頓智頓才
「よく分からないが、そなたの役に立てたのなら何よりだ」
愛する妻と熱い抱擁を交わしたレイモンドがそう言えば、シュリーは黒曜石のような瞳を煌めかせて夫を見上げた。
「役に立てた、ですって? それ以上ですわ! 私はお二人で酒を酌み交わして下さいとお願いしただけですのに、あの分からず屋な兄があんなに大人しくなるだなんて」
金玉四獣釧を踏み潰し、タイミングよくやって来たジーニーが琥珀釧を放り投げたことで、シュリーの兄である紫鷹の常識にヒビが入った。
そのヒビの僅かな隙間に、レイモンドの人柄を見せ付ければ兄の意識を変える切っ掛けになるのでは、というのがシュリーの計画だった。
あとは少しずつ、レイモンドが治めるこの国を見せることで兄の凝り固まった思考を変えようと思った。
しかし、レイモンドは想像以上に兄の心を捕らえ、あの兄から共感さえをも引き出した。
他者を寄せ付けないことに関しては、シュリーよりもずっと頑固な兄。他人を信じず自身の力を過信し、我を通そうとするあまり空回る兄の姿を、色んな意味で残念な目で見てきたシュリーにとって、レイモンドに同情する兄の姿は信じ難いものだった。
「大袈裟だな。私はただ言われた通りに義兄上殿とワインを飲んだだけなのだが」
ぽりぽりと頰を掻くレイモンド。
思い返せばあの兄にとって、父のように上から押さえ付けるわけでもなく、シュリーのように劣等感を煽るでもなく、宮廷の者達のように皇太子の地位を利用しようと擦り寄るわけでもなく、ただただ一人の人間として歩み寄ろうとする者は、レイモンドが初めてだったのかもしれない。
故意か無自覚かは定かではないが、レイモンドは兄のその隙に入り込み完璧な方法で見事に懐柔してみせた。
レイモンドの見せた柔らかさこそが、あの兄の中でこびり付いて錆び付いた心を解いたのだ。
シュリーは、絶対的強者であり続けてきたが故に、人の心の機微に疎い。そしてレイモンドに出逢うまで、他者を理解しようと努力したことはなかった。
人々は口々にシュリーを最強だと言う。その頭脳も能力も才も、並ぶ者はいないと。実際にシュリーは、敗北というものを知らない。
しかし、これだけは分かる。シュリーはこの先、きっと永遠に、レイモンドには勝てない。シュリーはその事実を突き付けられ、噛み締める程に何よりも夫が愛おしくて仕方なかった。
「陛下はいつも、私の想定外のことをなさいますのね」
あの様子では、兄はきっと、明日にでも自分の元を訪れるだろう。そう確信したシュリーは、最終的には力尽くで脅しでも洗脳でもして兄を従わせようとしていた計画が狂ったと、冗談っぽくレイモンドに詰め寄った。
「そなたの邪魔をしてしまったか?」
眉を下げた夫を見て、シュリーはふふっと笑った。
「左様でございますわ。陛下はいつもいつも私の邪魔ばかり。何一つ思い通りにはなりません。貴方様に出逢わなければ、私は今頃自由に世界中を飛び回っていたでしょうに」
言葉とは裏腹に、シュリーの瞳にも表情にも、愛情がこれでもかと溢れ出ていた。その顔を見て様々なことを察したレイモンドは、妻の滑らかな頰に手を滑らせる。
「それでは私はこれからも、そなたの邪魔をし続けなければ。そなたは私だけの光だ。何処にもやりはしない」
グッと引き寄せられた腕の力が思いの外強く、ワインに火照った夫の体がいつもより熱く感じる中で、シュリーは楽しげな笑い声を響かせた。
一人の男の腕の中に束縛されて、こんなにも心躍る日が来るなんて。縛られることが何よりも嫌いだった過去の自分に教えてやれば、何と言うだろうか。
きっと、〝羨ましい〟と空虚な瞳で嘲笑うだろう。
酒を飲んだわけでもないのに、今この瞬間の幸せに酩酊したかのように酔い痴れるシュリーは、愛する夫の腕に自ら身を寄せた。
自分に擦り寄り微笑む愛らしい妻を見下ろして、つられるように笑うレイモンド。熱い抱擁を交わす二人の間で、シュリーの腹の膨らみは少しずつ存在を主張するようになっていた。
『あらあら、まあまあ。兄様、私に何かご用でもございまして?』
翌日、シュリーの元にやって来た兄の紫鷹を見下ろして、シュリーは楽しげに口元を綻ばせた。
『……話を、聞くだけ聞いてやらないこともない』
全く以って素直ではない兄を見て、シュリーの中の悪戯心が湧き上がる。が、優しくシュリーの肩を抱くレイモンドの手に窘められ、シュリーは大人しく兄の前に立った。
『釧に帰る気になりましたの?』
『ああ、そうだ。だが、お前は既にこの国の王妃として生きる道を決めたようだ。お前を連れ帰ることは不可能だと分かった。どうすれば父上の怒りを受けなくて済むのだ? 何か手があるんだろう? 聞いてやらないこともない』
尊大な態度だけは崩そうとしない兄に呆れながらも、こうして自分の意見を聞きに来ただけでも充分な進歩かと、シュリーは兄の態度については気にしないことにした。
『よろしいですわ。それでしたら、取って置きの方法をお教え致しますわ。そうですわねぇ。まずは、昨日渡した金玉四獣釧をお返し頂けますこと?』
図々しく手を差し出したシュリーに絶句した紫鷹は、微笑を浮かべる妹へと鋭い目を向けた。




