才才し
『何なのだ……いったい、どうしてこんなことに』
捨てられた二つの腕環を見下ろしながら、釧の皇太子紫鷹は異国の地で独り途方に暮れていた。
左腕に着けられる腕環は釧の国では自らを示す何よりも大事な宝。それを必要ないと床に投げ捨てた、妹と名家の公子。
紫鷹は自らの左腕に光る銀の腕環を何よりも大切にしてきた。この腕環があればこそ、父から酷い罵倒を浴びようと、妹がその能力で民衆の支持を得ようと、父の跡を継ぐ皇太子は他でもない自分自身であるのだと自分を奮い立たせることができたからだ。
それを手放せと言われることは、死ねと言われるのと等しい。それ程までの重みが、釧の国の釧にはあるのだ。
にもかかわらず……どうしてこんな仕打ちができるのか。
踏み潰された歪な金の腕環を手に取った紫鷹は、妹や公子のことが分からなかった。
釧の誇りを捨てた異端者。あの二人を相手に紫鷹の常識など通じる気がしない。
もう、このまま国に帰りたい。しかし、妹が言う通り、手ぶらで戻れば父はきっと激昂する。廃嫡ならばまだいい方だろう。下手をすればその場で斬り捨てられ、紫鷹の母は冷宮送りだ。
最悪な未来しか想像できない紫鷹は、窓から異国の地の夜空を見上げた。どんなに遠くとも、釧で見るのと同じ星座があることに気が付き、紫鷹はほんの少しだけ息を吐いた。
その時。部屋の外から皇太子に呼び掛ける声が聞こえてきた。
入室を許可すれば、アストラダム語が話せるという理由で使節団に参加していた下級貴族の一人が、遠慮がちに顔を覗かせる。
『殿下、レイモンド国王がお呼びとのことです』
『国王が?』
それを聞いた紫鷹が真っ先に思い浮かべたのは、何かの罠ではないか、という疑念だった。
あの妹を手懐ける、得体の知れない国王。今度は何を考えているのか。どちらにしろ、紫鷹にはもう何も手が無い。ヤケクソで国王に探りを入れる機会と思えば、応じるのも有りか。
『準備をするので暫し待て』
通訳の男にそう告げて、紫鷹は立ち上がった。
『義兄上殿。突然で申し訳ないが、少々お付き合いを頂けないか』
満面の笑みで紫鷹を迎えたアストラダムの国王レイモンド二世は、ワインを片手に気安く妻の兄を晩酌に誘った。
『……何を企んでいるのだ?』
警戒しつつも、紫鷹は滞在中の国の国王を無下にするわけにもいかず、取り敢えず腰を下ろした。
『貴殿とは一度、腹を割って話してみたいと思ってな。ワインはお嫌いだろうか?』
銀の杯に注がれた異国の葡萄酒を疑り深く眺めながらも、紫鷹は杯を手に取った。
『酒は嫌いではないが、このような血のように赤く品の無い酒はあまり口にしない』
『シュリーは気に入っていたのだが。懐妊する前は、よくこうして二人で杯を酌み交わし互いの話をしていた』
ふんわりと微笑んだレイモンドは、愛しの王妃を見遣る時のように目を細めながら己の手の中の杯を見下ろしていた。
『あの紫蘭が? 男と二人で酒を? 男嫌いで有名なあの妹が、そのように懐くとは。貴殿はいったい、妹に何をしたのだ?』
鋭い眼差しを向けられても尚、レイモンドは柔らかく笑っていた。
『何をしたかと言われれば、特には何もしていない。それなのにシュリーは私の元に居てくれる。私にとってシュリーは、初恋の相手であり、生涯の伴侶であり、来世でも共にありたいと願う運命なのだ』
レイモンドの言葉に、紫鷹は鳥肌を立てた。
『そういう歯の浮くようなことばかり言って、恥ずかしくはないのか』
どうにも釧で育った紫鷹には、愛とやらを直球で表現する西洋の文化が理解できない。嫌そうな顔を隠しもしない紫鷹へ向けて、レイモンドは首を傾げた。
『妻への愛を表現することの何が恥ずかしいのだろうか? そうそう、あの皿も、シュリーからの贈り物だ』
国王の指した方を見た紫鷹は、目に入った皿を見て目を眇めた。
一見すれば見事としか言いようのない、藍花と呼ばれる白地に青い絵付けの施された磁器の皿。しかし、よくよく見ると絵柄に混じって釧の文字が隠れていた。
【我愛你小蕾】
(愛してるレイちゃん)
どう見てもそう書かれている。目を擦っても、睨み付けても、やはりそうとしか書かれていない。あの、玉座の間で見た例の書と同じ巫山戯た文言。
『……貴殿はあの妹の何処が良いのだ? あんな馬鹿げた悪戯を仕掛けてくる性悪女、私であれば願い下げだ』
皿から目を逸らした紫鷹がそう問えば、レイモンドはスラスラと語り出した。
『挙げればキリがないが。時々本気で目が蕩けるのではと思う程に美しい容姿は勿論、自信に満ち溢れた強い心も、そうかと思えばふと見せる恥ずかしがり屋な面も、少々苛烈で嫉妬深いところも、何でもできてしまう才能も、全てを見通すほどの聡明さも、キラキラと輝いているあの黒曜石のような瞳も、煙管を咥える時の妖艶さも、子供のような笑い声も、何もかもが愛おしい』
『……』
怒涛の甘い賛辞に、紫鷹は白目を剥いた。
『それに何より、やることなすことの全てが可愛い』
『可愛い? あの女が? 世界広しと言えど、あの女を可愛いと思うのは貴殿くらいだろう。私からすれば気が触れているとしか思えないが』
呆れ果てた紫鷹は、聞かされた甘ったるい惚気話を流し込むようにワインの入った杯を呷った。
『ん? なんだこの酒は、思ったより美味じゃないか』
『気に入って頂けたか? では、義兄上殿。もう一杯お注ぎしよう』
なみなみと注がれた杯を、紫鷹は再び呷り、あっという間に空にした。




