螻蛄才
『どいつもこいつも、私を何だと思っているのだ! 私は次期皇帝、皇太子だぞ! それを空気のように扱い、紫蘭ばかりを取り立てては引き合いに出し、私を凡庸だと馬鹿にするのだ! 悍ましく愚かしい奴等め』
顔を真っ赤にして叫ぶ紫鷹は、異国の慣れぬ酒に泥酔していた。
『義兄上殿、もうその辺に……』
『貴殿にこの苦しみが分かるか!?』
次から次へとワインを注いでは呷る紫鷹を止めようとレイモンドが手を伸ばせば、紫鷹は据わった目で義弟を睨み付けた。
『凡庸だと、平凡だと、何の取り柄もないと。妹の影のように扱われるこの苦しみが、分かるものか!』
泣き出す勢いの紫鷹を見て、レイモンドは静かに溜息を吐いた。
『分からなくは、ない』
『なんだと?』
『私も。平凡で掴みどころがないと、長年言われてきた。だから義兄上殿の気持ちがほんの少しは分かる気がする』
自らの杯を空にしたレイモンドは、自嘲気味に笑った。
『と言っても、私の場合は自業自得なのだが』
『どういうことだ、貴殿は民からも、あの妹からも愛され慕われているではないか。今の立場は順風満帆に手に入れた地位じゃないのか?』
レイモンドの言葉に興味を惹かれたのか、酔いながらも話を聞く姿勢を見せた異国の皇太子に、レイモンドは自らの境遇を話し出した。
『私は元々、優秀な王太子を兄に持つ第二王子だった。叔父であるフロランタナ公爵は私のことを、二番手の代替品だと称していたな。それくらい私にとって王位は遠かった』
『……』
王妃である妹に愛され、臣下に慕われ国民からも支持を受けるこの国王が。自分が未来で手に入れたい姿そのもののこの君主が、決して順調に歩んで来たわけではないと知り、紫鷹は衝撃を受けた。
『私の父である先王と、その弟であるフロランタナ公爵は昔から仲が悪くてな。子供心にそれを感じていた私は、大好きな兄とそんな関係になることが嫌で、幼少期から目立たぬことを心掛けていた。兄と対立する立場ではなく、影ながら補佐する立場でありたいと思ったからだ。その結果私は、アカデミー時代には平凡で掴みどころがない、影の薄い王子となっていた』
貴族派を従えていたフロランタナ公爵のように派閥を作ることもしたくなかったレイモンドは、友人すら作らなかったと語った。
それで王家が円満に、兄との関係が大人になってもずっと良好でいられるなら、それで良かったと。それだけが望みだったと。
『しかし、ある日突然その未来は奪われた。フロランタナ公爵の手により私の両親と兄が殺されたのは貴殿もご存知の通りだろう』
『それは……』
釧の皇家にアストラダム国王との縁談話が持ち上がった経緯は、紫鷹も既に聞かされていた。権威を恣にしていたフロランタナ公爵が、甥である若き国王レイモンドの権力を削ぎ意のままに操るために仕組んだものであったと。
『叔父の言葉は正しい。私は二番手の代替品だ。その為の教育は受けていたし、兄に何かあった場合の心づもりはできているはずだった。だが、家族を失い、信頼する友も臣下もなく、評判が良いわけでもなかった私は、軽んじられ政権を叔父に乗っ取られた』
横から手柄や評判を掻っ攫われ、惨めになるその気持ちが痛いほど分かる紫鷹は、いつの間にかレイモンドに感情移入していた。
『それは貴殿が悪いわけではない。人のものを奪う、下劣な公爵が悪いのではないか』
親身な義兄の言葉に、レイモンドは首を横に振った。
『いや、違う。悪いのは私だ。王族に生まれた以上、最悪の場合を想定しておくべきだった。王家を思い国を思うなら、兄に何かあった時に備えて自分の勢力を持つべきだったのだ。それで兄との仲が険悪になろうとも、兄に嫌われたくないなどという甘い考えは捨てるべきだった』
『……レイモンド殿』
揺れる黄金の瞳を見て、自分のことのように胸を痛めた紫鷹は、レイモンドの杯にそっとワインを注いだ。
『しかしな、義兄上殿。私は幸運だった。自己嫌悪と後悔と侮蔑にまみれた私の人生に、突如光明が差したのだ。私の道を照らし、翼を授け、この国に根を張らせてくれた存在がいた。誰よりも強く美しく聡明で、そして私を愛してくれる妻。私の王妃となったシュリーだ』
『……』
紫鷹は複雑だった。憎い妹のお陰で今の地位を手に入れたというレイモンドは、本当に幸せそうだった。
『シュリーはただ手を差し伸べてくれただけではない。私の心に寄り添い、愛することを教えてくれた。そうしてこの国さえも救ってくれたのだ』
妹の狡賢さは誰よりも知っている。だからこそ、妹であれば容易に政権をひっくり返したことも納得できるが、それがまた紫鷹の中に渦巻く妹に対する劣等感を煽る。
『義兄上殿。私は、独りでは到底立っていられなかっただろう。立ち向かうこともできず、叔父に国を乗っ取られ、無意味な人生を搾取されて早々に終えていたかもしれない。シュリーがいなければ、私の人生は今も暗闇の中だっただろう』
杯を呷ったレイモンドは、その真っ直ぐな金色の瞳を紫鷹に向けた。
『シュリーを……貴殿の妹を、頼ってみても良いのではないか』
『……ッ!』
息を呑んだ紫鷹は、ギュッと拳を握り締めた。
『己の信念や思い込みに囚われ過ぎていては、本当に重要なことを見逃してしまう。私はそれを、骨身に染みて知っているのだ。貴殿には、あのような思いをして欲しくはない』
『……』
黙り込んだ紫鷹へ向けて、レイモンドは柔らかく微笑んだ。
『要らぬ世話であったなら忘れてくれ。随分と引き留めてしまったな。久しぶりに〝兄〟と話せて楽しかった。感謝する、義兄上殿』
土産だと言ってワインを持たせたレイモンドは、考え込んだまま去っていく紫鷹の背を見送り部屋に戻ると、暗がりにそっと呼び掛けた。
「シュリー、これで良かったのか?」
「完璧ですわ、陛下! 流石は私の愛するシャオレイだこと」
するとそこには、何処からともなく姿を現したシュリーが、満面の笑みで両手を広げていた。




