高才疾足
『なっ!? 踏み潰した上に足蹴にして寄越した国宝を今更返せだと!? やはりこの金玉四獣釧に未練があるのか!?』
喚き出した兄に向けて、シュリーは怯むことなく言い放った。
『いいから早くお出しなさいませ。そんな歪な釧を持っていては、兄様の権威が落ちるだけでございましょう?』
『!』
シュリーが指を鳴らすと、紫鷹の懐からひしゃげた金玉四獣釧が飛び出してシュリーの手の中に収まった。
『何を……ッ!』
取り返そうと手を伸ばした紫鷹は次の瞬間、信じられないものを見る。
踏み付けられ潰れていた金の腕環が、妹の手の中で浮き上がり、くるくると回るにつれて元の形に近付いていく。
再びシュリーの手の中に落ちた腕環は、踏み潰される前の美しい形と四獣の模様を取り戻していた。
『私にとっては取るに足らぬものですが、釧の国では皇帝の象徴となる宝ですもの。新たな皇帝が歪な金玉四獣釧を着けているなど、皇家の恥でしてよ』
そう言ってシュリーは、元通りに修復された金の腕環を兄へと差し出した。
『どうして……ちょっと待て、〝新たな皇帝〟?』
理解が追いつかない紫鷹は、差し出された完璧な金玉四獣釧を前に呆然としながらも、妹の言葉を反芻した。
『左様でございますわ、兄様。父上のお怒りは避けようがございません。であれば、残る手は一つ。貴方様が、父上を弑して新たな皇帝となるのです』
『……!?』
絶句する兄の左腕を取ったシュリーは、そこに嵌められた銀の腕環の上から金の腕環を嵌めた。
『簡単なことでございましょう?』
クスクスと笑う釧の三公主、朝暘公主の位を賜る雪紫蘭は笑顔でーーーー彼女の夫にしてアストラダム王国の国王、レイモンド二世の言によれば、この時の彼女の微笑みは天使のようだったというーーーー釧の皇太子である兄に、謀反を唆した。
『な、な、何を!? 正気か、そんなことをすれば……ッ!』
『そんなことをすれば、どうなるのです?』
飛び上がった兄に相変わらず笑みを向け続けるシュリーは、何でもないことのように肩をすくめた。
『……わ、私の首が飛ぶではないかッ!』
言い募った紫鷹に向けて、シュリーは緩やかに首を振った。
『いいえ、兄様。父上を廃したところで、どうなることもございません。成功させれば良いだけのことです』
『……ッ!』
紫鷹は、目を見開いて妹を見た。
『父上は酒に溺れ、女に溺れ、女だけでは飽き足らず子供にまで手を出そうとする始末』
シュリーは一瞬だけ後方に控えるランシンを見てから兄に視線を戻した。
『国政は皇太子である兄様に丸投げし、軍事権は公主の私に預け、後宮に入り浸っては贅沢三昧を極める挙句、諫める諸侯を力で抑え付け、民のことなど二の次で、気に入らぬ者は斬り捨て、耳触りの良い言葉を吐く者だけを重用するような、暗愚な天子です』
『や、やめろ紫蘭! 堂々となんてことを』
畏れ多さに震える兄を無視して、シュリーは更に兄へと詰め寄った。
『暗君は天から見放されて天命が尽きてしまうのが世の常。天命の尽きた天子は歴史の中でどのような末路を辿りましたでしょうかしら? 歴史にお詳しい兄様ならよくよくご存知のはずですわ』
妹の迫力に気圧され、紫鷹の脳裏に恐ろしい言葉が浮かんだ。
『……易姓革命。つまり……お前はこのままだと、雪家の王朝が滅びると?』
『そうなる前に兄様が父上を廃し、雪家の天命が尽き果ててはいないことを天下に知らしめるのです』
『む、無理だ……私は剣すら真面に持てないんだぞ!? 父上を弑する……謀反など、私には絶対にできない!』
怯む兄を想定していたシュリーは、ニヤリと口の端を持ち上げて堂々と胸を張った。
『確かに、軟弱な兄様だけなら不可能かもしれませんわね。ですけれど、釧の軍事権を預けられ、史上最強の軍師と呼ばれ、女の身でありながら大将軍の地位まで授けられ、釧国内のみに飽き足らず周辺の蛮族をも討伐し東洋の統一を成し遂げた戦の女神は、誰だとお思いですの?』
ニヤリと笑ったシュリーがそう問えば、紫鷹はゴクリと唾を飲み込んで震える声で答えた。
『……我が妹。朝暘公主、雪紫蘭だ』
『その通りですわ。その私が、他でもないこの私が、味方になって差し上げると言っているのです。それでもまだ勝ち目がないと馬鹿なことを仰る気ですの? 逆ですわ。勝ち目がないのは父上の方です。この戦は私が兄様に手を差し出した時点で既に詰んでいるのです。どう転んでも結果の変わらない、勝ち戦なのですわ』
ケラケラケラ、と高笑いをする妹の怪物のような思考に恐怖を覚えながらも、紫鷹は懸命に頭を働かせた。
今、ここで決断しなければ、紫鷹にはもう道がない。
どうせ釧に戻ったところでこれまで以上の不遇を強いられるくらいなら、化け物のようなこの妹の手を取るべきなのか。
しかし、よりにもよって謀反などと。どうしてもそのような恐ろしいことを為せる気がしない。
紫鷹は、助けを求めるように一縷の望みを賭けて妹の隣に立つレイモンドを見た。
……そして後悔した。
昨晩、葡萄酒を飲み交わし、本当の兄弟のように分かり合えた気がしていた異国の国王は、気が狂ったように笑う悪魔のような妹を見て、それはそれは愛おしげに微笑んでいたのだ。
父親への謀反を意気揚々と語り高笑うその姿のいったい何処に、そんなに瞳を蕩けさせる程の魅力があるのか。紫鷹には到底理解できそうもない。
ーー正気じゃない。何なのだ、この夫婦は。
自分の中の常識など遥か彼方に飛ばされた紫鷹は、色んな意味で最強過ぎる夫婦を見ているうちに何もかもが馬鹿らしくなってきた。
『ああ、もう分かった! やってやろうではないか! 私もこの国に来ておかしくなってしまったようだ。まさかお前に頼ろうとする日が来るだなんて!』
頭を抱えて蹲った紫鷹がそう叫ぶと、シュリーはニヤリと笑い尊大な態度で兄を見下ろした。
『漸く決断なさいましたのね。兄様にしては上出来でしてよ』
『……』
若干苛立ちはしたものの、紫鷹は妹の高慢な態度を取り敢えず見逃してやることにした。今は頭の整理に忙しくそれどころではない。
『しかし、シュリー。いったいどうするつもりだ? まさかそなたが釧まで義兄上殿に付き従うわけではないだろう?』
それまで黙って妻の顔に見惚れながら話を聞いていたレイモンドが問えば、シュリーは煌めく瞳を夫に向けた。
『勿論、私が貴方様のいるこの国から離れることなどございませんわ。ちゃんと策は釧の国内に用意しておりましてよ。この計画は私が釧を出る前から既に始まっていたのですわ』
そして再び兄を見下ろしたシュリーは、まだ複雑そうな兄に向かって声を掛けた。
『ということで兄様。今すぐここに莫泰然を呼んで下さいますこと?』




