリーはおざなりに手を振った。
『良いですから、早く連れて来て下さいまし』
妹の態度に舌打ちをしながらも、紫鷹は言われた通りに莫泰然を呼び出した。
『お師匠様! この瞬間を待ち侘びておりました!』
やって来た莫泰然は、開口一番にそう叫んでシュリーの元に跪いた。
その一言でレイモンドと紫鷹はこの男の正体を悟り呆れた顔をする。
『まったく! またお前の弟子か! 本当に何処にでもいるな!』
吐き捨てた兄に構わず、シュリーは久しぶりに間近で対面した弟子へと視線を向けた。
『首尾はどうかしら?』
『完璧でございます。合図があれば直ぐにでも、釧の宮廷に入り込んでいる弟子仲間達が皇帝の暗殺を決行致しましょう』
『そう。処理についても抜かりないわね?』
『勿論にございます。陛下にはご乱心の果てに憤死して頂く予定です。お師匠様直伝の技を持つ薬師が劇薬を煎じ、お師匠様が育て上げた暗殺集団が始末します。事が露見することはありません。決行場所である後宮の妃嬪、皇帝の護衛の武官、調査を行う御史台、事後処理をする文官、全てこちらの手の者にございます』
『聞きましたでしょう、兄様? 相手は父上と、黒蛇釧を着けている側仕えの宦官のみですわ。ランシンのおらぬ宦官なんぞ、盾にすらなりませぬ。兄様は旗印となり、私の弟子達を率いて下さればそれで良いのです。そうすれば兄様が自動的に皇帝となりましてよ』
ニヤリと笑って自分を見る妹に空恐ろしさを覚える紫鷹は、戸惑いながらこれまで大人しく自分に従っていた使者を見た。
『いったい、いつから……この者が今回の使節団に同行することすら見越していたというのか?』
驚愕する兄を鼻で笑いながら、シュリーは何でもないことのように説明する。
『私をこの国に送り届けた前の使節団は父上の怒りによって皆殺しにされたはず。であれば、新たな使者の選定にはアストラダム語を話せる者が必須。この莫泰然は身分だけでは到底使節団に加わることが難しいですが、語学が堪能なので必ず選出されると踏んでいたのですわ』
『全てはお師匠様の計画通りにございます。私は最終的なお師匠様のご意思を賜るために今回の使節団に潜り込んだのです。その他にも皇太子殿下ご出立に合わせて政務の権限を得た丞相や大尉、御史大夫もお師匠様の弟子にございます』
紫鷹は絶句した。妹の弟子が宮廷に蔓延っているのは知っていたが、まさかここまでとは。
『既に筋書きはできておりますの。あとは役者が揃うだけなのですわ。私は釧を出る前に、弟子達に最後の指示を出して参りました。次に釧の国に金玉四獣釧が現れた暁には、その所有者の指示に従うようにと』
ピンと伸ばされたシュリーの細い指の示す先には、兄の手に通された金の腕環が煌めいていた。
『紫蘭……私の為にここまで……』
自分の為にここまでの準備をしてくれたのか、と。紫鷹が感動に打ち震えていると、シュリーは穏やかに微笑んだ。
『何を仰いますの、兄様。まさか私が無償で動くとでも?』
『……は?』
『当然、対価を頂きますわ』
にっこり。それはそれは楽しげに美しく気高く笑ったシュリー。
その妹の微笑の邪悪さに、紫鷹は震え上がった。
『た、対価だと……? な、何を言っているんだ? いったい、私に何をさせようと言うのだ!?』
後退る兄に向けて胸を張ったシュリーは、優美な仕草で己の手を胸に当てた。
『私には、師として。釧に残して来た数多の弟子達の未来を保障してやる義務がございますの。兄様が皇帝の座に就いた暁には、私の弟子達を重用し、政治の中枢に据えて頂きますわ』
『なっ……!』
『難しいことではございませんでしょう? 私の弟子達は優秀ですから。兄様のお役に立つはずですわ。私の弟子の多くは、父上から不当な扱いを受けたり家族を父上に虐げられた過去がありますの。兄様が父上のような暗君とならぬ限り、彼等は兄様に忠誠を誓うでしょう』
それは最早、脅迫だった。シュリーの弟子達を優遇しなければ、父と同じ目に遭わせるという、あまりにも恐ろしい脅し。
そして政治の中枢を任せるということは、それだけ紫鷹の皇帝としての権限も狭められるということ。父のような暴政など、罷り通ることすらしない。
下手をすれば政権がシュリーの弟子達に乗っ取られ、皇帝の権威など地に落ちるかもしれない。それ程までに、シュリーの要求する対価は大きかった。
『お前……! わ、私がやらぬと言えばどうするのだ!? 私が父上にお前の謀反を密告すれば、お前の弟子達の命は無いのだぞ!?』
『その時はこの場で兄様の息の根を止めれば済むことですわ。他の適当な兄弟に話を持ち掛けます。兄様、これは私なりの慈悲なのですわよ。長兄であり、皇太子である兄様を敬ってのこと。私はこれでも、兄様の才を評価しているのですわ』
『……ッ』
『言いましたでしょう? 私が兄様に手を差し伸べた時点でこの戦は詰んでいると。それは父上に限った話ではございませんわ。兄様、貴方様も同様に、既に詰んでおりますのよ』
厳かに微笑する妹に、言葉を失う兄。殴られたわけでもないのに満身創痍の兄へ向けて、シュリーは優しく声を掛けた。
『兄様。兄様が聖君である限り、私の弟子達が兄様の地位を脅かすことはございませんわ。寧ろ兄様は、その才を発揮して私以上に弟子達の心を惹きつけ導いて下さればそれで良いのです。兄様でしたらきっとできますわ。そう思えばこそ、私は兄様を選んだのです』
『紫蘭……』
これまでずっと自分を馬鹿にしてきた妹が、自分のことをここまで評価していたとは。
『分かった。そなたの言う通りにすると約束しよう』
疲れ果てた心で女神のような笑顔の妹に縋った紫鷹は、左腕を差し出し力強く頷いたのだった。




