才槌頭
華奢で小柄ながらも強靭なシュリーと、純金の腕環。
ぐんにゃりと歪んだ国宝を見て、皇太子紫鷹は絶望したように膝を突いた。
『……釧……父上の、皇帝の証が……』
震えながら腕環に手を伸ばす兄の目の前で、シュリーは再び皇帝の証を踏み付けた。
『父上が何だと言うのです。あんなのはただの色狂いの爺ではありませんか』
『お前……!』
紫鷹は生まれた時から世継ぎとしての教育を受けてきて、父である皇帝が誰よりも偉いと教え込まれてきた。父に対する不満を持ってはいても、それを決して外に出さなかったのは、そうすることが大罪だと刷り込まれてきたからだ。
それなのに。この妹は、父の覚えがめでたいのを良いことに、異国の地で好き勝手に父のことを罵倒している。
父が気に入っている宦官を勝手に解放したことも、蚕の国外持ち出しも、磁器の技法の流出も大罪だ。絶対に赦してはならない。
そして仕舞いには異国の王の子を身籠り国宝の金玉四獣釧を踏み付けにした。
妹を罰しなければ、と身体中の血液を滾らせた紫鷹は、次の瞬間に思い知る。
誰ぞあの反逆者を捕らえろ、と口に出そうとして、ここが異国の地であると漸く思い至ったのだ。
それも周囲には、妹を敬う従者と何よりも妹を大事にしているこの国の国王がいる。手の出しようがなく、そして、妹がこの国にいる限り、どうしようとも妹を捕らえることができないと、今更になって気付く。
ここが釧だったならば。あの性悪の妹を火炙りにでも斬首にでもできたものを。
『雪紫蘭! このままで済むと思うなよ……!』
『あら。面白いことを仰いますのね、兄様ったら。どうする気ですの? 釧に使いでも出しまして? 釧から返事が来るのはいつになることやら。それとも私をこの場で亡き者にでもしようと? 剣すら持てない軟弱な兄様が? 一人で万の敵を屠ったことのある私相手に? ハッ! 片腹痛いこと』
ケラケラと悪鬼のように邪悪な顔で笑い転げる妹に、紫鷹は顔を真っ赤にして怒りに拳を握り締めた。
『いつか絶対に思い知らせてやる!』
目を血走らせてこの期に及んで理解力の乏しい兄が叫ぶのを見て、シュリーは笑みを消した。
『いい加減になさいませ。寝言ばかりほざいてないで、目を覚ましたら如何ですの? 兄様は父上や私に拘りすぎなのですわ。もっと広い視野を持たねば、とても君主など務まりませんことよ』
『な、な……ッ!』
女の分際で偉そうに説教する妹を憎悪の眼差しで見上げながら、言葉を失う紫鷹。
顔を赤くしたり青くしたりと忙しそうな兄を見下ろしながら、シュリーは更に追い討ちを掛ける。
『そんなに欲しいのでしたら、そんなもの幾らでも差し上げますわ』
歪んだ金玉四獣釧をゴミのように足蹴にしたシュリーは、兄の目の前でコロコロと回る腕環を鼻で笑い飛ばした。
喉から手が出る程に渇望した国宝が酷い扱いを受ける様にショックを受けた紫鷹は、暫くの間放心状態で金の塊を見下ろしていたのだった。
「なんだいなんだい、途轍もなく大きな霊力の波動を感じたんだが」
と、そこに駆け付けてきたのは、ジーニーとドラドだった。
「お師匠様、ご無事ですか?」
何事があったのかと状況を確認したジーニーは、ランシンの左腕に残る跡を見て何が起こったのかを把握した。
「って、うわぁ。君、まさか黒蛇釧の呪いを解いたのか? 無茶するなぁ。皇家の古代呪術なんて僕なら怖くて手が出せないよ。しかも解呪に腹の子の霊力を使ったな? 胎児相手に容赦なさ過ぎる。獅子じゃあるまいし。まったくどうなってるんだ君の能力は。化け物じゃないか」
「あら。金家の跡取りともあろう者が情けない。これしきの術程度どうってことなくてよ」
ニヤリと笑うシュリーの足元に蹲る皇太子と、ひしゃげた金の腕環を見つけたジーニーは、その後の兄妹のやり取りも察して更に呆れた顔を昔馴染に向けた。
「……君、本当に滅茶苦茶だな」
溜息を吐いたジーニーは、まだ放心したままの皇太子の前まで来ると、自らの左腕から琥珀の腕環を取り外して床に置いた。
『……は?』
目の前に置かれた腕環に、訳が分からないと顔を上げた皇太子を見遣って。ジーニーは、人の悪い笑みを浮かべた。
『殿下。釧に帰るのなら、僕の生家にソレを届けてくれません? 僕にはもう必要ないので』
『な、何を言っている? これは金家の家宝だろう? 跡継ぎの証じゃないか。本来であれば何をおいても守るべきものだろう! こんなに大切なものを手放すだと? とうとう気でも狂ったのか?』
『だから、もう必要ないんですよ。僕はこの国に残ることにしたので。釧に帰る気はありませんから』
あっけらかんと言い切ったジーニーを見て、皇太子は更に混乱した。目の前で国宝が踏み付けられ、自分の非力さを思い知らされた挙句、他家の家宝とは言え命よりも大切にすべきはずの腕環を無価値のように扱う公子。
自分の中に確固として根付いていた常識が音を立てて崩れていくような感覚に、紫鷹は途方に暮れた。
『兄様。よくよくお考えになった方がよろしいわ。どちらにせよこの国でこれ以上できることなどないでしょう? このまま何の成果も上げず釧に戻れば、怒り狂った父上に廃嫡されるかもしれませんわね。私に取り縋るのであれば、助けて差し上げないこともなくてよ』
『巫山戯るな……! 誰がお前なんぞに頼るものか!』
目に涙を浮かべた紫鷹は、それだけ吐き捨てるとひしゃげた金玉四獣釧と金家の一玉琥珀釧を大事に懐に抱えて走り去って行った。




